「寄り添える人とおかしな人」ピアノ・レッスン(1993) つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
寄り添える人とおかしな人
この作品は、女性がまだ一人では生きていけなかった時代に、男性の言いなりになるのではなく自己を貫こうとした人の物語だ。
興味深いところとして、話すことが出来ない主人公エイダのことを「おかしな人」と周りが扱うところだろう。
確かにエイダは変わり者だろうし、時代背景を考えれば尚更「特別に」見えたかもしれない。
しかし当然ながら話せないからといって「おかしな人」ではないはずだ。少なくとも話せないことが理由になることはないはずである。
それでもエイダは頭がおかしいと扱われる。
そう決めつける人たちは、自分とは違うからとか、常識と違うからという理由であろう。その心は自分とは違う他者は受け入れないという姿勢でもある。
一方で、ハーヴェイ・カイテル演じるベインズは、他者に寄り添う人物として描かれる。
現地の人の言葉を理解し、彼らと同じように顔に入れ墨もする。
そしてただ搾取するだけではなく現地の人も女性に対しても対等であろうとした。
エイダを部屋へ呼ぶために鍵盤一つを取引材料にした。一方的に奪うのではなく「取引」である。
もしこれがエイダの夫と逆の立場であったらエイダの夫はただ従わせようとしたに違いない。
そんなベインズが話せないエイダと心を通わせることになるのは必然だったのではないかと思う。
女性の権利が蔑ろにされていた時代に一人の人間として扱ってくれるベインズ。
自分というものが強すぎたエイダにとってはベインズ以外に選べる人などいなかったように思える。
他者とのコミュニケーションという部分は現地の人と入植者のすれ違いとして劇が用いられた。
少々過激な劇で、影絵を使って切りつけるシーンやシーツを使っての生首など、工夫を凝らした演出で仕上げたが、現地人にそのトリックは理解されず大騒ぎになった。
自分が理解できるから通じるはずと考えてしまうのは危険だ。
言葉も通じず文化も違う。何より劇を観るのも初めてだったであろう現地人に全く寄り添えていない内容の劇だった。
他者に寄り添えるベインズと寄り添えない他の入植者。そのギャップが鮮明に表現されていて、ある意味で仰々しい。
その仰々しさは中々過激なストーリーテリングを持つ本作全体に及んで、観る前に想像していたような甘さは全くなかった。
ジェーン・カンピオン監督は「パワー・オブ・ザ・ドッグ」でも中々過激だったものね。
