「最後の最後に残ったもの」自転車泥棒 映画を見たり見なかったりする人さんの映画レビュー(感想・評価)
最後の最後に残ったもの
どうしても映画作品として見た場合には色々なシーンに意味を見つけたくなる。そしてその意味が監督の意図したものなのか確認したくなる。見た人の数だけ理解はあり、完全な正解はわからないものだけれど。
火垂るの墓を書いた野坂昭如の娘が、国語の授業で作者の気持ちを考えろと言われ、父親に聞いたら締め切りに追われて忙しかったと答えた、というエピソードは実は都市伝説らしいのだが、つまりそれほど作者や監督の意図は掴みにくいもの。
それを踏まえたうえで、自分の解釈を書くとすると。
迷信や信仰を拒絶し、現実的な解決策を模索した結果、自転車は彼の手に戻らなかった……とも読み取れるし、あの時代に自転車が盗まれたなら何をやったって見つけるのは無理な話なわけだからそこに因果関係は無いとも言える。
信仰心の欠如が招いたのか、それともそんなものも無くなるほどあの時代は困窮を極め、「貧すれば鈍する」状態だったのか。
イタリア、特にローマはバチカンが市内にあるし、非常に信仰が篤い土地柄。なのに主人公が信心をないがしろにするのは、単なる寓話的な仕掛けではなく、信心すらも失う戦後の貧困を表しているのではないか。
1948年制作のこの映画、戦後3年のイタリアはまだまだ荒れ果てていた。なんせこの映画すら作る金が無くてアメリカが援助しようとしていたくらいだ。
なので監督が描きたかったのは、「困窮」の方ではないかと考える。
(ところで、そもそも自転車無くてもポスター貼れるのでは、というツッコミがあったが、雇い主からの条件に自転車必須とあると冒頭で説明がある。そこに反駁しても無粋なだけ)
万策尽きた後で主人公は自転車を盗もうとするがそれも失敗する。
そしてそれで罪人となるかもしれなかった主人公は、息子に免じて解放される。
最後の涙は自らの情けなさを嘆くものか、それとも仕事を見つけるための2年の歳月と仕事をするための自転車を失っても、本当に必要なモノ=息子は失っていなかったという安堵なのか。
主人公の感情としては前者なのだろうが、監督が訴えたかったものは後者だと思いたい。