太陽はひとりぼっちのレビュー・感想・評価
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アラサー女子の心模様
当時のイタリアの、たぶん中流階級のアラサー女子の暮らしとその心のうちをスケッチした作品。
「(アフリカの人々は)幸福を求めずにただ自然のままに生きてる。」
「愛し合う必要もないかも。」
自分と当たり前のように結婚しようとする男。軽い男。株式投資に夢中な人々。娘に無関心な母。近代的な集合住宅群、工事中の現場の貯水槽。核開発競争の不穏なニュース。
目の前の生活に困っているわけではなく、小綺麗に暮らしてもいるのだが、虚しい…。閉塞感…。当時のイタリア社会の雰囲気でもあるのかな。
アラン・ドロンは当時27才、主演のモニカ・ビッティは31才。この邦題と配役でなかったら、観ていなかったな…。
なんか冴えない評価ですが一言言いたい
この映画終わりが締まりなく終わる感じ
ある意味最後の方ループさせてエンドレスで流せそうw
全然用途違うけどねw
そんな事思ったわ
キャストは良かったが内容はちょっと酷いかな
話として盛り上がりもなく
延々と男女が恋に落ちるんだろうなって話を見せられる感じ
今の時代に生きてるせいか
だからどうしたの?
って感じがしてしまう
なんか社会不安なども少し垣間見えるけど焦点が当たらない感じ
この映画は正直面白くなかったな
いっその事恋愛も成就しない方が面白かったのでは?
愛の虚しさ
ただのラブロマンスではない。社会的なメッセージや暗喩の多い映画。分かりにくいといえば分かりにくい。他の人の口コミを読んで、あぁそういう意味があったのかと思ったり。 美しい主演2人の鏡越しのキスシーンなんかは 素敵だったけど。好き嫌いが分かれる映画かと。 若いアラン・ドロンが素敵だったからまぁ いいかな。
若い世代の新しい生き方、新しい恋愛の形
最後まで観るのはいささか忍耐を要求する
原題は直訳すると日食
恐らく「太陽がいっぱい」の反対だともじっているのだろう
モニカ・ヴィッティ、撮影当時30歳
確かに美しい
アラン・ドロンでやっと釣り合う美しさだ
アラン・ドロンは出演するがあくまで脇役であり、主演のモニカ・ヴィッティを引き立てる為だけに存在する
監督はアラン・ドロンの魅力を引き出そうとかはこれっぽっちも思っていない
監督はモニカ・ヴィッティの表情、肢体を撮ることに常に集中しているのだ
主人公のヴィットリアは冒頭で長く付き合った男との別れを告げる
理由は語らない
しかし彼女の背後の窓には巨大なキノコのような
給水塔が写される
そして理由を問われその給水塔に向かってガラス窓にキスをする
部屋を去りその給水塔に向かって歩くのだ
追いかけて来た男が追い付いた時、彼女の背後には給水塔が逞しく起立しているのだ
もちろん男性器の暗喩だろう
つまり別れの理由と男への不満は、彼女には口では分からないと言わせているが、実は性への欲求不満だと映像で語らせている
また彼女の友達に男も飽きるものよと語らせているのだ
アラン・ドロンの演じる株の仲買人ピエロはその不満の解消足り得る男なのかを長く映像で説明する
証券取引所は人間の欲望が剥き出しになる場所であることを見せ、彼はそこで生き残っているやり手であり欲望に貪欲な男だと説明する
彼女は彼と飛行機に乗り空を飛ぶ
フロイトの夢判断の単純な引用だ
もちろんそれは性交への期待の暗喩だ
そしてその前のシーンは犬が夜に逃げるのだ
これもまた彼女の欲望への抑制が解かれようとしている映像による説明だ
車のエピソードはピエロが人間味のある優しさの魅力に乏しいことを説明している
池に水没した車を引き揚げるシーンはもちろん太陽がいっぱいのヨットの引き揚げシーンをもじったサービスシーンだろう
その直後二人は公園を歩く
人間味の乏しい男だがどうしようかと彼女は迷う
しかし、そこで斜めに空高く水を噴き上げる噴水を見かけ、彼女は思わず駆け寄り笑顔でその噴流に触れる
そうそれは射精の暗喩だ
彼女は欲望に負けたのだ
彼女は公園の木陰に彼を追わせてキスをする場所を探すのだ
結局良い場所は見つからず、二人は道端でキスを交わすのだが、そこに人が来て中断となり気を削がれた彼女は帰ると言う
その時彼女は棒切れをドラム缶に溜まった水の中に捨てる
これも性交の暗喩である
棒切れは男性器、丸いドラム缶の中の水は女性器の例えだ
彼女の欲求不満を象徴している映像だろう
結局、彼女は耐えきれず彼を呼び出す
待ち合わせ場所は昨日別れたドラム缶のところ
彼女は彼が来るのを待つあいだそのドラム缶の水面に浮かぶ棒切れを指で持て遊ぶ
これは彼女の性交への期待を表現するシーンだ
そして二人はそうなるわけだが、性交の露骨なシーンは全くない
彼女が求めているのは性交と精神的な充足なのだ
だから彼女は彼の仕事場のアパートで抱かれて幸せを感じていたのだが、時間を告げるブザーを聞いてそれも幻であったと知る
彼女が帰る彼のアパートの階段で株の仕事に戻ろうする彼の部屋の沢山の営業用の電話が鳴り出すのを聞き落胆して帰る
違う、彼女が欲しかったのは100%の時間を自分だけを見つめて愛してくれる男だったのだ
明日も、明後日も会おうと彼は別れ際に言う
彼女は次の日も、その次もと応える
しかしその意味は自分だけの為に時間を取ってくれという意味だったに違いない
株が暴落しようと、世界に核戦争の危機が迫ろうとそんなことは関係ない
自分だけを最優先にしてくれ
それが彼女の不満の正体だったのだ
そしてラストシーン
今夜8時に会おうと約束した夕暮れが訪れる
そこはローマ近郊の米国ナイズされた無国籍なニュータウン
カトリックの因習にとらわれない街
若い世代の新しい生き方、新しい恋愛の形
ミーナの有名な主題歌はいきなりタイトルバックに流れる
終盤にラジオの音楽としても流れる
オールデイズ・ポップス好きなら絶対に聞いたことのある軽快な米国風のヒット曲だ
これもまた無国籍な新しい世代を象徴するものだ
そうして二人の愛は続いて行くのかもしれないし、続かないかも知れない
最後に映るのは丸い照明器具
太陽のように丸い
夜の太陽
夜も私を照らす太陽が欲しい
それが彼女の結論なのだ
本作は監督の私小説なのだろう
別れのシーンから。官能的な女優さんだ。 ドロン登場。こちらと恋に落...
別れのシーンから。官能的な女優さんだ。 ドロン登場。こちらと恋に落ちるわけね。 ドロン、株ばっかりで話が進まない。ダル。 そして結局。ん?…核?はかない平和? なに?なんなの? やっぱり…フランス映画だった(笑)
1961年の「皆既日食」が 意味するもの
戦後の日本人、業界人(服飾、インテリア等)が瞠目したのが 理解できるイタリア映画
美しいイタリア
スタイリッシュなイタリア
一応、満ち足りつつあるイタリアの 漫然たる不安を、ヴィットリア(ヴィッティ)のアンニュイな表情が表している
また 映画は時に、猫の目のように くるくる変わる彼女の表情(感情 ? )によっても、引っ張られていく
英題名は The Eclipse (日食)
元は ギリシャ語からきていて「力を失う」という意味も
「皆既日食」を縁起の悪いもの
(キリスト教では 悪魔が降臨する瞬間、だろうか…)
と 捉えられていたことが、わかる
太陽はひとりぼっち、という邦題は 月の影に隠れてしまう太陽 (=日食)ということか
名作「太陽がいっぱい」にも かけたのか?
女友達と話す 植民地の政情不安、
株価大暴落と ピエロの車を盗んだ男の溺死、挙動不審の女の登場や 人々の暗い表情の後に 核戦争勃発のニュースで、映画は終わる
観念が先走った映画の様にも 思う
当時の日本人は(私も) ピエロの様にイマイチ理解出来なかっただろう
暗喩も多すぎる気がする
思わせぶりなまま 終わるヴィッティ
ヨーロッパ人は「1961年の皆既日食」に
暗澹たる将来の不安を 見たのだろうか?
この映画が、玄人受けするのが何故か
わからない
批評家が 映画を作ると こーなるという、
悪口はわかる
「愛の不毛 三部作」の三部作目
スタイリッシュが過ぎる
☆良かったところ☆ いちいち深刻めいている。 思わせぶり。 ★悪かったところ★ 深刻な作為から離れられないまま。 作為的過ぎる。 映画史の文脈からしか価値を認められそうもない。
日々の幸福。
果たして本作は「愛の不毛」を描いた作品なのだろうか?アントニオーニ監督の代名詞「愛の不毛」。さらに主演のモニカ・ヴィッティの代名詞である「アンニュイ」さ・・・。確かに本作には何の「答え」もない。ヴィッティ演じるヴィットリアの口癖は「わからない・・・」。真夏のローマ、焼け付く暑さが画面から滲み出て、倦怠感に溺れそうになる。事故で人が死んだり、株の大暴落により、ヒロインの母が大きな負債を背負ったり、世界は核の恐怖にさらされていたり、ドラマティックな事件が起こっているのに、ヒロインも監督も一向に無関心。全財産を失った男が、カフェで花の落書きをするように、人間大きなショックを受けると無感覚に陥るが、ヒロインのこの無感覚さはそれとは違う。前作『情事』は、それこそ愛の不毛を描き、ヴィッティのアンニュイ感100%だったが、本作のヴィッティは「笑う」。ハスキーな声をあげて笑う彼女だが、心から笑っているわけではない。何かの答えを求めて無理やりに笑っているようだ。本作は1シークエンスがとても長い。冒頭、ヴィットリアが婚約者と別れるシーンの長回しが、煮え切らない男に対する彼女の苛立ちを的確に表現していて見事だ。この息苦しくいたたまれないシーンから、彼女の「やりきれなさ」が全編をひっぱる。そんなモチベーションの低い彼女と対照的なのが、ドロン演じる証券取引所のディーラー、ピエロ。彼はとにかく「忙しい」。仕事場ではひっきりなしに何かをしゃべったり、叫んだり。片っ端から電話をとったり、セカセカ動く。片時もじっとしていない。彼の恋愛はせっかちだ。「明日も明後日も会おう」という彼のストレートな恋愛表現に対する彼女の答えは「わからない」・・・。この一方通行の恋愛を「不毛」というなら、不毛でない恋愛は世の中には無い。ヴィッティのアンニュイな表情に騙され、「愛のない愛」「情熱のない愛」に縋る現代人の虚無感を表現した作品と思いがちだが、私は本作の彼女は「幸福感」に酔いしれていると思うのだ。それを表現しているのが飛行場のシーンだ。友人の夫のパイロットが操縦するセスナに乗った彼女が、飛行場で周囲を見回すシーン。この1シークエンスもとても長い。直接的なストーリーとは関係ないこのシーンにこれだけ丁寧な描写をするからには、ここに本作のテーマがあるに違いない。晴れた空を見上げ、彼女は「微笑む」。この恍惚とした幸福感。人間意味なく幸福になることもあるのだ。疎ましい婚約者と別れ、親しい女友達とバカ騒ぎをし、新しい恋に踏み切る・・・。世界に何が起ころうとも、彼女は彼女の日常世界で幸福なはずだ。ただ、どんなに幸福でも、どこかに「不安」を感じることがあったり、突然の不幸がふりかかるかもしれない。本作は「不毛」や「倦怠」を前面に押し出しているのではなく、幸福の中に巣食う「不安」や「絶望」を表現しているのだ。それがラストシーンの荒涼とした都市の描写に繋がっているのだと思う。無機質な都市が醸し出す寂寥・・・。それは活気あるはずの大都市の正体。幸福な情事の後、また会う約束をしながら、何かの不安に駆られ振り向く彼女の凍りついたような表情に未来の希望は見えない・・・。これが「愛の不毛」の正体ならば、正しく「愛の不毛」3部作の完結篇に相応しい作品だ。
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