「頑張れカジモド!ディズニー残酷物語」ノートルダムの鐘 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
頑張れカジモド!ディズニー残酷物語
ディズニー作品には決して明るくないが、まさか、こんなにも暗く残酷なディズニー映画があったとは…。
原作は、ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』。映像化のみならず、オペラやミュージカルと、これまで様々な分野で表現されてきた作品。
結論から言えば、ディズニーが今回の映像化で描き出してみせたのは【ブサイクはどんなに力強さと綺麗な心、器用な手先を持とうとも、身も心も綺麗な真のナイスガイには決して恋愛では敵わない】という事だろう?ある意味、恐れ入った。
調べると、原作とは大幅に異なる人物描写や結末を迎えているので、大まかな相違点についても触れながら批評していく。原作の持つ悲劇的・悪辣的な要素を、子供向けに調整し直した結果、一見差別を否定する美しい物語になったようで、別の差別意識が見える結果になってしまっていると思うからだ。
❶カジモド
主人公カジモドは、「出来損ない」という意味を持つ言葉をその名に当てられた20歳の青年。奇形児故に見た目が他の人々とは違う。だが、鎖を引きちぎる程の怪力や、大聖堂を縦横無尽に移動出来る高い身体能力。それとは対照的に、街や人々の精巧な模型を作り出す手先の器用さ。何より、恥ずかしがり屋で自信なさげながら、誰よりも優しい心を持つ。フロロー判事に鐘撞き堂に幽閉され、友達はガーゴイルの彫像トリオのみ。
原作では、カジモドはくる病という骨格の異常による病気と設定されているが、今作では具体的な病名は明かされていない。また、原作では大聖堂の前に捨てられていた出自不明の捨て子であるのに対し、今作ではジプシーの間に生まれたはずの人物として描かれている。この“はず”というのは、彼の肌の色(もしかすると、父親はジプシーではない可能性がある)含め、ルーツを明確にするのを避けた印象があるからだ。
原作のラストでは、フロローを殺害し、処刑されたエスメラルダの亡骸と共に白骨化してしまう。しかし、今作のラストでは街の人々から受け入れられる。恋に破れ、友人となったフィーバスとエスメラルダのキューピッドになりこそすれ、明るい結末が与えられたのは喜ばしい。
とはいえ、わざわざ恋敵のキューピッド役までやらせるのは余計だったように思う。全てが与えられる必要はないと思うが、目の前で好きな人と恋敵の熱いキスシーンまで見せられる(しかも、自分の生活スペースで)という完膚なきまでの失恋を経験した挙句、2人の手を繋がせた瞬間の彼の心を思うと、涙を禁じえない。というかカジモド、お前何満足気な笑顔してるんだよ?本当は失恋のショックだって癒えてないだろうに、エスメラルダの気持ちを汲んだのか?何て良い奴なんだよ!俺はお前を抱きしめてやりたいよチクショウ!(笑)
❷エスメラルダ
そんな彼に、唯一対等に優しく接する“人間”がヒロインのエスメラルダだ(後述するが、フィーバスは決して対等ではないと思うので)。彼女は、美しい見た目と優れた身体能力を持ち、自信に溢れ誰に対しても平等だ。ジプシーとしてフロロー判事や兵隊から目の仇にされながらも、懸命に日々を生きている。おまけに、判事から歪んだ慕情まで抱かれる。だからこそ、カジモドをコンテストに上げた事を詫びるし、判事の命に背いたフィーバスを見直して助けもする。
しかし、結局最後は逞しく勇敢でハンサムなフィーバスと結ばれる。勿論、彼女にも相手を選ぶ権利はある。だが、出来れば彼女には最後までカジモドともフィーバスとも対等な友人として付き合い続けてほしかった。例えそれが、カジモドに恋や失恋、譲る優しさを経験させる役割だったのだとしても。
実は、原作の彼女は早い段階でフィーバス(原作ではフェビュス)と恋仲となり、カジモドを庇いこそしつつも、醜い姿の彼を直視出来なかったそう。最期は歪んだ慕情を示すフロローを拒んだ事で処刑されてしまう。今回の映像化に際し、1番美化されているかもしれない。
❸フィーバス
カジモドの恋敵となる、護衛隊長のフィーバス。陽気でハンサム、おまけにフロローの命に背いてでも人を助ける正義感の強さもある好青年として描かれている。
典型的なナイスガイ過ぎるが故に隙がなく、観客と距離が出来るキャラクターとも言える。だからこそ、彼が最後にエスメラルダと結ばれる事に納得がいかない気持ちが芽生える。観客はカジモドに感情移入して物語を追っている以上、カジモドとエスメラルダのロマンスの方を応援したくなるのだから。
だが、私がフィーバスとエスメラルダが結ばれるのを祝福出来ないのは、更に別の理由がある。それは、ジプシーの隠れ家である「奇跡の法廷」にてエスメラルダと再会した際、彼女の抱擁を受けた瞬間、一瞬カジモドの方に「へへっ、悪いな」と言わんばかりの嫌味な目線を送っていたのを見逃さなかったからだ。直後に彼の恋心を察してか、カジモドの活躍も褒め讃えるが、それはカジモドの気持ちを察してバランスを取ろうとしたからこその行動であって、根っこの部分では先ずはカジモドより優位に立てた事に満足していたはず。彼の本質は、あの一瞬にこそあるのだと思う。だからこそ、判事との戦いを通じてカジモドと友人となった後も、彼はカジモドと対等だとは言えないのだ。容姿の美醜問題以前に、内面的にフィーバスにはカジモドより優位に立った優越感があったわけだし、実際エスメラルダと結ばれたのだから。
実は、原作でのフィーバスは更に酷い。婚約者がいるにも関わらず、エスメラルダと恋仲となり、彼女の処刑を助けもせずに婚約者の元に帰るのだそう。正直、完璧なハンサムとして補正を掛けまくって描くのならば、徹底して好青年にしても良かったのではと思う。あの一瞬の目線が演出として狙った物であるとするならば、作り手はどれだけカジモドに同情させたいのだろうか。ある意味、フィーバスや作り手こそ、今作最大のヴィランである気もする…。
❹フロロー判事
ヴィランとなるフロロー判事の徹底した差別主義者ぶりは、中々に魅力的だった。ジプシーは勿論、平民達すら下に見てバカにしている台詞もあり、自らの地位と権力に酔いしれている。差別も拷問も処刑すらも、自らの行い全てを清く正しい「正義」として認識している迷いのなさは、最終的に破滅するのが我々には目に見えているからこそ、滑稽で愛らしくすらもある。
クライマックスで後ろ手にナイフを持ちカジモドに近付く不気味な姿や、エスメラルダを剣で斬ろうとした瞬間の赤く光る悪魔のような目つきが抜群。業火で罪人を焼こうとした自分が炎に焼かれるという最期も皮肉が効いている。
原作では、そもそも判事ではなく司祭補佐であり、聖職者になるため勉学に励んだ人物だそうで、エスメラルダを手に入れる事に執着するあまり手段を選ばなくなっていった様子。人間らしい弱さが見える人物造形だが、今作でヴィランとしての鋭さを増して再構築したのは英断だったと思う。
❺ユーゴ、ヴィクトル、ラヴィーン
忘れてはならないのが、カジモドを励ます彫像トリオだ。ひょうきん者のユーゴ、長身で真面目なヴィクトル、母親のように優しく励ますラヴィーンと、それぞれ個性が際立つ。
基本的にカジモドの前以外では彫像に戻る為、彼の生み出したイマジナリーフレンドの可能性はあるが、ヤギのジャリを一瞬驚かせる描写や兵隊を撃退する際に手伝ったりもしているので、その辺がイマイチハッキリとしない。
だが、出来れば彼らは、特別な力を持った心優しい生きた彫像達であってほしい。なぜなら、もし彼らがカジモドの生み出したイマジナリーフレンドならば、“真の味方は自分のみ”という悲しみに満ちた回答が成り立ってしまうからだ。
また、彼を見た目の美醜関係なく受け入れ励ますのが、神とは対極に位置する悪魔の姿をしたもの達というのも何とも皮肉。
❻ラストについて
ラストでカジモドを受け入れた街の大人達の中には、少なからずお祭りの際に彼を笑いものにし、野菜を投げ付けた人々も含まれていたはずだ。だが、そういった大人達はモブとして一緒くたにされて、カジモドを受け入れてワイワイとパレードを始める。
そこはまず、今まで彼を差別していた大人達こそが自らの行いを反省し、彼に詫びを入れるべきだろう。
そうする事で、カジモドが「人を許す強さ」を身につける様子だって表現出来たはずだ。
彼を1番に受け入れるのが幼い少女というのも、一見美しくはあるが、純真無垢な子供には本質が見えるとでも言いたげで、実はタチが悪い。“純真無垢な子供だから、差別せずに彼を受け入れられる”のではなく、大人達こそが“かつて自分もフロローと同じく差別をしたが、その過ちを認めて謝罪する。フロローと同じ過ちは犯さない”という姿を子供達に見せるべきではないか?
❼まとめ
書いていて何度も思ったが、そもそも今回の映像化は、原作のあらゆる要素を明るい方向へ調整し直した結果、ほとんど別作品になってやしないだろうか。元々は、カジモドの悲哀性をラストに据えた物語であり、醜く生まれながら、1人の美女を愛してしまった哀しい怪物の純愛とも取れる。他の登場人物達も、それぞれが人間的弱さのある、決して一側面では語れないものだ。
しかし、それらを手直しして再構築した結果、エスメラルダやフィーバスは眉目秀麗で清廉潔白な男女に生まれ変わり、最終的に完璧超人同士でくっ付く。例えカジモドがどんなに心優しく命懸けでエスメラルダを守るため奔走しようとも、ブサイクは結局美女と恋愛していいステージには上がれないのだ。
なのに、街の人々に受け入れられた(人間扱いされた)事で、ハッピーエンドという空気を醸し出す。その中には、彼を差別した人々も少なからず含まれるはずなのに、それらの人々の謝罪は無いままに。初めて外の世界に受け入れられ舞い上がる純真無垢なカジモドを、悪意あった外の世界は歓迎という形でかつての罪を蔑ろにし、共に進もうとする。これは、実は原作以上に残酷で鼻持ちならない作品になってやしないだろうか?
どうやら、今作の2年後に中編アニメとして『ノートルダムの鐘II』が制作され、そちらではカジモドにも美女とのロマンスが与えられるそうだ。恐らく、当時も今作のカジモドの失恋について様々な意見があったからだろう。何故、これほどまでカジモドの失恋に納得行かないと思ってしまうのかと言うと、カジモドに見た目以外の人間的欠陥が無いからだろう。だから、失恋すれば必然的に見た目の美醜問題に帰結するしかないのだ。
原作を大幅に改変した結果、後々そういうフォローを加えねばならなくなった以上、今作は決して成功作とは呼べないという何よりの証左だろう。
実に17年後、真に偏見や差別に対して多様性を受け入れる事を提示し、ラストに強烈な一撃までお見舞いする『ズートピア』という名作が世に放たれるのだから、今作はまだまだ発展途上で、長い道のりだったんだなと感じる。
ただ、黄金期再来とまで言われたという90年代ディズニーの繊細で緻密なアニメーション表現や、美しい背景、何よりミュージカルとして素晴らしい楽曲の数々が披露されているのは間違いない。
今作が掲げるメッセージは鼻持ちならないが、この点数はそうした素晴らしい表現の数々と魅力的なヴィランであるフロロー判事、何より今作だけでは決して報われきれていない純粋なカジモドに対して捧げる。