「神を信じようとする男、神の恵みに生きる女」ストーカー(1979) しんかいぎょさんの映画レビュー(感想・評価)
神を信じようとする男、神の恵みに生きる女
このフィルムに登場する人物の立ち位置は様々だ。
神を信じようとする男
神の恵みに生きる女
神を疑う作家
神のことなど考えもしない教授
そして神に遣わされた子供だ。
正直このフィルムを星の数で評価するなどとても無理だ。だから敬意をこめてせめて星5つを献上したい。
初めから終わりまで、このフィルムが映し出す絵には隅々まで生命がうごめいている。寡黙にしてただそこにあるだけのものを、カメラを通して見つめたとき、言葉にならない訴えを身体じゅうで受け止めることになる。
水の中に沈んでいる宗教画、コイン、そして拳銃、、、それをカメラはじっと写し撮る。なぜ、水の中から拾い上げない?このフィルムは、それらすべてが世俗的な意味のないものだとでも言いたいのだろうか?
疑問はまだ続く。なぜ、三人は三人とも"部屋"に入らず、引き返してきたのか?作中では作家が「自分の腐肉など見たくもない」とはっきり言った。しかし、作中の理由がそうであっても、それはフィルムとして"部屋"に入らない理由にはならない。神秘は神秘のままに残しておくのが正解なのか?それとも、作家の言うように"部屋"の持つ神秘性のメカニズムを論理的に瓦解させることに成功したからだろうか?
この映画の最後、、、口もきけず、歩くこともできない子供がテーブルのコップを、手を使わずに動かし、床に落下させる。そしてそのタイミングで近くを通過する列車が、その振動でテーブルに残ったコップをゆらす。
超能力も、列車の振動も、ともに机上のコップを動かしたり揺らしたりすることの出来る力を持っている。
なんのことはない。答えはすでにそこにあったのだ。危険を冒してゾーンにいかずとも、人々が求める救いであり、論理であり、力であり、それらは全て一体となった形で、我々のごくごく目の前にずっと存在していたのだ。はるばる探し求めた幸せの青い鳥が、実は家の鳥かごの中にいたというストーリー――それが真実であるということを、このフィルムは3時間近い尺を使って、ずっと我々に訴えていたのだ。
このDVDのジャケットには「未来の希望」という一節がある。見ようとさえすれば、本当に求めているものはすでにそこにあるということを、言おうとしているのかもしれない。
最後に全体を振り返って見ると、この世に生きていること自体がすでにセンスオブワンダーということなのかもしれない、と思えた。