戦場にかける橋のレビュー・感想・評価
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生き様。それを阻む壁。
戦争映画として紹介される。
監督・制作者の意図としては、反戦映画なのだろう。
でも、私には、そんな範疇を越えて、現代にも通じるテーマを描いた映画だと思う。
だからこそ、今なお、人の心を揺さぶり続けるのであろう。
原作未読。
「史実と違う」とコメントされるが、そもそも、原作が、作者の体験を基にしたフィクションと聞く。捕虜収容所・鉄道工事に舞台を借りた、フィクション映画なのだろう。
捕虜収容所。『戦場のメリークリスマス』と被る。
日本将校とイギリス将校。ハラ軍曹の立ち位置に当たる方もいる。日本軍と捕虜たちの間をつなごうと動くMr.ローレンスは、この映画では軍医か。
だが、話は全く違う方向に進んでいく。
「日本軍の描写が変」と言うコメントもある。だが、『戦メリ』に比べたらまとも。『戦メリ』が異常すぎるのか。
前半、日本人・イギリス人・アメリカ人の人物描写が、ある程度ステレオタイプに見えており、イギリスのやり方を称える映画なのかとも見える。
「喜んで働け」と努力すること、罰することで人を動かそうとする齋藤大佐。
”負けた”イギリス軍より、”勝った”日本軍を優位に立たせ、力による支配。ブラック企業とは違い、休みを取ることも必要と、要所要所で、飴を差し出すが、見え見えなので、あまり効いていない。適材適所などは考えず、ひたすら無私の勤労を要求する。そして、思うように進まないと、改善策を練ることもせず、労働力を増やすこと、そして部下にキレまくる。
まるで、現代にもいる上司を見ているようだ。
逃げずに、陣頭指揮を取ろうとするところはまだましか。
「お茶」「お茶」「お茶」と伝言ゲームが始まるシーンはギャグのようだが、実際に会社でも同じことが行われている。会社内だけではなくて、中請け、下請けへと仕事が下りるということもある。
問題や苦難に出会った時、何かを成し遂げなければいけない時、「頑張れ、頑張れ」という精神論でやりぬこうとするのは、今でも、会社だけではない。学校でも、子育てでも。趣味のはずの部活や習い事でも行われていることである。
それに反発するのはニコルスン大佐。
秩序が肝。将校会議には、シアーズも招き入れる。イギリス人だけで固まり、他を排すなんてことはしない。
ニコルスン大佐にとって、捕虜になったのは”負けた”からではない。命じられた”降伏”に従っただけだという確信のもとに動いている。つまり、捕虜として働くことは、上からの命令に従っていることになる。脱走も、命じられた”降伏”に従わないことになるから駄目だという論理。
齋藤大佐に屈することは、今度こそ、”負けた”ことになる。決して、屈することのできない戦い。それは、隊全体にとっても、同じ意味を持つのではなかろうか。
そして、齋藤大佐が折れた後は、橋づくりという”仕事”にまい進する。私には、ここでニコルスン大佐が、日本軍相手に戦争をしているように見えた。日本軍ができないことをイギリス軍が成し遂げる事=イギリス軍にとっての勝利。しかも、その橋は後世に残る物。
働かせ方が、齋藤大佐と対照的。適材適所。各人に”誇り”を持たせ、食事等の待遇を上げ、鼓舞する。仕事が納期に間に合わないとなれば、最初の主張を曲げて、将校や怪我人も働かせる柔軟さ。けれど、齋藤大佐のような問答無用の命令でも、叱咤激励でもない。協力を求める”相談”という形をとっている。ニコルスン大佐の言動を見ている彼らは、勿論喜んで応じる。
まるで、組織でいかに人を動かすかの教科書のようだ。
そこに、自由奔放なアメリカ人シアーズ。
「人間らしく生きることが一番大切なのに」という信条。生き残るためには、階級詐称、なりすまし、賄賂…、何でもやる。
その自由さ・機敏さが齋藤大佐やニコルスン大佐との対比で、生き様を考えさせてくれる。
軍医はどこの国の方か?
ちょっと違う視点で彼らを見ている。
前半は、齋藤大佐とニコルスン大佐の攻防。
後半は、橋の建設は間に合うのかというミッションと爆破ミッション。それらが入り交じり、話が進んでいく。
ここで出てくるウォーデン少佐はイギリス軍所属。
任務遂行のためなら、シアーズに、アメリカに送還(軍法会議)と円満退職をチラつかせ、協力を迫る狡猾さ。でも、経験浅い若者への配慮もあり、頼もしい上司に見える
役者がすごい。
筆頭はやはり、ニコルスン大佐を演じられたギネス氏であろう。”オーブン”から出た後の、つま先立ち。支えられてもまともに歩けず、下り坂では、支えている人も早足になるくらいに転げ落ちる。だのに、齋藤大佐に会う時には、ダチョウのような歩き方だが、一人で階段を登る。その時の表情・佇まい。齋藤大佐が”恩赦”と言うことにして折れた場面では、その言葉を聞き、衣服を整える。そして、ラストの表情。
そんなニコルスン大佐に対する齋藤大佐を演じられた早川氏。橋が完成して嬉しいはずなのに、最初の勢いと違うその微妙な表情。
映像がすごい。
ハゲタカ、蝙蝠。丘陵にそって動く娘たち。
殺された日本兵の横には、恋人?妻?の写真と、数珠?ロザリオ?。日本兵だって、同じ人間なんだよと言わんばかりに。こういう小さな映像に、監督の反戦意識を感じてしまう。
映画はラスト、それぞれの生き様をひっくり返して終わる。
オチはなんとなく想像つくのだが、そこに至る脚本・演出がこう来るかと唖然。
ちょっと距離をとっていた軍医が「madness」と連呼するほどのシチュエーション。
達成感を感じても良いのに、そこに流れるのは理不尽さと虚無感。
その、ドラマが起こった現場を遠景に映してエンド。
人の生き様なんて、地球から見たら些細なこととでも言わんばかりに。
なんという映画なんだ。
自分の生き様まで巻き込んで、忘れえぬものになる。
★ ★ ★ ★ ★
早川雪舟氏。
真田広之氏の快進撃がにぎわしているが、第2次世界大戦以前に、ハリウッドで主役映画を作られる役者がいたとは。
ホールデン氏との逸話もすごい。ハンフリー・ボガート氏も早川氏との共演を望んで自ら動いたとか。実現していたらどんな映画になったのだろう。
★ ★ ★ ★ ★
≪以下、ネタバレ≫
ニコルスン大佐と齋藤大佐の友情物語という評もある。
でも、私にはそれは感じられなかった。確かに協力関係にはなっていただろうが。
橋の完成間近。ニコルスン大佐が仕切るだけで、添え物になっている齋藤大佐。任務として橋を完成させなければいけない齋藤大佐。恩赦を与えた後に人知れずむせび泣く。全面協力=全面降伏状態。自分とは違うやり方で、自分にはできないことを成し遂げるニコルスン大佐。その様子を見て取り入れようとするシーンはない。ニコルスン大佐の功績に対して、負傷者を汽車で運ぶ等の労いはするものの。打ち上げをよそに、頭を丸め、髪の毛を手紙に添え、懐刀を忍ばせる。すべてが終わった後、自刃するのかと思った。橋が完成しているのに、喜んだ表情どころか、暗い表情でもあったし。大日本帝国の信じていたやり方が通じなかった。アイデンティティの崩壊。
ニコルスン大佐。完成した橋の上で、齋藤大佐への語り。何を成し遂げたのかと人生を振り返る。友情を感じた齋藤大佐にと言うより、隊を率いる同じ立場の人物へ漏らした本音のように感じられた。
だが、そんなニコルスン大佐の”成し遂げたもの”は、同じイギリス軍によって破壊ミッションが進められている。軍の命令に従って、捕虜となる恥辱を受け入れざるを得なかったニコルスン大佐。それが、また、軍の命令によって、破壊される。自分が守り通した論理で、自分の大切なものが破壊される。これも、アイデンティティの崩壊。
脱走に失敗し溺死したと思っていたシアーズ。黄泉の国からの使者か?ニコルスン大佐が「人生の終わりに近づいている」と言っていたことの呼応(シャークスピア?!)。
ここで、爆破のスイッチを押すのは、シアーズでも、ジョイスでもない。ショックを受け、死にゆくニコルスン大佐が倒れこんで押してしまう。ニコルスン大佐が作ったものをニコルスン大佐が破壊する!なんという皮肉!なんという脚本!なんという演出!
現代の仕事でも、一生懸命に仕上げた仕事が、会社の方針転換等で、なかったことになることはよくあること。それが、一生をかけた仕事なら…。
部下や軍医からも指摘はされていた。だが、ニコルスン大佐は、自分の部隊をまとめあげ、日本軍を見返すこと、後世に残る物を作ることで精一杯になってしまったのだろう。将軍たちのように大局を見て作戦を立てるのではなく、与えられたミッションを遂行することがすべて。
大局を見て上司に進言しても通らず、結局与えられた仕事をするしかないときもある。そんな、自分にも重なって、身につまされた。
シアーズも、自分の生き方を貫けなかった一人。要領よくやっていたのに。
結局ばれて、半ば強制的に、戻りたくもない任務に組み入れられる。断れば、なりすましと階級詐称で軍法会議にかけられることは必須であろう。
逃げることばかり考えていたが、実際に橋と日本兵を見れば、収容所での様々な思いが募り…。齋藤大佐に反抗していたと思っていたニコルスン大佐の言動に驚愕し。
ウォーデン少佐は、援護射撃ではなく、任務のために仲間を殺してしまう。頼もしい上司像が一変。アイデンティティの崩壊。
職場や、社会を見渡せば、今も起こっている現象。
現代でも行われている、齋藤大佐のような教育・指導。
人が育つわけがない。
その反省か、最近は二コルスン大佐のような指導をする上司や教師も増えてきた。
だが、報われぬことが多い。
自由な生き方を選択する人も出てきた。
だが、そうそう社会はその自由さを許してはくれない。シアーズのように引き戻される。
自分らしく生きる事を追求しようとするが、
それを阻む状況。
成しえたとしても、ウォーデン少佐のように何かを犠牲にしなければならない。
なんという、やりきれない世の中なのだ。
引きこもり、鬱、自死が増えているのもわかる気がする。
シアーズのように、ズルして生きることばかりを考える輩も増えてきている。
それでも、
こんな重いテーマの映画に、軽快に響く『クワイ河マーチ』。
橋爆発の前に渡り終えた、この橋建設を成し遂げた、ニコルスン大佐の隊の人々は、ニコルスン大佐の願い通りに、誇りをもって生きていけるのだろうと。それを表現しているのだと思いたい。
午前十時の映画祭で鑑賞
午前十時の映画祭で鑑賞。クワイ河マーチは有名なのでよく覚えていますが、テレビを含めても初鑑賞。
日本軍の斎藤大佐、英軍のニコルソン大佐、米軍のシアーズ中佐が主要人物だが、人生において何を優先するかは三者三様。
斎藤大佐を見ていると、「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という言葉を思い出した。
上からの命令は絶対であり、成し遂げられなかった場合は死をもって償う。非合理的な考え方のため橋の建設が上手く行かない。自ら指揮をするも失敗してしまい、英軍に任せざるを得なくなり苦悩する。
大英帝国軍人のニコルソン大佐は名誉、規律、規則を何よりも優先し、命を懸けても妥協しない。敵である日本に貢献することになることより、部下を心身ともに健康な状態にすることをまずは優先する。いつしか戦争していることを忘れ、橋を造ることに情熱を燃やし過ぎてしまう。
アメリカ人のシアーズ中佐は生きることが第一優先。また、楽しんでこそ生きる意味があるという考え。大英帝国の豊かな富を象徴するような広大な基地で看護師と戯れる姿は、とても戦争中とは思えない・・・
最後、橋に迫っていたのは日本軍の要人を乗せた列車ではなく、捕虜移送のための列車だったという展開になるのかなと思っていたが、そうではなかったんですかね。生き残ったウォーデン少佐の自己正当化の言葉は、誰に向けたものなのかよく分からなかった。
アカデミー賞で作品賞を獲得したのは納得。とても面白かったです。
強烈な爆弾
米Yahoo!「死ぬ前に見たい映画100」
復刻上映とのことで映画館で鑑賞。
映画の冒頭から、その規模の大きさに圧倒された。大勢の人員が動員され、近年の映画では見られない圧巻の映像が広がる。
最新の作品であればCGが多用されるだろうが、この映画が作られた時代にはそうした技術がなかった分、リアリティとスケール感が生み出されていた。
少なくとも冒頭の一連の描写を見る限りでは当時の映画産業や時代の豊かさが想像できた。
物語冒頭は、日本軍の捕虜となったイギリスの指揮官、ニコルスン大佐と日本の斎藤大佐を中心にその主義とプライドが激しくぶつかり合う。
斎藤は収容所の絶対的な権力者として君臨するが、ニコルスンはそれに屈しない。銃で脅されようと、昼夜立たされようと、独房に閉じ込められようと、毅然とした態度を貫く。
その姿は「軍人の模範」として描かれている。
やがて、斎藤は任務と立場の間で追い詰められ、ついには折れる。こうして英国軍の誇りと統率を取り戻し「戦場にかける橋」の建設は一気に進み始める。
一方、脱走に成功したシアーズも軍の破壊工作に加わり、森へと戻る。
橋を建設する側と破壊しようとする側、それぞれの視点が丁寧に描かれている分、しっかりと両者への感情移入がされており、交互に描かれるたびに物語に緊張感が生まれる。
潜入シーン自体は単調で長いかなとも思えるが、逆にそれが張り詰めた空気を晴らすことなく観客を引き込んでいると思える。
そして迎えるクライマックス。両者が殺し合い、戦場は混乱の極みに達する。橋は爆破され、列車も落下し、多くの犠牲が出る。長年「軍人」として築き上げてきたものは木っ端みじんに崩れ落ちた。足元の強烈な爆弾によって。
名作には間違いない。が、その最後のシーン。主人公が意識を失い、倒れた拍子に起爆装置を押して爆発してしまう展開は、令和の視点で見るとさすがに拍子抜けに感じてしまう。
散漫
と言えば、ライアンの娘も同様だが今作にあそこまでのロケーションは無い、アラビアのロレンスのスケール感も無いし、ドクトルジバゴの情感も無い。
何が言いたかったのか?戦場の不条理、あの結末、悔し泣きするサイトウやただ目標達成に突き進む快感の滑稽さか。
コウモリエキストラよく集まったなぁ。
いやぁ傑作
口笛吹いて行進する連合軍捕虜。彼らは、日本軍にクワイ川への橋建設を命令されていた。しかし士官も作業するのはジュネーブ協定違反、とニコルソン大佐は反発。橋建設を急ぐ斎藤大佐は、脅しや懐柔で何とかニコルソンを動かそうとする。ニコルソンは、捕虜の士気向上とイギリス軍の技術を見せつける目的で協力を申し出る。一方収容所の脱走に成功したシアーズは、イギリス軍に呼び出され。
数十年ぶりに観賞。日本軍をもっと悪く描かれていたと勘違いしていました。先住民に同情的な西部劇もたくさんあるように、アメリカ映画の懐の深さに感心。斎藤大佐が、イラストのグラビアカレンダーを使用しているのがユーモラス。
当初反発していたが、橋建設に協力、達成感にひたるニコルソン。ようやく協力してくれたことに感謝し、融和の感情を見せる斎藤。せっかく脱走したのに現場へ戻ることになってしまったものの、作成遂行に命を懸けるシアーズ。感情の動きが手に取るようで分かりやすい。そして複雑な気持ちを紡ぎだす結末、やっぱり傑作です。
ラストのスぺクタルも見ごたえあります。途中のオオコウモリの乱舞もすごいな。口笛がうまかったらなぁ。
共通の目的で人は団結する
共通の目的があると人は団結する。平和な時代ならばそれは普通でも、戦争をしている相手となると話しは変わってくる。敵対していた日英の軍人が、はからずも協力して橋を作り上げてしまう。
それにしても、自分が作り上げたものを壊されたくないという心理は分かる。
敵を助けていたと気づいて、自分は何をしているんだと我に返るアレック・ギネスの演技が良かった。
無声映画のスターだった早川雪洲は、新聞配達をしていた少年に俳優になるよう勧めていた。それが後のウィリアム・ホールデンで、今作で共演が実現した。
破壊と創造
第二次大戦中、大日本帝国の補給路としてタイとミャンマーをつなぐ泰緬鉄道は「死の鉄道」と呼ばれた。本来工期5年はかかる工事を短縮して1年の突貫工事で行ったため、そしてそれに見合う食料などの物資の補給もなされなかったために建設現場では過酷を極めた。
一日18時間という重労働、食事は酷い時には米が茶碗一杯にも満たないありさまだった。そして何よりひどかったのは捕虜たちが寝泊まりする場所には屋根さえなかった。現地は雨季に入れば長時間スコールが降りそそぐため、雨ざらしの中での生活を余儀なくされた。当然衛生面は劣悪でコレラなどの感染症にかかって次々と捕虜たちは亡くなってゆく。捕虜たちは遺体が横に転がってる中での作業を強いられた。
この工事での英連邦の捕虜や現地のアジア人労働者の犠牲者は10万人ともいわれている。つくられた鉄道の長さから換算して4メートルに一人亡くなった計算になる。「枕木一本、人一人」という言葉が残されてる通り、まさに枕木一本ごとに一人の命が失われた死の鉄道と呼ばれるゆえんである。いまでこそ観光地となってはいるが、そこはデスレイルウェイの文字で表示案内がなされ、その案内の看板には「許そう、しかし忘れない」の文字が添えられている。
周辺にはオーストラリア人捕虜犠牲者などを悼む記念館などが建てられ毎年多くの観光客が訪れている。
本作はまさにその泰緬鉄道が舞台となる戦争映画。だが前述のような悲壮感は本編からは感じられない。戦争映画とは言ってもこの頃のハリウッド映画は娯楽が最優先。あのクワイ川のマーチが勇壮に鳴り響く捕虜収容所での英国兵たちの勇ましき姿を描いた戦争娯楽大作である。戦争の悲惨さはとってつけたようなシーン以外はほぼ見受けられない。
主人公の一人である米国人シアーズは捕虜でありながら脂肪を蓄えた健康そのものの肉体。過酷な捕虜収容所の生活は感じられないし、他の捕虜たちも労働を適当にさぼったりと、どこか呑気な雰囲気。
戦争の悲惨さどころか橋の爆破任務に向かったシアーズたちは現地女性といちゃいちゃ、まるでピクニック気分。真昼間にどこから狙撃されてもおかしくない川で水浴びにまで興じる始末。
ジャングルで彼らに殺された日本軍兵士の懐から彼の母親の写真と数珠がこぼれ落ちるシーンがある。これは悲惨な戦争なんですよと伝えてるつもりらしい。
「プラトーン」をはじめとする近年のリアリズムを極めた凄惨な戦争映画から考えると少々憤りを感じてしまうほどだ。
内容的には前半は横暴な早川雪洲演じる収容所所長斉藤に対して捕虜の扱いに関する条約を守るようストライキで立ち向かう英国軍将校ニコルソンの姿が描かれる。灼熱地獄の中での独房生活に耐え続け、ついには相手を根負けさせてしまう。そんな英国人の誇り高き姿を描く。そして後半も同じく橋の建設に苦戦していた日本軍に対して施しを与えるように大英帝国の技術力を見せつけるかのように建設を主導して見事に橋を完成させる。ちなみにこれは完全な創作で実際の捕虜たちは単純労働しか行っていない。
当時の欧米の観客たちにこの内容が受けたのは想像できる。たとえ過酷な状況に追い込まれながらも英国人としての誇りを失わず、捕虜という立場に甘んじることなく反骨精神をもって日本軍に立ち向かってゆくその姿。その勇ましき姿は同じ欧米人として誇らしいものであったろう。日本兵たちはもはや彼らの引き立て役でしかなかった。
本作をテレビの洋画劇場で見たのはかなり前でほとんど内容は覚えておらず、今回配信にて見てみたけど、これは単なる欧米人たちの自己満足映画なのだろうか。
だが、本作がいまだ名作といわれるゆえんは確かにあった。それはクライマックスにかけての展開に見られた。
ニコルソンは長年軍人として生きてきた自分の人生に虚しさを感じていた。自分は人生において何かを成し遂げられたのかと。ただ破壊と殺戮を繰り返すだけの戦争というものに嫌気がさしていたのだ。だからこそ彼はこの戦場において破壊と殺戮とは真逆の創造たる橋の建設を成し遂げようとした。まるでその橋の建設によって自分の人生を意義あるものとするかのように。
もはやそこにはイギリス人将校としての彼の姿はなかった。そこにはただ自分の人生を模索する一人の男がいるだけであった。橋の建設に協力することは明らかに祖国への裏切りだ、そんな部下の意見など聞く耳も持たない。
今の彼にとってこの橋を作ることが戦争によって奪われた自分の人生を取り戻す行為としか思えなかった。そんな彼の気持ちに呼応したかのように部下たちも彼に従う。
見事に橋を完成させた時、彼は満足げだった。今まで戦いの中では決して得られることのなかった充実感が彼の心を支配していた。この橋で捕虜たちの移動も行われる。彼は人生の中で何かを成し遂げた満足感に浸っていた。
そんな時シアーズ達仲間の工作員たちによる橋の爆破作戦が迫っていた。それに気づいたニコルソンは爆破を阻止しようとする。
だが、目の前で絶命するシアーズたちの姿を見たとき彼は初めて我に返る。この時自分が初めて敵に塩を送る行為をしていたことに気づく。
まるで夢から覚めたかのように彼は否応なく現実に引き戻された。戦争という現実に。そして再び破壊と殺戮の戦場に引き戻された彼は呟く。自分はいったい何をしていたのかと。自分は戦争をしていたのではなかったか。まるで夢でも見ていたかのように戦いの中で戦いを忘れていたのだろうか。
しかし彼が我に返ったとき、それはすでに遅かった。撃たれた彼はそのまま倒れこんで爆弾のスイッチを入れてしまう。彼が建設した橋は彼自身の手で爆破されてしまうのだった。
まさに皮肉な結末。これこそが戦争だった。そこにはやはり破壊と殺戮しかない。ニコルソンは夢から覚めて現実に引き戻されたのだ。悪夢という現実に。
この一連のシーンが本作がいまだに色あせない名作と称賛されるゆえんなのだろう。確かに戦争のむなしさを見事に描いた作品だと言える。
戦場にかけられた橋、それは一瞬で破壊された。敵同士である斉藤とニコルソンたちが共に協力し合って橋を作り上げることによってお互いに友情が芽生えるかとも思われたがそんなことはけしてなかった。この橋が両国の懸け橋になることはけしてないのだ、お互いを殺し合う戦争をしている敵同士なのだから。
破壊と創造、創造と破壊。橋を作るのも人間なら橋を破壊するのも人間だった。
戦争においては人が英知を尽くして作り上げたものが一瞬で失われる、それは人の命も同じく。戦争がいかに虚しく理不尽なものであるかが描かれた娯楽大作だった。
軍人の誇り 〜 認識番号 01234567
タイ西部の密林地帯に在るクワイ川鉄橋を舞台にした作品。
日本軍捕虜収容所に送られた英軍捕虜の1人、ニコルソン大佐( アレック・ギネス )に肩入れして観ていた。
日本軍捕虜収容所所長・斎藤大佐( 早川雪洲さん )に異を唱えるニコルソン大佐にハラハラさせられた。
足場の悪い中、現地の若い女性達が兵士達の為に荷物を棒で担いで運ぶ様子に違和感を覚えたが、終盤の状況が二転三転するシーンや、シアーズ中佐( ウィリアム・ホールデン )の皮肉めいた台詞等、見応えある作品でした。
ー ジュネーブ協定 第27条
ー 指揮するのは我々( 士官 )だと兵達に意識させろ
そうすれば自らを奴隷とは思わない
( 軍人の誇りを持ち続ける為 )
NHK-BSを録画にて鑑賞 (字幕)
虚しさしか残らない惨劇の疑似体験の緊迫感に刮目せざるを得ない戦争映画
第二次世界大戦の1943年、タイとビルマ(現ミャンマー)の国境近くにある日本の捕虜収容所を舞台として、戦争の悲惨さと虚しさを主題にスケール豊かに描いたデビィット・リーン監督中期の代表作。原作は「猿の惑星」のピエール・ブールの『The Bridge on the River Kwai』で、フランス領インドシナで徴兵されてから体験した数奇な境遇を基に創作したフィクション。それを「真昼の決闘」「ナバロンの要塞」のカール・フォアマンと「陽のあたる場所」「猿の惑星」のマイケル・ウィルソンが脚色しています。あくまで戦勝国イギリス側から見た戦争映画の立場でした。更に注目すべきは、製作者が「運命の饗宴」「アフリカの女王」「波止場」そして「アラビアのロレンス」「逃亡地帯」「将軍たちの夜」のサム・スピーゲルという人の、その諸作から想像させる題材の異色さと独創性が強烈である事です。ロケーションのセイロン(スリランカ)で大掛かりな建設と密林の過酷な撮影を思うと、この映画はサム・スピーゲルとリーン監督の共作と言っていいかも知れません。それほどに映像化された全てのシーンが充実していて重量感があります。そして撮影が「ヘンリー五世」「旅情」のジャック・ヒルデヤードの構図の巧さが引き立つカメラワーク。選りすぐりのスタッフが集結した大作映画が、内容面も含めてとても見応えがありました。
見所は大きく二つ。イギリス兵捕虜が鉄道建設に強制労働させられる中で、日本将校の矜持とイギリス将校のプライドが対立し、お互いの意地の張り合いから膠着状態が続く前半の持続する緊張感。将校含め全員の労役を断固要求する斎藤大佐に対して、ジュネーブ協定を持ち出し建設作業の指揮を執りたいニコルソン大佐。武士道と騎士道のこの応戦には、日本人から観て若干の違和感があり、特に決着後斎藤大佐が一人むせび泣くシーンは唯一余計でした。しかし、ニコルソン大佐のアレック・ギネスと斎藤大佐の早川雪州の素晴らしい演技で、弛緩することなくこの対決を見守ることが出来ます。そして最後のクライマックスに至る後半の緩急織り交ぜた脚本の構成が、また素晴らしい。一人脱走を成功させたアメリカ海軍兵のシアーズ中佐がしぶとく生き延びてイギリス領セイロンの病院で休養する場面と橋建設場面のカットバックの映画的な表現。物語の主役が二人の大佐から、二人の少佐に変わっていくこの自然な流れ。それも階級を誤魔化し中佐を名乗っていたことが発覚するシアーズが、一転爆破作戦に加わざるを得なくなる皮肉。看護師や現地の女性と睦み合うアメリカ男の軽さを、ウィリアム・ホールデンが嫌味なく演じて人間味もある。対してリーダー格のウォーデン少佐の実直な任務遂行の生真面目さに、ジャック・ホーキンスの渋さが嵌ります。そこに若いカナダ人ジョイスが加わり、ジャングルを突き進むシークエンスは、ジョン・ヒューストンの名作「黄金」を彷彿させる定番のキャラクター設定です。岩山の稜線を奥に手前にウォーデン少佐が木に寄り掛かるショットの美しさ。渓谷のシーンでは、日本人として心が痛くなる殺害場面があります。風景の美しさが際立つと、人間の愚かさや残酷な行為が改めて意識されるのかも知れません。
映画最大のクライマックスは、脚本とリーン監督の演出の盛り上げ方の巧さに唸らされました。ニコルソン大佐が疑念を抱き斎藤大佐と橋から降りて川沿いを行く、それを見てジョイスを危ぶむシアーズ少佐とウォーデン少佐。遠くからは汽笛が聴こえてくる。そして、最後シアーズ少佐が駆け寄り、ニコルソン大佐が漸く気付くところが凄いですね。4つの視点が爆破装置に集中し増幅する緊迫感の醸成。この地獄絵図を傍観していたクリプトン軍医が呟く狂気は、そのまま戦争そのものであると、カメラは俯瞰で惨劇の峡谷を見下ろしていきます。
日本軍が使っていた銃ではないことや、橋の構造も実際のものとは違う点で、時代考証の観点から評価できない部分もあると思います。しかし、これは戦争とは結局無意味で残酷なだけであり、男の意地を通しても虚しさしか残らないことを諭す為に作られた戦争映画であるでしょう。戦争の恐ろしさと虚しさを味わうために映画鑑賞で疑似体験することを、唯一の教訓としなければなりません。その重みを感じて、刮目に値する映画として評価したいと思いました。テーマ音楽“クワイ河マーチ”(ボギー大佐)の軽くリズミカルな曲が、内容の重みを揶揄するようで、それが対比となり重さを際立たせている効果もあります。
名誉と誇り…男たちの架け橋!
第30回アカデミー賞作品賞受賞作。
Ultra HD Blu-rayで2回目の鑑賞(吹替)。
原作は未読。
第二次世界大戦中、日本軍の捕虜になったイギリス軍将校と捕虜収容所所長の日本軍大佐、それぞれの生き様のぶつかり合いを、クワイ川鉄道橋梁建設を絡めて描いた大作。
とにかく、豪華キャストでした。「麗しのサブリナ」などのウィリアム・ホールデンや、「スター・ウォーズ」シリーズのオビ=ワン・ケノービ役でお馴染みのアレック・ギネス、アジア人で初めてハリウッド映画界のスターダムに登り詰めた早川雪洲など、国際色豊かな面々が出演していました。
イギリス軍将校と日本軍大佐、双方のプライドがぶつかり合った末に友情のようなものが芽生え、お互い協力し合って、見事橋梁は完成しましたが、イギリス軍の破壊工作によって、それらが脆くも吹き飛んでしまいました。虚しい…
クライマックスに向け、様々な視点がひとつに結びついていく演出が巧みでした。戦争の理不尽さ・無残さをしっかりと描きながら、理解し合うことで歩み寄れる人間と云う生き物の素晴らしさを訴える珠玉の名作だと思いました。
[以降の鑑賞記録]
2021/12/08:Ultra HD Blu-ray(吹替)
※修正(2024/03/21)
タイトルなし(ネタバレ)
ニコルソンの主義と斉藤の意地、生き方を問う作品
誇り高く死ぬか人間らしく生きるか、極限での選択に身が引きしまる
国家の対立を超えた人間の友情、その結晶としての橋、そして破壊され、戦争という大きな流れに飲み込まれる悲劇。実に意義のある社会的擬似体験をした
天皇陛下に代わって諸君を歓迎する
映画「戦場にかける橋」(デビッド・リーン監督)から。
タイとビルマの国境近くにある日本軍の捕虜収容所で、
連合軍捕虜を使って、国境に流れるクワイ河に橋を架ける
準備が進められていた。(最後は「爆破」されるのだが・・)
その捕虜の行進に合わせて流れる、クワイ河マーチは、
口笛と言えばこの曲、と言われるほど有名であり、
映画音楽らしい、私の好きなシーン、好きな曲でもある。
メモしたのは、捕虜収容所の所長が大勢の捕虜を前に、挨拶した台詞。
その時の台詞が「天皇陛下に代わって諸君を歓迎する」。
日本人の普通の挨拶としては、特に違和感を感じなかったが、
この「天皇陛下」という意味が、英軍兵士の捕虜に伝わるだろうか、と
妙に心配となった。(余計なお世話だが・・)
大統領でも、首相でもない、「天皇陛下」という絶対的な存在が、
彼らに理解できたら、と思ったので、メモをした。
挨拶の中で、笑うに笑えない冗談みたいな台詞。
「山下大将のモットーを伝えておく。『喜んで働け』」
これから働かされる捕虜に向かって、この台詞はないだろう・・と
思いながらも、メモ。
橋に仕掛けられた、ダイナマイトのスイッチ(?)を、
倒れた兵士が偶然、押してしまうシーンは、昔の映画らしい。
時間的には、ちょっと長かったなぁ。(汗)
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