パンと植木鉢

劇場公開日:

パンと植木鉢

解説

撮影現場で交錯する出演者の心の変化をドキュメンタリー風に描き出す野心作。監督・脚本・編集はモフセン・マフマルバフ。撮影はマームード・カラリ。音楽はマジド・エンテザミィ。出演はミルハディ・タイエビ、アリ・バクシほか。

1996年製作/78分/イラン・フランス合作
原題または英題:Un instant d'innocence
配給:オフィスサンマルサン配給(アジア映画社=オフィスサンマルサン提供)
劇場公開日:2000年7月22日

ストーリー

革命運動のさなか、少年時代のマフマルバフ監督(モフセン・マフマルバフ)に刺された元警官(ミルハディ・タイエビ)が監督のところへ訪ねてきた。監督はあの日の出来事の映画化を決意。難航するオーディションの末、どうにか配役が落ちついた。監督、元警官それぞれが若き日の出来事を少年達にに語って聞かせ、演技指導をする。元警官は、毎日彼に時間を尋ねてくるうちに芽生えた少女への片思いを警官役の少年(アリ・バクシ)に告白。この映画を通して、刺されて以降会うことのなかった少女と再会するのが元警官の本当の目的だったのだ。一方監督は警官の気をそらすのに協力した少女役を探していた。そして当時行動を共にした従妹を訪ね、彼女の娘に出演依頼をするが断られてしまう。結局監督役の少年(アマル・タフティ)と結婚を約束している従妹(マリヤム・モハマッド・アミニィ)に白羽の矢が立った。そして撮影。警官役の少年は少女に告白するために買った鉢植えを持っていたが、紛失したため撮影中断。再開された撮影現場を目にした元警官がすべてを悟る。少女は監督とグルだったのだ。彼が現場を立ち去り撮影はまた中断。夢が打ち砕かれた元警官は少年に、少女を撃てと指南。撮影再開。パンの下にナイフを隠した若き日の監督が少女と共に警官に近づく。息を飲む瞬間、時間を尋ねる少女の眼前にパンと植木鉢が差し出されるのだった。

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映画レビュー

4.5並列、混線、そして現実を超えた現実へ

2023年2月2日
iPhoneアプリから投稿

アッバス・キアロスタミ『クローズ・アップ』やジャファール・パナヒ『人生タクシー』等と同様、映画の中で映画を撮ることをテーマにしたメタ映画。

メタ、と聞くとなんだか胡散臭い気もするが、イラン映画におけるそれは、観客をスノッブに裏切ったり作家的内面をこれみよがしにひけらかしたりするための飛び道具ではない。そうではなく、別個のリアリティーを並列的に立ち上げること。そのためのメタ演出。映像という同一線上に並べられたいくつもの異なるリアリティーは、互いに互いを侵食し合い、ついにはどっちがどっちだか判別がつかなくなる。単純な二項対立の図式や一義的なテーゼはことごとく解体される。そしてそこにただのリアリズム(自然主義とかネオレアリズモとか)ではリーチしえない、言ってしまえば現実を超えた現実、みたいなものが顕現する。

現実を超えた現実、なんていかにも韜晦的な言い方だが、今はそうとしか言いようがない。それでいて「さあオレは今からすごいことをやるぞ!」みたいな力み方はせず、あくまで素朴なコメディドラマの語彙と文法だけで一本撮り上げてしまうものだからイラン映画はすごい。

本作ではマフマルバフが17歳の頃にナイフで傷害した警察官(事件も人物もすべて本物)とともに映画を撮ることになる。その内容は、当該の傷害事件を街の若者に再演させるというもの。つまり本作には少なくとも3つの位相がある。一つは『パンと植木鉢』という劇映画の位相、もう一つはマフマルバフによる警察官の傷害という現実の位相、最後は3人の若者が傷害事件を再演するという映画内映画の位相。そのそれぞれの位相上にそれぞれのリアリティーが蓄積し、互いに交じり合い、映画は劇ともドキュメンタリーとも再現ドラマともつかない夢幻的様相を呈する。

特に序盤、マフマルバフが若き日の自分役の青年と一緒に傷害事件の共謀者だった女の自宅を訪ねるシーンは白眉だ。マフマルバフが「君の娘を君役として出演させたい」とゴネている間、女の娘がお茶の入った盆を青年のところに持っていく。「飲む?」「いやいらない」という何気ないやりとりが何度か続いた次の瞬間、二人は突然シリアスな表情になって警官襲撃の計画を確認し合う。二人が織り成す劇映画『パンと植木鉢』のリアリティーに、ふと在りし日のマフマルバフと女が奏でた現実のリアリティーがラジオの電波干渉のように混ざり込み、そして消えていったのだ。

結局この娘は青年の相手役にはならないのだが、それにしてもすごいシーンだった。虚を突かれたというか、お前のいる現実だけが現実じゃねーんだぞ!安心しきって座ってんじゃねーぞ!と頬を引っ叩かれたかのような心境だった。

細部ばかりに目を向けたが、全体的に脚本が凝っているのでメタとかそういうことを度外視しても楽しめる。なんとなく展開されたかと思われていたシーンが中盤から終盤にかけて一挙に繋がっていくカタルシスも相当なものだ。随所で静かに炸裂するシュールなギャグパートも愛おしい。

概してものすごく上質なイラン映画だった。日本に入ってくるイラン映画は往々にして傑作揃いなんだけども、その中でもとりわけ面白かった。

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因果

4.5世代のギャップ

2020年4月27日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

若い時をまっしぐらに生きた監督。それをもう一度描いてみようと映画にしても、同じようにいかない。若い頃、人類平等の革命に燃えていた監督は自分の意思を遂行したけど、世代の違う若者は同じ感覚ではなく彼のようにはなれない。監督の若き時代はナイフとピストルでも、若者は食と植物である平和のシンボル、`パンと植木鉢という平和主義?

モフセン監督の十代の設定で、当時を再現するという構成は実にユニークで面白いが、もう時代背景が全く違う。老人が『今の若者は』というが、それと同じ。

モフセン監督が十代の時といえばシャーの時代だから、その後、この映画を撮っている時には明らかに、イスラム原理主義が強くなって、コーランを中心に社会規範が出来上がってきていると思う。シャー時代の若きモフセインは時代的に社会革命を望んでいた時代だ、天皇シャーの追放革命のあと、ホメイニをヨーロッパから呼んで、リーダーにしたわけだから。

イスラム教の浸透で善悪の違いは明確に教えられ、たとえ、映画撮影で本当のことでなくても、若者の心の中にはモスク、学校教育での教えはここで現れていると思う。しかし、警察官(モフセン監督に、映画に出たいと申し込んだ当時刺された警官)は革命時代の人だし、元警察官。花をあげようと思っていた女性が、それが、モフセンの仲間であると分かれば憎しみにつながるかもしれない。

今ここでモフセンの歴史を検索してみよう。推測だけで話してもあまり意味がないと思うので。どう調べてこう決定されたかか定かでないがFlickchartではこの映画がモフセンの中でベストにあがっているが、理解できない。1979年の2月にシャーが追放されている。モフセン監督はそのまえの、シャー権力の横暴、浪費、欧化主義などに反対する人々の一人だったと思う。反体制派で警察を刺すとという内乱分子の一人だったようだ。

この映画でいくつか気になったことがある。まず。路上で子供と物乞いをしている女性がパンをもらったら、メルシーといったが監督はフランス語を使うなといった。彼女も役者で、当時はシャーの時代で、原理主義との端境期だからフランス語はつかってもいいように思えるが、モフセン監督はシャーを倒そうとしていたから、だめだという言葉を使ったとおもった。

他に、1979年以前の状態を映画にしているんだったら、女性全員がブルカを着用していただろうか? 革命が1979年だから、ホメイニ体制に入っていいないのにおかしいなあ?

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Socialjustice

3.0パンと植木鉢に込められた願い

2013年6月5日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

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知的

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Chemy