「トランスできるか否かがキモ」注目すべき人々との出会い 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
トランスできるか否かがキモ
日本人が宗教にあまり興味を持てないのは、そもそも神とか超越性とかいったものに実感が湧かないからというのも確かにあるけど、それ以上に、神や超越性に至るためのプロセス(教義)が胡散臭かったり露骨に権威主義的だったりするからだと思う。女を抱いてはいけないとか◯◯万円以上の上納金を納めなければいけないとか。
本作の主人公も既存の宗教とその教義にはかなり懐疑的で、ゆえにそういう夾雑物を排したナチュラルな宗教を探し求めて長い旅に出る。興味深いのは主人公に「信心溢れる若者」感が全然ないところ。彼は自力で解けなかった難問を職員室へ質問しにいくくらいのメンタルで人生の真理を探究する。このくらいの興味なら私でも持てるんじゃないかと希望が湧いてくる。
主人公が最終的に辿り着いた山岳密教では、踊りを舞うことこそが神へとアクセスするための回路だった。聖典であれ教説であれ言葉が使用されている限りそれは結局のところ人間理性の範疇を出ない。したがって言葉の介在しない舞踊だけが、人間が人間のまま神へと至ることのできる唯一の方法なのだ。
とはいえ上述の意図を登場人物に言葉で語らせてしまうのではまったく意味がない。なので本作は作品そのものが一つの舞踊のような様相を呈している。セリフは極力排され、ミニマルなBGMとロングショットが延々と続く。見ているうちになんだかこっちまでトランス的な陶酔に誘い込まれていく。ただ、さすがに間延びしすぎなんじゃない?という箇所も多く、それゆえ私は完全に入り込むことができなかった。入り込めたら本当にすごいんだろうなあ、これ。
ラストシーンで主人公は教団の長に「教えを学んだら元の場所に帰って生活しなさい」と諭すんだけど、これって本当に大事なことだと思う。密教的宗教が現実世界から乖離すればするほどカルトの度合いを強めていくことはオウム真理教が既に示している。現実を真っ向から否定するのではなく、現実の中に安寧の場を確保する術を教えること。それこそが宗教の誠実な在り方だと私は考える。
私の好きなカンフー映画に『少林寺三十六房』という作品があるのだが、これも本作と構造が似ている。少林寺は人里離れた山奥にあり、俗世間でいかなる災禍があっても決して干渉してはならないという厳しい掟があった。けれど主人公は掟を破り、少林寺で得た力を用いて俗世間の悪者たちを打ち砕いた。
「この世界はクソだ」と諦めてみたところで我々は他でもない「この世界」に両足を立てて生きているのだから、何はともあれそこで戦うしかない。とはいえ人間離れしたカンフーの妙技で武装することは難しいから、とりあえずは宗教にもたれかかってみるくらいがちょうどいいのかも。