冬冬(トントン)の夏休みのレビュー・感想・評価
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田舎の日常は良いこときれいごとばかりじゃない
これはいつの時代の話なんだろうか、叔父さんの服装などから、1970年代のような気がする。
冬冬はすぐに田舎の男の子連中に馴染んで、仲間とつるんで毎日毎日外遊び。
夏休みには、子供は日がな一日外で遊んでいる時代で、大人が介在しない、子供だけの世界がある。
日本人がノスタルジック、と感じるにはちょっと違和感があるかも、昭和の半ば生まれの自分でさえ、すでにあんな風ではなかったから。
「となりのトトロ」に影響を与えたのでは、と思った。
トントンとティンティンの兄妹がひと夏を過ごす医師の祖父宅は、元は日本人が住んでいたりっぱな家。卒業式に「仰げば尊し」が流れてエンディングには「赤とんぼ」、日本統治下だった頃の名残が見えるが、だからといって意図的に日本統治時代から引きずっている何かを強調するわけでもない、ただその時の台湾の風景を映しただけと言う感じ。
1980年代に台湾に行ったことがあるが、お年寄りは日本人と分かると日本語で話しかけてきて、日本人が嫌われている感じはしなかった。運転手が日本語を話すタクシーにはボラれましたが。
普通の田舎の日常だが、結構いろんなことがある。いいこと美しいことばかりでなく、闇やうんざりするようなことも多々あるし、大事件もある。
子供が恐れる知的障碍者の存在、強盗に犯罪、知的障碍者を孕ませる性犯罪者に、身近には悪い人ではないが彼女を孕ませて家から出禁をくらうチャラい叔父もいたりする。
ティンティンはずっとお人形みたいなかわいい服を着ていて、なんだか異質。
すぐに田舎の子供たちと同化した要領がいい兄トントンとは違って、お母さんがいない、知らない場所に連れてこられて不安でいっぱいだったんでしょうね。
口はきかないが優しい知的障碍者のハンズに寄り添って寝ていて、可愛そうでした。
小さい妹弟は年長の子供には足手まといで、好きに遊べないから追い払われるが、邪険にされてもされても兄ちゃん姉ちゃんの後をついてきては気を引くべくわがままを言ったり拗ねていたずらしたり。裸で遊んでいる兄ちゃんたちの服を全部川に流してしまうティンティンと、素っ裸で里芋?蓮?の大きな葉で前を隠して家まで走る男子に笑ってしまった。
やられた兄ちゃんは、懲りずに着いてくる妹を突き放して、「お前俺たちの服を流したしな」と言って容赦なく自分のしたことの責任を突き付ける。これが大人が介在しない子供の社会です。
冬冬の母は冬冬に「何でも妹に譲ること」を約束させていたが、それ日本と同じ。親が介入すると年長の子、特に姉は、お姉ちゃんだから我慢するのが当然、妹が悪くても泣けば姉が叱られる。妹が悪さをすればちゃんと見ていない姉が悪い。「小さいんだから」を理由に年長の子供に年少の子の事実上の下僕になれと言ってるのと同じなんで、年長の子には不満が溜まる。親が見ていないところでガツンと妹にかましてやりたくもなるでしょう。
祖父の家には女の子もいるのに、ティンティンは兄ちゃんたちの方がいいんですね。
すべてが変わってしまった世界では、なじみがあるのは兄だけだし。
母の病気で田舎の祖父(医師)の家に預けられた都会の裕福な家庭の兄妹のひと夏、という、こう言ってはなんだが類型的な日常描写話に、冒頭に「仰げば尊し」の合唱、エンディングの台北に帰る兄妹の車が去っていくところに「赤とんぼ」で、見ている側の涙腺スイッチを入れて佳作度を上げた、ちょっとあざとい作品と思ってしまった。
口裂け女並みの不気味な噂のハンズが実は子供好きな優しい人、そこまでは良いけれど、ティンティンのために木に登って落ちて意識不明で流産、これは作為的がすぎて鼻につきました。
ハンズは、ちゃんと顔を見たらかなりの美人で、彼女のお父さんは心配でたまらないと思う。現に複数回妊娠させられている。このあたりが田舎のワイルドさで、本人そっちのけでハンズのお腹の子をどうするか、周囲が決めていく。医者側としては優性思想が当然で、常識だったよう。子供を産んだらまともになるかも、という発想のもとに中絶を拒否するハンズ父の理屈に唖然とした。障碍者の妊娠や中絶というデリケートな問題への対処は興味深かった。
ホウ・シャオシェンは、現在は認知症なんですね。。。
「悲情城市」はとても良かったです。
いつか見た風景
冬冬の夏休み
小学校を卒業し、秋から中学校へ進学する冬冬。少学生最後の夏休みを母方の祖父母の田舎で過ごすことになる。最初は、冬冬がゴムが切れたハイソックス(病気の母は気づいていないのか?)に靴を履いていて、田舎の子らはビーサン。仲良くなると、冬冬もビーサンになった。田舎の子がラジコンカーに興味を持っても、のちに予測不可能な動きをする亀と遊ぶようになる。思春期の入り口の冬冬は、大人の世界を否が応でも見ることになる。観る者に、なんとも切ない思いにさせられる。どうしても、主人公の冬冬に感情移入して観てしまうが、妹の婷婷や寒子にも感情移入させられた。冬冬お兄ちゃんたちの仲間に入れてもらえない婷婷が、同じように誰にも相手にされない寒子との心の交流が観る者の胸を打つ。寒子は障害がある女性として描かれているが、婷婷を危機一髪助けるシーンや、婷婷と一緒に寝た後の母になれなかった寒子が婷婷の髪にふれる優しい仕草のシーンは心がゆさぶられる。婷婷との心の結び付きがあるからこそ、婷婷との別れのシーンでは、別れの場に見送りに行きながら、婷婷の声をあえて聞こえないふりをして台北へ送り出したと思う。ここも、切なく泣けてくる。
誰もが通る無邪気な子供時代。心も身体も少しづつ大人になりつつある時代。
どこか懐かしく、自分自身のほろ苦い記憶を呼び覚ましてくれる映画でした。
以下は、私の妄想です。
冬冬は、子供のままいたいので、亀と遊んだり川遊びや木登りをしつつ、母のことを誰よりも心配しています。
婷婷は、自分自身をGirlではなくLady だと思っているので、麦わら帽子を被り、携帯扇風機をどこへ行く時も持っています。また、大事な扇風機を怖いしキライな亀とは交換しません。さらに、男の子のようにハダカになって川で泳ぎません。パンツもお気に入りのものしか穿きません。
冬冬 婷婷 寒子のその後の人生の妄想
冬冬は、兵役を終えた後、アメリカへ留学してハーバードメディカルスクールを卒業して、母と同じような病気に苦しむ人を救う為に台北大学医学部附属病院で医師とし活躍しています。
婷婷は、大きくなって、あの夏の日の寒子の思いを理解するようになって、イギリスのオックスフォード大学医学部へ進み、寒子のような病気の人の研究をしています。いずれ、台湾へ戻って寒子の治療をしたいと思っています。
寒子は、寒子のことをすべて受け入れて愛してくれる男性が現れて結婚しました。穏やかに暮らしています。子供が欲しいと思っていますが心配です。婷婷が台湾へ帰ってきたら再会を楽しみにしています。
まるで昔の日本のよう
まるで1970年代の日本の田舎のような風景にノスタルジーを感じてしまう癒し系の映画だ。外の風景だけでなく、主人公の少年が夏休み中に住む祖父の家も日本家屋そのものだ。
肝心のストーリーはまとまりのないちぐはぐ感は否めない。環境映画のようでもあるが、事件は色々と起こる。ただ、結局は何事もなかったように過ぎ去ってしまうので、やや肩透かし感もあるが、あえてドラマチックな展開を避けたのかもしれない。主人公の母親が死ななかったのも、妹が列車にひかれなかったのも、親しくなった田舎の子供が川で溺れなかったのも、その表れだったのかもしれない。
主人公の少年が地元の少年たちと仲良くなるエピソードは面白いが、地元の少年たちの顔のアップが余りないせいか、主人公との親密感がイマイチ感じられない。
また、主人公の妹がかわいそうだ。少年たちの仲間に入れてもらえず、最後は慕っていた冬子に呼びかけても無視されてしまった(聞こえなかったか?)。
ラストシーン
夏休みが終わり、トンローから台北へ。兄弟を乗せたセダンが走り去るエンディング。そのままエンドロール。全てがワンシーンのロングショット。まるで自分がその場に入り込んだように自然。ミニシアターに完璧。
懐かしさと幸福に満ちている
侯孝賢の映画にはよく鉄道が出てくる。本作もまた、鉄道での移動が欠かすことの出来ないシナリオとなっている。
母親が入院をするために、面倒を見る者のいない小学生の兄妹は、夏休み祖父の家で過ごすことになる。子供だけの長旅は不安であるため、若い叔父とその恋人が台北から故郷へ帰るタイミングに合わせて、彼らと一緒に列車で祖父の住む町へと向かうのだった。
列車に乗るや、新しく買い求めた服へ着替えることで頭が一杯の恋人。その恋人の些末なわがままに振り回される叔父。この二人が幼い子供を引率する責任を全うする若者ではないことが、旅が始まると同時に観客に知れる。
そのような未熟な若者をよそに、主人公のトントンは妹の面倒を見てやる。さらにトントンは、途中駅で列車に乗り遅れるという叔父の失態が、祖父に知れることのないように慮るという、思慮の深さを見せる。
さて、不思議なことに、トントンたち兄妹が台北に帰るとき、列車ではなく父親が運転してきた自動車に乗っていくのだ。
母親の容態も安定し、夏休みも終わり近くになったので台北へ帰る話しになるのだが、はじめはあの頼りない叔父が再び列車で二人を連れていくことになる。
だが、いよいよトントンたちが祖父の家を出発する日、彼らの父親が自動車で迎えに来ている。
映画の中では、台北へ戻る手段が変更された理由についての説明はないように思う。
ただ、父親が迎えに来なければ、トントンがこの夏出会った人々を知ることにはならない。ほんの一瞥程度でも、その人々との邂逅を通して彼が洞察しているのは、自分の息子がひと夏に様々な幸福な出会いを経験してきたということである。
この経験をしたトントン本人と同じくらいに、この父親もまた、幸せを感じているのではないだろうか。
この幸福な父親への眼差しを映画の最後にもってきたかったために、叔父が列車で連れ帰るシナリオを変更したのだろうか?
そのために不自然なシークエンスの繋がりになっていたとしても、その綻びを補って余りある幸福感に包まれた。
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