劇場公開日 2022年3月4日

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「「回心」の定理」テオレマ neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5 「回心」の定理

2025年9月28日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

パゾリーニという監督は、映像という手段を使って哲学を行おうとした稀有な作家だと思います。『テオレマ』というタイトルはイタリア語で「定理」を意味しますが、本作はまさに「人間が神的なものに触れたとき、どう反応するか」という“定理”を映画という形で証明しようとした作品だと感じました。

ある日、平凡なブルジョワ家庭にひとりの青年が現れ、家族全員と関係を持ち、やがて去っていく。この青年は明らかに“聖なるもの”のメタファーであり、神・奇跡・超越的な存在の象徴です。
しかし彼に触れた人々の反応は、各々の生きる「体系」によってまったく異なります。父親は所有と合理の世界を放棄して荒野へと彷徨い、母親は欲望の再現に溺れ、息子は芸術に逃避し、娘は沈黙の中に閉じこもる。彼らはみな、唯物論的な価値観の枠の中でしか“聖なるもの”を理解できず、その結果として精神の崩壊や虚無に至ってしまいます。
一方、家政婦だけが奇跡を起こし、神に近づく存在として描かれます。それは、彼女が信仰という内的な“聖性”をすでに持っていたからだと感じました。

この構造を見ていると、パゾリーニが描こうとしたのは「回心への道」そのものではないかと思います。
人は“奇跡”や“聖なるもの”に触れたときに、必ずしもすぐに救われるわけではありません。むしろ、それまでの自分の価値体系が崩壊し、虚無を経由してしか回心には至れない。
『テオレマ』の登場人物たちは、それぞれの立場や欲望に応じてこの“聖なる衝突”に晒され、その結果として「回心する者」と「虚無に沈む者」とに分かれていく。
まるでパゾリーニ自身が、神の存在を前提としない現代社会において、「人間がどうすれば再び聖なるものと出会えるのか」という問いを、実験的に描いたように思えます。

個人的には、私自身も長い時間をかけて唯物論的な世界観から少しずつ離れていった経験があるため、この映画の主題には深い共鳴を覚えました。
“回心”とは、突発的な奇跡ではなく、存在の構造そのものがゆっくりと変わっていく過程なのかもしれません。
そう考えると、『テオレマ』は単なる宗教映画でも社会批評でもなく、**「人間はどのようにして神なき時代に回心しうるのか」**という、非常に現代的な問いを突きつける哲学映画だと思います。

映像自体は静謐で、構図や空間の使い方にも宗教画のような厳粛さがあり、まるで全体がひとつの祈りのようです。終盤、荒野を裸で歩く父親の姿は、理性と所有を脱ぎ捨てた“現代人の最後の祈り”に見えました。
美と虚無、聖性と欲望、そして回心と崩壊。そのすべてが同時に存在している――そんな奇妙で荘厳な映画でした。

(イタリア芸術の伝統としての『テオレマ』)

イタリアの芸術には、常に「神」と「肉体」のあいだを往復する緊張が流れています。
ジョットの宗教画、ミケランジェロの彫刻、カラヴァッジョの光――それらはいずれも聖なるものがこの地上に“現前する”瞬間を描こうとしたものでした。
パゾリーニは、そうしたルネサンス以来の伝統を20世紀の映像表現へと継承し、
「聖性がもはや信じられない時代に、それでもなお聖性を描く」という最も困難な挑戦を引き受けた監督だと思います。

『テオレマ』における青年のまなざし、家族の崩壊、沈黙、光の使い方――そのすべてが、イタリア美術の精神的遺産を現代的に再構築している。
つまりこの映画は、宗教画の終焉ではなく、**「神を失ったあともなお神を描こうとするイタリア芸術の延長線上」**に位置しているのです。

鑑賞方法: Amazon Prime (4Kスキャン版)

評価: 92点

neonrg
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