「テリー・ギリアムの原点ともいえる「ボス/ブリューゲル的中世」を舞台とした「ヒーローの御伽噺」。」ジャバーウォッキー じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
テリー・ギリアムの原点ともいえる「ボス/ブリューゲル的中世」を舞台とした「ヒーローの御伽噺」。
僕にとって、テリー・ギリアムの『未来世紀ブラジル』は、「人生の一本」だといっていい。
圧倒的な幻視性と、めくるめくビジュアルイメージの奔流。
ぶっとんだブラック・ユーモア。予測もつかない物語の展開。
何より、大して強くもない男を主人公にとった、ヒロイックな冒険ファンタジーであること。
すべてが完璧で、すべてがいとおしい。
人は、あの映画のラストを「悲劇」というかもしれない。
でも、僕はそうは思わない。
あの映画では、「幻想への逃避」が前向きに認められているから。
「現実での敗北」が、「夢での勝利」で上書きされて、何が悪いのか。
サム・ラウリーは闘い、闘い、闘いぬいた。
結果として、物語はああいう結末を迎えた。
でも、だからなんだというのだ?
あれは、闘いぬいたからこその、ご褒美なのだ。
僕は、あの映画のラストは、究極のハッピーエンドだと思っている。
そして、現実で厳しさに直面したときにはいつも、イマジネーション(夢想)の世界は現実と等価値であり、そこでは常に僕が王様なのだということ、そう考えることが決して逃避ではなく、精神的勝利への真の道筋なのだ、ということを『ブラジル』をよすがに思い出す。
だから、僕にとって『ブラジル』は、永遠に大切な映画でありつづける。
でも、じゃあ他のギリアム作品がそこまで好きかと言われると、実はちょっと困ってしまう。
正直なことを言えば、僕は『バンデッドQ』にしても、『バロン』にしても、ノリがあまりにも暑苦しすぎて得意ではないし、『ラスベガスをやっつけろ』や『Dr.パルナサスの鏡』に至っては、むしろ苦手な部類の映画に属する。
『フィッシャーキング』と『12モンキーズ』は封切り館で観て十分に面白かったが、「テリー・ギリアムだから面白かった」と取り立てていうような映画でもなかった。
テリー・ギリアムというと、「夢想癖のある」「ドン・キホーテ的な主人公」が「中世的な世界観」で「聖杯探求やお姫様救出」を目的に「怪物」と戦う「ヒロイック・ファンタジー」を、「ダークな笑い」と「社会風刺・権力批判」を散りばめて「寓話的テイストで」描き出す監督というイメージがある。
一部の雇われ映画や原作付きの作品でも、いろいろと妥協は図りながらも、この「枠組み」の大元だけはたいてい残されているのが面白い。
いつも「同じ映画を作っている」と奥さんに指摘されたギリアムは、確かにそうだといって、自作を次のようにまとめてみせる。「社会があり、そのなかに個人がいる。夢を持った男がいる。しがない男が何かを成し遂げるけど、それは彼が求めていたものとどこか違う。彼は何かを得る。ときには思ったほどのものじゃないし、ときには思ったよりいい。だけど、願い通りのものが手に入ることはめったにない。常に探求がある」(『テリー・ギリアム』フィルムアート社)。
で、『ジャバーウォッキー』である。
モンティ・パイソンの一員として、テリー・ジョーンズと共同で監督した『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』を経て、いよいよ単独の監督作として撮った彼の「第一作」である。
内容は、まさに上で書いたとおり、そのまんまの筋書きといってよい。
デビュー作には、監督のすべてがあるとは、まさにこのことだ。
さらに、本作では「ボス/ブリューゲル」の世界を再現するという明確な意図がうかがわれる。冒頭あたりにヒエロニムス・ボスとピーテル・ブリューゲルの絵画が実際に引用されているし、ギリアム自身も「これはモンティ・パイソン映画ではなくて、ボスとブリューゲルの絵画世界を再現することが目的の映画だ」とはっきり発言している。
僕にとっても、ボスは大学の卒論のテーマとして扱った思い入れの深い画家であり、何度もここで書いているとおり、この両画家の絵画から影響を受けた「中世の闇」映画は、好物中の好物である(『裁かるるジャンヌ』『薔薇の名前』『マルケータ・ラザロヴァー』『異端の鳥』『神々のたそがれ』……)。
その意味では、テリー・ギリアムのボス/ブリューゲル愛は、まさにご同慶の至りといったところだ。
テリー・ギリアムは、動物、死骸、あばら家、糞尿、教会、奇顔の老人、売春婦、不具者、盲人、いざり車、猥雑な酒宴、ロマ風の音楽、粗野な村人、血みどろの戦闘、死体のぶら下がる樹といった、ボス/ブリューゲル風の「中世」の呪物を画面内に導入しながら、それらをあくまで「笑い」と「ユーモア」の延長上で処理しようとする。
実際、ボスやブリューゲルの絵画は、単にグロテスクで恐ろしいだけではない。そこには常に知的な遊戯性と、社会風刺と、滑稽味、ブラック・ユーモアの要素が含まれている。ギリアムは、ネーデルラント絵画のもつ猥雑で下世話だが、浮かれ調子で魅力的などんちゃん騒ぎの世界を、そのまま映画として再現しようとしたのだ。
その一部には、徹底した糞尿趣味も含まれる。とくにボスの作品には肛門と脱糞、放尿、糞尿といった要素が頻繁に挿入される。排泄は、「暴飲・大食の罪」とセットとなった、「七つの大罪」の描写にはかかせないモチーフなのだ。心理学的には肛門期固着といった要素もあるのだろうが、『ジャバーウォッキー』にせよ『神々のたそがれ』にせよ、あるいは『ライトハウス』にせよ、ボス的世界に挑む映像作家にこのあたりに特別に共鳴する人々が複数出てくるのは、実に興味深い。
ちなみに、たとえば本作に登場する「尻を外に突き出して糞をする男」のモチーフは、ピーテル・ブリューゲルの『ネーデルラントの諺』の中段右上付近に同様のネタが見いだせるし、「自分の足を切り離して見世物にしている物乞い」は、ヒエロニムス・ボスの『聖アントニウスの誘惑』の中央パネル、聖アントニウスの真後ろあたりに存在するモチーフの転用である。
お話は王道のヒロイックファンタジー。
眼目はボス/ブリューゲルの絵画世界の再現。
そう聞くと、まさに僕にとってはご褒美のような映画で、何も文句はない、と言いたいところなのだが……正直、この監督の「笑い」のオフビート感自体は、あんまり得意じゃないんだよなあ……。
笑えるネタが2割くらい、あとはまあまあ、素で見ちゃったかも。
この人の場合、笑いのセンスがあまりに振り切れてて、「モンティ・パイソン」以上に「置いてけぼり」感がハンパないんだよね。デブの想い人ネタも、ウンコネタも、足をちょん切る物乞いのネタも、ひねくれすぎてて若干ひいてしまうっていうか……。べつにジョン・ウォーターズの映画や『神々のたそがれ』は、げらげら笑いながら腹を抱えて観ている口なので、「やりすぎ」が嫌ってことではないんだと思う。
「笑わせにかかってる」のがはっきりしているのに、思い切りすべってるのが辛いんだろうな。
物語のテーマとしても、『未来世紀ブラジル』のような「一切センチメンタルな演出などしていないのに心に強烈に響く」ような奇跡は起こらず、単に気の抜けた「なろう小説」みたいな冒険譚になっている。オチもだからなんなのって感じ。
なにより、語り口があっちこっちに撚れていて、筋が追いづらいうえにテンポが異様に悪い。これは他の『バンデッドQ』や『バロン』でも感じられたテリー・ギリアムの悪い部分だ。
手持ち主体のカメラワークも、さすがに狂騒的すぎて、目がちかちかする。
とはいえ、「活人画」(ヴィヴァン・タブロー)としての視覚的インパクトは申し分なく素晴らしいし、低予算といいながら、全編に行き届いた驚くほどの美意識と入念な作り込みには、とにかく頭が下がる。この妥協を許さない絵づくりへのこだわりぶりは、テリー・ギリアム最大の魅力であり、同時に弱点でもあるだろう。
怪獣ジャバーウォッキーとの対決シーンも、思いがけず日本の特撮みたいな着ぐるみバトルになっていて、結構興奮した。なんでも、あの怪物の中には裏表で人間が入っていて、そのせいで膝の曲がりが生物学的に正確で、かつ羽根の羽ばたかせ方も自然なのだそうだ。
終盤のベッタベタな音楽の使い方も、大いに昂揚感があって良い。
司教の登場シーンでグレゴリオ聖歌の「怒りの日」が流れ、主人公の出陣シーンでは、「怒りの日」がそのまま援用されるベルリオーズの「幻想交響曲」の終楽章がBGMに導入される。得体の知れない騎士の登場シーンでは「はげ山の一夜」、凱旋のシーンでは「展覧会の絵」の「キーウの大門」が流れる、みたいな感じ。若干アイディア自体は直接的で子供じみている気もするが、劇伴としては十分効果的だ。
何より「幻想交響曲」の終楽章は、百鬼夜行の描写音楽であると同時に、アヘンで見た幻影とも解釈されうる。すなわち、一介の青年が「本当にたなぼたで怪獣ジャバーウォッキーを倒してしまう」という夢物語が、『未来世紀ブラジル』同様、「本当の夢物語にすぎない」可能性を示唆する選曲とも考えられるのである。
総じて、もう少し観客におもねるというか、少なくとも「寄り添って」キャラ設定とストーリー運びを工夫できるようなら、もっと誰にでも面白い映画を作れる監督さんなんだけど、そこで客そっちのけで趣味性に突き進んでしまうところが逆にギリアムの個性であり、魅力でもあるんだろうね。
ちなみに、僕はこの映画を新宿で結局見損ね、巡回先の本厚木の映画館までわざわざ追いかけて行って観たのだった。
観終わったあとは、せっかくここまで来たのだからということで、百名店にも選ばれている本厚木のラーメン屋「麺や食堂」で昼を食べて帰ったのだが、店に入って初めて、この店の名称がもともと「麺や食堂ブラジル」だったことを知り、びっくり。
思いがけない、「ブラジル」締めでございました。