劇場公開日 2020年11月7日

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「西洋絵画史に根差したアヴァンギャルド」天使 L'ANGE じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0西洋絵画史に根差したアヴァンギャルド

2020年11月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

1982年に発表され物議をかもした、パトリック・ボカノウスキー監督が5年の歳月をかけて個人製作した実験映画。
僕は最初のパッケージ化の際に、今はなき新宿TSUTAYAで何十年も前に借りて観ているはずなのだが、当時は単なる自己満足のアートフィルムとしか思えず、退屈だったという淡い記憶しかない。

齢を重ねた今、ほぼまっさらの状態で映画館で観直してみると、思いのほか集中して楽しめたし、むしろ猛烈に自分好みの「美術史的」な文脈に則った作品であることを確認できた。
まあ、上映中一番思ってたのは、「このままポケモンショックになったらどうしよう」ってことでしたが(笑)。

冒頭、闇のなかで明滅する光源によって、胎児とも機械ともつかない映像が浮かび上がる。
朧げだったイメージはやがて鮮明さを増し、それが螺旋階段とはしごと人影、あるいは廊下の光景を魚眼レンズのようにとらえた映像であることが判然としてくる。
濃厚なピラネージ(牢獄迷宮図で名高い画家)の成分。若干のエッシャー分、バロック分、ボス/ブリューゲル分も。映画的文脈ではドイツ表現派のサイレントを想起させる。

やがて、廊下の奥の部屋で、天井からぶら下げた人形を、執拗にサーベルで切りつける仮面男の様子が、いつ飽きるともなく繰り返される。
僕の大好きなダリオ・アルジェントの『サスペリアPART2』を思わせる、呪物とスラッシャーの魅惑的な出合いだ。
奇怪な人形を配置した部屋を定点から窃視する感覚は、どこか現代芸術家クリスチャン・ボルタンスキーの「影の劇場」を想起させるが、それ以上に、薄闇の部屋に背中を丸めてぽつんと座る男のヴィジュアル・イメージは、フランシス・ベーコン作品からの影響を強烈に思わせる。ストップモーションを多用した多重露光のような絵作りには、マン・レイからの直接的な影響も見てとれる。もちろん、誰もが一番感じるのは、ヤン・シュヴァンクマイエルとの類似性だろう。

続けて、額の禿げあがった男が座る書き割りのような部屋に、老いたメイドがはいってきて果物の乗った机にミルクピッチャーを置くのだが、それが落ちて割れるという描写が延々反復される。
彼らを包む闇と、それを貫きスポットライトを当てる強烈な光の対比は、まさに17世紀「バロック」のキアロスクーロ(明暗法)だ。カラヴァッジョやレンブラントに代表される、シーンを劇的なものに変える舞台効果としての闇と光の演出が、ここでは映像表現としてそのまま再現されている。
メイドはそれこそフェルメールの絵画世界から抜け出してきたかのようだ(『牛乳をそそぐ女』)。男の座る部屋もフランドル絵画風だし、机上に置かれた果物は当時の静物画そのまま。少し悪くなりかけた果実と、危うい場所に置かれて今にも落ちそうな容器の取り合わせは、「ヴァニタス」(人生のむなしさの寓意)といって、きわめて一般的な静物画のお約束である。
まずはフランドル絵画の「まねび」であるように見えるけれど、人によっては、スペイン・バロック(ベラスケスと『ボデゴン』)を想起する向きもあるかもしれない。
何にせよ、ここで繰り広げられているのは、西洋バロック絵画をモチーフとした「活人画(タブロー・ヴィヴァン)」(実際の人間を用いて絵画を表現するという西洋の伝統的な見世物の一種)なのだ。

割れたピッチャーからあふれる乳白色の液体は、次の乳白色の湯に浸かるシーンの文字どおり「呼び水」ともなっている。
このあと続く風呂場で体を洗うピエロ風の男のコミカルな所作(出だしはまさにシュワンクマイエル)と、斜めに傾いた部屋(ブラザーズ・クェイの制作するデコール【ミニチュアのセットを箱に収めた舞台装置】のような)で服を身に着けてゆく男の一連の動きは、一転して「サイレント映画」へのオマージュにあふれた「映像ならではのアクションの面白さ」に重点が置かれる。

ところどころで挿入される螺旋階段のイメージや、天井側から各部屋を窃視するようなカット、廊下を進むコマ送りのカットなどからすると、どうやら映画の大きな枠組みとしては、なんらかのアパートがあって、そこの住人のようすを順繰りに観てまわっているような、『デリカテッセン』とか『13みんなのしあわせ』みたいな構造があるようなのだが、定かではない。
ただ、このうすぼんやりとした建築空間と、そこに巣くう住人を窃視してゆくような感覚は、まさに文字通りの「悪夢」のロジックと通底し、われわれの個人的な幻視体験と映画とを結び付ける、実に効果的なギミックとして機能している。

この悪夢的感覚こそ、世間一般では「カフカ的」と称するものなのだろう。
いっぽう僕にとって、本作がもたらす白昼夢の幻惑に最も近いのは、西洋絵画の展覧会に行って、とある作品の前に立ち、本格的なアナリーゼを始めて、一時間近く作品世界と向き合ったときにいつしか扉が開かれる、眩暈にも酩酊にも似た耽溺の感覚である。
とくに本作では、同じ素材を多少のズレを含んで何度も繰り返し呈示するミニマル・ミュージックの映像版みたいな手法が顕著なのだが、これが、絵画作品の細部に拘泥して、何度も何度も脳内で所作や配置を再生し直す感覚ととても近しいのである。この「絵画鑑賞の脳内シュミレーションを映像化したような生々しさ」という感覚は、美術史出身の皆さんとならきっと分かち合えると思う。

さきほど、ミニマル・ミュージックと書いたが、本作の映像技法とモンタージュは、作曲家である監督の奥さんミシェールの弦楽四重奏による劇伴音楽と、密接な関係性を有する。ミニマル的な素材の処理と反復・ずらしの手法が両者で通底していることもあるし、単に音楽を当てているというより、完全に映像に合わせてその場その場の音が生成される「サイレント映画の劇伴」になっているのも本作のミソである。
「前衛(アヴァンギャルド)」の度合いというか、どのくらいとんがっているかの踏み込み方が、映像と音楽でドンピシャに足並みがそろっているのも、作品が空中分解しないひとつの理由だろう。やっていることはたしかに「前衛」なのだが、「だんだん緊迫感が増す」とか、「高まった鼓動が落ち着いて、だんだん間遠になる」といった部分では、驚くほど古風なモンタージュと、古風な音楽的説明がなされているのだ。総じて無調、ミニマル、ノイズ風の劇伴ではあるが、お風呂場のシーンにおける水音の挿入や、終盤の笑い声のサンプリングなど、やっていうことはいちいち古典的だ。
さらには、この映画の構成自体が、音楽作品を思わせるところがある。
緩急、明暗、美的なものからグロテスクなものまで並列的に取りそろえながら、それをひとまとめに統合する感覚、順番にキャラクターの異なるシーンを数珠繋ぎにしていく配置と構成のバランス感は、たとえばムソルグスキーの『展覧会の絵』やエルガーの『エニグマ変奏曲』、あるいはメシアンの『トゥーランガリラ交響曲』や『峡谷から星たちへ』を聴く感覚と、とても近しい。
すなわち、本作は「映像」作品でありながら、サイレント映画としてのジャンル感と外形的な構成感覚を、もっぱら「音楽」に依拠しているといっていい。

話を映画に戻すと、このあと長大な(少々長大に過ぎる)図書館司書たちによるパントマイムが、映画のメインディッシュのごとく展開される。ここまで、コマ送りのストップモーションの軛にとらわれていたキャラクターたちが、ついに「動画」として動き出す瞬間には、たしかに解放感がある。
「迷宮図書館」のイメージは、本作を楽しみに観に来るような人間には堪えられない最高のご馳走だろう。ここで登場する鷲の剥製の羽根のイメージは、ラストの「天使」来臨へとつながる。

続いて、イヴ・タンギー作品のような乳白色の地平線を有する絵画平面を舞台装置に、デ・キリコ作品に出てきそうな群衆が登場し、ドービニー絵画のような観客からの距離感で槍(棒?)をもって走るカットと、檻のなかで女が躍る煽情的なカットの平行モンタージュが展開され、やがて男たちは女に襲い掛かる。性的な内容はダリ絵画と地続きでもあるが、そのアニメーション表現はユーリ・ノルシュテインを意識したものに感じられる。

お次は、縞模様の布をまとった男女が、縞模様の部屋のなか、妙な器具と机をはさんで距離をもって正対する様子を横からとらえたシーン。構図上は容易に伝統的な『受胎告知』(とくにダ・ヴィンチの)を想起させ、天使の来臨をふたたび予感させるが、ふたりの関係性は画家とモデルにも見えるし、光学機械で何かをしようとしているようにも見える。

続く闇に光るサーチライトのようなシーンは、なかなか何が描かれているのか判別するのが難しいが、どうやらオプショナルなピタゴラスイッチのような機械があって、幻灯機から投影された光が、レンズと鏡を通じて受け渡されているようだ。
やがて、鼓動がとまるような音の減衰とともに、画面から光源は消える。

ここまでリズミカルに組み立てられてきた光と音の饗宴は、最終楽章にスケール感を増して受け継がれる。最終シーンの主題は、おそらくなら「天使来臨」だ。
巨大なホール状の大階段のようなところで、強烈なレンブラント的な光線が上方から射し、複数の影が何度も何度も浮かび上がる。ただし、肉眼でとらえられるようなはっきりした姿は、なかなか見てとれない。
ヴィデオパッケージにもなり、今回の上映でもメインヴィジュアルに採用されたドラクロワを前衛化したような「天使」の姿は、一度だけ鮮明に浮かび上がる。とはいえ、これもまた「得体のしれない」イメージに過ぎない。
ここでのボカノウスキー監督は、モチーフの意味性をぼやかしたまま、バロック的な光と闇の舞台効果「だけ」を用いて、「天使来臨」の奇跡を演出しようとしているように思える。
実際、神秘体験や神を触知する感覚というのは、いざ体験してみるとまさにこういうものなのかもしれない。この体感的な感覚は、まさに「悪夢」のなかで何かよくわからないものがやってくるときのそれに等しく、幻視者、夢世界の再現者としてのボカノウスキー能力がいかんなく発揮されているといえる。

一時間強の映画のなかには、西洋美術史からの豊かな引用と、サイレント・ムーヴィーへの憧憬、そして、ボカノウスキー独自の悪夢的で幻想的な美意識があふれかえっている。
『アンダルシアの犬』やマン・レイの映像作品、シュヴァンクマイエルやブラザーズ・クェイあたりを愉しめる方なら、無条件にまずはご覧になることをお勧めする。

ただしその際、くれぐれも「ポケモンショック」にだけはお気を付けて(笑)。

じゃい