「言葉が通じない歓び」沈黙 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
言葉が通じない歓び
若い頃はアントニオーニ、ベルイマン。アンゲロプロス、フェリーニ、ヴィスコンティ、ゴダール、パゾリーニ、タルコフスキー、大島渚・・・古典とされる名作に親しんだ。とてもきょうみをもってそれらを見た。だが、年をとると、アーティスティックな映画から離れていく。古典の価値はそのままだが、もっと気楽な解りやすい映画に親しむようになる。
この「嗜好の変遷」はわたしだけではないはず──である。
たぶん、だれもが年をとるほど、芸術的価値のたかいものから離れ、通俗的なものに寄せるようになる──にちがいない、のである。
わたしの老齢の両親も、日がな一日中、俗臭ただよう情報番組を見ている。
こんにちの社会ではバレてしまっているが、年配者が若年者にくらべて、高尚であるとか理知であるとか洞察があるとか年の功があるとか、そういうことはない。
おそらくぜんぜんない。年月は人をリッパにはしない。
老人が車窓から街並みをながめている──と思ってはいけない。そいつはたんに「ええケツしてんなあ」と街女を目で追っている──に過ぎない。
多くの人は無駄に年をくう。そうでない人もいるのかもしれないが、それを実感することは少ない。高齢者だらけの日本=リッパなひとだらけのはずだが、どうだろうか。
それがバレているのなら、おっさんであることには、なんの優位性もない。
「おっさん」とは、自己資本に価値がなく、春秋とプリミティブな欲求(食・性・排泄・睡眠)以外の好奇心を失った人間の総称である。
ようするに、あとは死ぬだけのにんげんのことだ。わたしもそれを承知・自覚しているが、その自覚があるからとて、なんとか生きるほかないわけで、どうなるわけでもない。
昔から思っていたが、ベルイマンが人間として興味深いのは、その結婚歴である。(5回)映画をつくるたびに女優といい仲になり、なんども結婚し、なんども離婚し、子供をつくる男は、じぶんをおっさんだと自覚していない。そういう男は生涯、春秋を謳歌できる。
そのことと同時に、ベルイマンが掲げていた主題「神の沈黙」」と、かれの異性遍歴が、符合しない。
女をとっかえひっかえしながら「神の沈黙」を語る・・・矛盾があるし、理知的な風貌にも多情な気配はなかった。
が、天才肌なゆえ色好みは道理──とも思わせるし、神が沈黙しているからこそ、人間の欲求を最大限に発揮する生き方が合目的的──とも言える。
いずれにしても、ベルイマンの豊富な結婚歴を知って以来、わたしは「欲望を押し出す人間でなければ、才能なんか発揮できない」──なんとなく、そう思った。
(わたしは田舎のお百姓だが)ベルイマンの沈黙について自分なりに概説したい。
遠藤周作の沈黙という小説がある。今の世代ならばスコセッシの映画としてご存知の方のほうが多いかもしれない。沈黙は誰が沈黙しているのか──といえば「神」である。残酷な宗教弾圧に遭いながら、「神」に忠義を尽くしているのに「神」はいっこうに応えてくれない。だから「沈黙」である。
ベルイマンがテーマにしていた「神の沈黙」も、あるいはヴィスコンティの「神の不在」も、にんげんが愚かしいのは、神がいないから──の構造をしている。
下界のにんげんたちは、いろいろと愚かしいことをしている。それは神が沈黙しているからだ。──そこには、そもそも神なんて居ないんじゃなかろうか──との疑義も含まれる。人の愚かしさを神のせいにしている──とはいえ、宗教立国では無宗教のわれわれが想像もできないほど、神と日常が相関している。
ただし映画(神の沈黙と呼ばれる三部作)は神がいないことを証明してはいない。たんに日常を綴っているだけで、宗旨のようなものはなにもない。
沈黙に出てくるのは仲の悪い姉妹。姉は知的だが形式主義で嫉妬深い。妹は奔放で刹那的。姉は病気のリハビリのため妹と妹の息子を帯同し異国へやってきている
姉(イングリッドチューリン)は成功者で支配的だったが、病を患い、心身ともに沈んでいる。妹(グンネルリンドブロム)は姉に従属し、うらみを持っていたが、姉が臥している立場上、形勢が逆転している。元来、男に愛されるのも妹のほうが勝っていた。
対照的な姉妹は俳優の見ばえでだけでも明確だった。チューリンにはこざかしさがある。リンドブロムはふてぶてしいが、男視点ならばそそる。
ふたりの愛憎が描かれるものの、事件らしいものはおきない。妹がいきずりの男と情交におよび、それを姉がねたむ──という話。
沈黙は一般てきに難解と評されているが、沈黙が描いているのは簡単に言えば、人間には肉欲に勝る達成はない──ということ。
知的な姉はある意味リア充な妹に嫉妬し、なんとか優位性を見つけようとするが、見つけられず、妹を懐柔することもできない。併せて、妹の息子の純粋が描かれ、愛憎のなかで生きるほかない人間模様が表出される。
見た当時妖艶なリンドブロムに惹かれた。ググったら今年(2021)の1月に亡くなっていた。この映画の白眉は小人役者の劇場の暗がりで男女が交合におよんでいるのをリンドブロムが見て愕然とするところ。その表情。
姉は、なんとか情欲から逃れ、なにかそれに代替する人生の意味を見つけようとして、妹の息子に「精神」との言葉を贈る。
『ベルイマンは正式な結婚を少なくとも5度行っており、そのような自身の女性遍歴を反映したかのような作品も数多く見られる。』(ウィキペディア、イングマール・ベルイマンより)
5回結婚したベルイマンは、人間はけっきょくLust=肉欲に溺れる──ことを知っていた。だからこそ映画を通じて、肉欲に勝る、なんらかの価値や意味を見出そうとした──に違いない。
(余談だがベルイマンを語る権威主義者の概説はなんにも解ってなくて話にならない。要職や学歴や肩書きで映画を切っている奴をぜったいに信じてはいけません。)