「好き嫌いはあるだろうけれど完璧な映像美と完璧なアラン・ドロンを観ることができる完璧な作品」サムライ(1967) 盟吉津堂さんの映画レビュー(感想・評価)
好き嫌いはあるだろうけれど完璧な映像美と完璧なアラン・ドロンを観ることができる完璧な作品
冒頭、新渡戸稲造の著書『武士道』からの引用と覚しき一節が映し出されるのだけど、『武士道』にはそのような一節はないそうである。
でも、それでいいのである。
映画とは壮大なウソであり、作品を面白くするためなら監督はいくらでも大胆なウソをついていいのである。二流、三流の監督はリアリズムや物語の整合性にこだわりすぎてしばしば作品の面白さを見失ってしまうことがあるが、本末転倒と言うべきだろう。
この作品の中の世界で出版されている『武士道』にはそういう一節が確かに書かれているのだ。
これはそういう、現実とは違うもうひとつの別の世界の物語なのである。
監督のジャン=ピエール・メルヴィル自身も「私はリアリズムには興味がない。私の映画は全て空想に依存している。私はドキュメンタリー作家ではない。映画は何よりもまず夢である」と語っている。
本作でアラン・ドロンが演じるのは孤独な殺し屋だ。仕事に行く前、自宅のアパートの部屋で身支度をするのだが、身に着けるのはグレーのスーツにベージュのトレンチコート、グレーのソフト帽というクールな出で立ちである。
普通に考えれば、殺し屋がこれから汚れ仕事をやろうというのにトレンチコートとソフト帽でスタイリッシュにビシッと決める必要はない。
でも、リアリズムから遠く離れたこの場面こそがこの映画の最大の見せ場と言ってもいい。
この場面こそが、サムライが死地に赴く際に身支度をきちんと整える、言わば死装束の場面だからだ。
トレンチコートの襟を立て、鏡の前でソフト帽のつばに指を滑らせるアラン・ドロンの完璧な美しさ。ここにこの映画の全てが凝縮されていると言っても過言ではないだろう。
映画という虚構の世界、夢の世界であるからこそ、我々は現実には決して存在しない完璧な美しさを備えた殺し屋を目の当たりにすることができるのである。
「映画を観る」という喜びの一つの極致がここにある、と言ったら言い過ぎだろうか。
さらには、メルヴィル・ブルーと呼ばれる青みがかった灰色の映像美も素晴らしい。
さびれた路地裏も美しい。安アパートも美しい。ナイトクラブのような現代的な場所はすぐに古臭くなってしまうものだけれど驚くべきことにこういう場所も美しい。どこを切り取っても完璧なまでに美しいのである。
物語自体はやや単調な印象を受けるが、自分はこの作品を、メルヴィルがアメリカ的な犯罪パルプ小説を一人の孤独な戦士(サムライ)の叙事詩にまで高めたもののように感じた。
娯楽作品ではなく叙事詩だ、などと言ったらやっぱりちょっと言い過ぎだろうか(笑)。
コッポラ、スコセッシ、北野武、ジム・ジャームッシュ、サム・ペキンパー、ジョン・ウー、ジョニー・トー、タランティーノ、リュック・ベッソンなど、自分のスタイルに強いこだわりを持ち独特のノワール的な作品を撮ることで知られる監督たちがメルヴィルの影響、特に『サムライ』の影響を受けているようだが、それもむべなるかな。
本作は、もちろん好き嫌いはあるだろうけれど、一つの完璧なフィルム・ノワールである。
ノワール的な作品を撮る作家性の強い監督たちが、これほど完璧に造り上げられた作品の影響を受けずにいられるわけがないのだ。
メルビルは、インタビューで「あなたに影響を与えた監督は?」という質問に、アメリカ映画を始めとして八十数人の監督名を上げたそうです。4〜50年位前に読んだので名前は忘れてしまいました。
共感・コメントどうもです。
ご覧になりましたか。15歳でこの映画にめぐり会ったのが、映画にはまる原点でした。
メルビルはゴダールの「勝手にしやがれ」にも特別出演しています。詳しくは「勝手にしやがれ」のレビューで。