「ケーンという人物に、丁寧に触れるような作品構成が良い。」市民ケーン すっかんさんの映画レビュー(感想・評価)
ケーンという人物に、丁寧に触れるような作品構成が良い。
〇作品全体
チャールズ・フォースター・ケーンという超セレブな新聞王について、ケーン自身が自らを語らずにケーンの本当の姿を探っていく。ただ、その姿は全体像ではなく、誰かの語り口が間に挟まっている。
過去の人物を特集する実際のドキュメンタリーなんかではよく見る手法だけれど、(モデルの人物がいるといえど)物語の中でそれを表現することも面白かったし、同じシーンで別の人物の視点から語る…といったような演出も印象的だった。
ケーンがスーザンやリーランドから「相手に求めるくせに自分からはなにも与えていない」ということを言われるシーンが多々ある。別の立場の登場人物でありながら、それぞれが「ケーンはこういうやつだ」と話すことでケーンの実像が見えてくるように感じるが、これは「対人関係におけるケーン」という限定的な状況でのケーンであって、一人ぼっちでいるときのケーンを知る人は誰もいない。
作品の中の登場人物でありながらその人物の実像を知らないまま終わる。神の目線で見ているはずの観客ですら、登場人物の伝聞でしかケーンを知ることができないわけだ。そのブラックボックスこそがケーンが実際に生きていたように感じられ、ケーンが自身の葛藤を語るよりも「ケーンが抱えたなにか」を想像してケーンに寄り添うことができるのだと思う。
ただ、唯一観客が神の目線でいられたシーンがあった。ラストのソリが燃えるシーンだ。作中でポイントになる「バラのつぼみ」について、ある人は過去の妻のことだと思い、ある人はそうではないという。「たまにおかしなことを言うから」と流してしまう人もいて、最終的に「人生は一言で表せない」というトンプソンの言葉で「バラのつぼみ」の探求に結末が訪れてしまう。ただ、幼少期に使っていたソリに書かれていた言葉ということであれば、そこには「郷愁」や「母との別離」、「孤独」という言葉が浮かび上がる。「孤独」や「他者からの愛」は作中でも触れられている部分ではあるが、その根幹に触れられたものはなかった。その誰も知らない、もしくは忘れられてしまっているケーンの感情に、一番最後に触れるのは神の視点で見ている我々だ。ケーンに直接答えを聞いたわけではないが、作中の人物たちよりもケーンの原点に触れることができるラストシーンの絶妙な距離感がとても良い。
饒舌に、そして明確に語られるわけではないが、ケーンが抱え込んでいたものの終わりを見届けるようなラスト。登場人物だけが経験した「ケーンとのかかわり」と私たちだけが経験する「神の目線」、そのどちらに偏ることなく、手の指先でケーンの真実をなぞるような丁寧な作品構成が強く印象に残った。
〇カメラワークとか
・ローアングルや長回しも確かに印象的だったけど、一番はオーバーラップの使い方。冒頭のザナドゥ城のシーンからオーバーラップを続けていたけれど、ケーンの寝室を外から撮って、オーバーラップで窓の位置はそのままに屋内のカットに繋げているのがすごかった。
部屋の外からドアを開けて閉めて、ドアのアップショットで部屋内のカットに繋げる、とかもやってて、カット割りがめちゃくちゃカッコいい。
最近の作品のオーバーラップってスケールの大きさを演出するときに使われることが多い気がする。遠景のカットをオーバーラップでつなげて、世界観の広さだったり、舞台の派手さ、豪華さを印象付けたい、みたいな。7,80年代までの映画だとカット繋ぎでめちゃくちゃカッコいいオーバーラップがあったりして、カット割りの多様さを目的に使ってる感じがする。
・ケーンまわりは孤独を演出するカメラワークが多かった。新聞社を買収したときにパーティで一人ダンスを踊るケーンのシーンで、リーランドがバーンステインと今後の経営を不安視するカットがあったけど、ここでは二人の奥でガラスに反射するケーンが映る。そして話の終わりにガラスに映ったケーンにタバコの煙がかかる。「先行き怪し」をガラスを使ってうまく演出してた。
○その他
・大富豪としてたくさんのものを手に入れた人物が実は孤独だった…みたいなのは2022年ではありきたりだなあとは思う。ただその孤独の描き方ってすごく大事だなと思う。本作はそれがすごく上手だった。リーランドへ解雇を告げるシーンの冷め切った会話、スーザンとのザナドゥ城での距離感、スーザンが去って行くのを見つめる後ろ姿…その場の空気感だったり、立ち姿で見せる空虚な感覚が巧い。
ケーン自身が孤独を訴えるシーンも結局スーザンとの別れのシーンくらいだし、ケーンが独白できない構成でセリフで訴える場面が少ないから、尚更その場の空気感とかが重要になってるんだろう。