劇場公開日 1998年11月21日

「天然」知らなすぎた男 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0天然

2020年12月31日
PCから投稿

がんらい、高得点をつけるほどの映画ではない──のかもしれないが、個人的な追加点がある。
コメディだが、素のままで危機を乗り越えていく主人公は、わたしにとってほとんど人生の先生だった。

ビルマーレイはよっぱらっているわけではなかったし、ラリっているわけでもなかったが、スパイをも手玉にとれるほどの予測不能な天然をもっていた。

そう。天然である。

いつでも、どこでも、自意識から逃れられないにんげんがいる。わたしもそうだ。

公共で職場で商業施設で交通機関で・・・なんかしら、取り繕おうとしている、じぶんに気づく。無意識になれない。

ポーズというか、かっこつけというか、しがらみというか、誰かに見られている気配感というか、いつでも、どこでもじぶんがいて、なんとかじぶんをやろう/じぶんで過ごそう──としていることに気づく。

そういう自意識/自我から逃れられないにんげんにとって、天然ほど、うらやましい属性はない。
しばしば芸能人などの天然が、好ましい属性として紹介/披瀝されるのは、その羨望があるからだ。フワちゃんやローラが人気者なのは曲がりなりにも天然属性の持ち主だからだ。

だがじっさい、まったくの天然をもっているひとは、芸能人の天然が本物である可能性と同様にわずか──である。

若いころ、天然な動作をやって女の子の気を惹こうとしたこと──はないだろうか。
なんとなく伸びをしてみたり、ちょっと大仰な振る舞いをしてみたり。しかし、天然でないにんげんがやってみる天然の模倣ほど、ぎこちない景色はない。
また、一定年齢を過ぎて、なお天然の模倣をしていると、いずれ通報されるだろう。

知ってのとおり天然は自称すると矛盾する。わたしは天然です──と言うのは、わたしは天然を装っている天然詐欺師です、と言っているのとおなじである。

わたしたちは天然にあこがれ、天然をさがし、天然を装うことに失敗し、だれかのウソ天然を見抜き、思いがけずに顕れた天然に惚れ、それこそ天然に余念なく生きているのであり、もし、ゆるぎない絶対的な天然のキャラクタライズがあるなら、そしてその天然が、自意識/自我によって制御されている悪者たちのたくらみをことごとく排除できるならば、かれ/かのじょを師と仰ぐ──にちがいない。

だからマーレイは師/先生だった。
かれは今世紀でもっとも成功した映画俳優のひとりだが、もっともおいしいところを持っていった映画俳優のひとりでもある。
その最大の理由は何か、といえば、かれの持っている「天然」の気配にほかならない──のである。

すでにお分かりと思うが、いちばん重要なのは、ほんとうに天然なのか、あるいは偽天然なのか、その真偽は置いて、にんげんには、天然が似合う人と、天然が似合わない人がいる──ということだ。

天然の真偽はわからないし、わかったところで、どうなるものでもない。ビビアンスーが戦略的だったとして、だれがそれを責められよう。彼女は天然が似合っていた。

そして天然が似合うならば、人生はけっこう楽しいものになる。ことをわたしたちは、うすうす知っている。

サタデーナイトライブの出身でベルーシ、エイクロイド、チェイスより出遅れたものの、最も長い黄金期を築いたのはビルマーレイである。90年代から、いまなお続く超長期スターダムである。

いつでも酔っているみたいな悠揚さ、脱力していながら周囲を霞ませる存在感・・・いろいろあるだろうが、いちばんは、彼が天然が似合う男だった──ということ、なのである。

いまなお思い出すたび、見る。そして、なんど見てもたのしい。
一瞬も天然ができないわたし/あなたのために、この映画はある。と思うのです。

コメントする
津次郎