「写実のリアリティとドラマツルギーの見事な融合のイタリア・ネオレアリズモの傑作」自転車泥棒 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
写実のリアリティとドラマツルギーの見事な融合のイタリア・ネオレアリズモの傑作
イタリア・ネオレアリズモ映画を代表するヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画史に刻まれる傑作。初見は17歳の時、衝撃のラストシーンに何とも遣りきれない気持ちになってしまい、次の日に学校で級友に感想を言おうとしたら、お互いに溜め息をつくしかありませんでした。感動や笑いを求めて映画を観ていた日本の高校生は、この貧困と絶望感しかないイタリア映画で、それまで経験したことのない無常観に陥るしかなかったのです。
終戦後のローマで不況下の生活苦に喘ぐリッチ家の、父親アントニオと6歳の長男ブルーノの父と子の3日間の出来事には、当時の市井の困窮生活がドキュメンタリーの如く事実そのままに描かれていて、例えば質屋の倉庫に天井まで高く積まれたシーツの山には驚きました。自転車が質草になるのはまだ分かるものの、ベットに敷くシーツが換金に値するとは思いもよらず、それでも母親マリアの台詞には嫁入り道具との説明があり、当時のイタリアの生活感が汲み取れるシーンになっています。2年間失業していたアントニオに漸く舞い込んできたポスター貼りの仕事に必要な自転車を、その新品と使い古しのシーツによって取り戻し、期待に胸膨らませて初出勤する朝のシーンがいい。ブルーノを前に自転車を二人乗りして進む父と子が、顔を向き合わせて笑顔に溢れます。そして、6歳のブルーノも夕刻まで仕事をするようですが、具体的な描写は有りません。2年前のデ・シーカ監督の「靴みがき」では、大人に利用され騙される少年たちの悲劇を描いていましたが、そこまでの残酷さは無くとも戦後の荒廃した社会では弱い立場の子供まで犠牲を強いられることに、平和な時代との差異を感じざるを得ませんでした。
この作品が優れている点は、デ・シーカ監督の演出と、当時の社会背景を赤裸々に写実しながら物語の核になる自転車が盗まれて展開する(ドラマ)をどう構築させるかの脚本の完成度にあると思います。映画タイトルで既に観客は、自転車が盗まれることを知って観ている訳です。アントニオとマリアが自転車を取り返した後に聖女様と呼ばれる占い師を訪ねるシーンでは、騙されているとマリアを諫めるアントニオが、路上に自転車を放置します。アントニオが知らなかったマリアの信心深さと、その自転車にまとわり付きながら遊ぶ若者たち。ここで盗まれるのかと思わせて、このアントニオと観る者が同時に抱く二つの不安が、映画的な緊張感を生み出します。このフェイントがあって実際に盗まれる場面では、用意周到な犯行であることを克明にモンタージュして、アントニオの一寸した隙を狙った窃盗グループの仕業が後半の困難極まりない捜索につながるのです。仲間が追い掛ける車に飛び乗り、追跡を混乱させる狡猾さのリアリティ。脚本を担当したのは、デ・シーカ監督と組んで多くの名作を生んだチェーザレ・ザヴァッティーニとロッセリーニの「無防備都市」ルイジ・ザンパの「平和に生きる」のネオレアリズモ映画から、ヴィスコンティの代表作の多く、そしてマウロ・ボロニーニの「わが青春のフロレンス」フランコ・ゼフィレッリの「ブラザー・サン シスター・ムーン」と、イタリア映画を代表する女性脚本家スーゾ・チェッキ・ダミーコ、そしてデ・シーカ監督含め、計7名で創作されています。数が多いから良いのではなく、この93分の作品に一切の無駄が無く、ラストの衝撃の結末まで細部に渡り練られていることが素晴らしいのです。
特に秀逸なのは、アントニオとブルーノのキャラクターの対比設定です。アントニオは極平凡で善良な父親で、困ったことがあれば相談する仲間がいる。ブルーノ少年は返ってきた自転車を磨きながらペダル部分に傷があると憤慨する観察眼と自転車の型を知る賢さがあり、アントニオが電車で迎えに来た時、何故自転車がないのか、ふたりの会話で察知し帰宅して母親に告げるところが想像できます。そこから政治集会と芝居稽古が行われている地下室のシーンで、夫婦二人の際立つ困惑の演出が成されます。翌朝早く捜索に出掛けても、夥しい数の自転車が並ぶ露店には既に分解されて売られているか、塗装が加えられて判らなくなっているのではと、諦めが支配します。トラックに乗せてもらい場所を変えて別のマーケットに行くと、親子の追い詰められた境遇をにわか雨に遭遇する演出で描きます。(全編ロケーション撮影のリアリズム作品で唯一このトラックに乗っているシーンだけがスタジオ撮影)雨宿りに駆け込むブルーノが転んで怒りを露にする細かい演出と、親子のところに僧侶たちが並ぶ救済の無力。そこから犯人を知る老人を追い掛ける展開で、慈善活動を施す教会から逃げられてアントニオを責めるブルーノ。普段手を挙げることがない優しい父親が、苦労して犯人の居場所を問い詰めていながら見逃してしまった落胆の後のブルーノの一言で子供の頬を殴ってしまう。そこから泣きながら離れていくブルーノを置いて川沿いを探すアントニオに聞こえてくる、子供が溺れているという叫び声。ここで父性が呼び起こされる演出の巧さが光ります。心配で現場に急ぐと、階段の上に一人ポツンと現れ父の気持ちを知る由も無く座り込むブルーノ。このシークエンス作りの映画的な表現には、こころが奪われました。
冷静になったアントニオはブルーノを労わり食事をとりますが、このレストランのシーンが後に喜劇映画でも才覚を発揮したデ・シーカ監督のユーモアの演出が確認できます。お金持ちの少年の横柄な食べ方と視線に対して、ブルーノの無邪気さと場慣れしていない食べ方の比較の面白さ。そして、この満腹したアントニオが思いついた次の展開に、この映画脚本の更なる巧さがあります。初めて訪れた時は騙されていると妻マリアの無駄遣いを叱責していたアントニオが、藁にも縋る思いで聖女様に相談するのです。警察に相談しても自分で探せと突き放され、神のお告げに耳を傾ければ何の解決にもならない助言でお金を取られる。こころが荒んだ時に人は何かに縋りたいとは言え、アントニオにはもう縋るものが何も無い。そのどん底から偶然にも犯人らしき青年を見掛けて追い掛ける最終章は、もうどうすることもできないアントニオの心理を追い詰めて、結局は完全に常軌を逸した心理状態にします。証拠が見つからない苛立ちと、貧民街の縄張り意識と仲間意識の抵抗、詐病で誤魔化す青年の哀れな姿から、訴えても勝ち目がないと判断するしか残っていないのです。
虚しくサッカー場近くで座り込むふたり。その前を自転車が通り過ぎていくショット。路上に置かれた自転車を見回すアントニオ。スタジアムからは群衆が流れてくる。徐々に異様な雰囲気になる演出と音楽。アレッサンドロ・チコニーニの音楽は、ストラビンスキーの「春の祭典」に似たメロディとリズムを刻みます。観る者にまさかと思わせる不気味さが漂い、ブルーノを先に帰らせて一人になるアントニオ。そして、ここでタイトルの意味が重く圧し掛かって来る結末は、思わず息を止めて観てしまうほどの緊迫感です。電車に乗りそびれたブルーノが群衆の騒めきの元を振り返って見詰める。ここでカメラはパンアップしてブルーノの驚きの眼を捉えます。デ・シーカ監督の厳しくも残酷な演出によるショットの凄み。結局ブルーノが泣きながら寄り添う事で警察に突き出されずに済むアントニオですが、路面電車が取り囲んだ群衆を分けるところや、アントニオの帽子をブルーノが拾い手渡すところの細かい演出もいい。屈辱と絶望感に苛まれて涙を流すアントニオと、父の手を握るブルーノが雑踏に埋もれて消えていくラストショットは、デ・シーカ監督らしく、観る者の感情に直接訴えかけます。
電気工の職人であるランベルト・マジョラーニと監督が街で見つけたエンツォ・スタヨーラ少年は、共に演技経験のない素人です。デ・シーカ監督の演出力は勿論、イタリア人の表現力の豊かさは、ヨーロッパの中でも抜きん出ている。そして父と子の物語は、その後ピエトロ・ジェルミの「鉄道員」やロベルト・ベニーニの「ライフ・イズ・ビューティフル」に引き継がれている。偏見かも知れないが、フランス映画は女の子が可愛く、イタリア映画は男の子が可愛いのが原因と思う。ジュゼッペ・トルナトーレの「ニュー・シネマ・パラダイス」も変則親子の物語と見えなくもない。この作品でも、スタヨーラ少年の賢さと可愛さが作品を支えていると言ってもいい。
ヴィットリオ・デ・シーカ監督は第二次世界大戦以前は俳優をしていて監督デビューは1940年とあります。淀川長治さんのお話によると、白粉をいっぱいつけた白塗りの二枚目俳優でもタイロン・パワーとロバート・テイラーをいやらしくしたような色男の印象が強く、1950年に日本公開された「靴みがき」と「自転車泥棒」を観て、あの俳優がリアリズム映画の監督かとビックリしたそうです。ヴィスコンティ監督やロッセリー二監督と違って、本来陽気で朗らかな印象があり、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニと出会ってからは、喜劇も手掛ける巨匠監督になりました。現在では、晩年の「ひまわり」だけが話題に挙がりますが、少し寂しく感じます。
個人的に好きで高評価する作品を順位付けると、
①自転車泥棒②靴みがき③終着駅④ウンベルトD⑤悲しみの青春⑥ふたりの女⑦昨日・今日・明日⑧ひまわり⑨ああ結婚⑩紳士泥棒大ゴールデン作戦
ミラノの奇蹟、屋根、旅路、は未見です。