荒野のストレンジャーのレビュー・感想・評価
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赤い家は赤狩りに対する反省とか。考えすぎ?
明らかな復讐劇だが、相関関係が全く分からないまま終わっちまった。
50年前にどこかの映画館でなにかの映画と二本立てで鑑賞したと思うが、建物を赤く塗る事くらいしか覚えていなかった。
イタリア製西部劇のイメージで見たので大失敗だと思った。改めて2回目の鑑賞だと思うが、端的に言って、余り格好良くない。復讐劇は良いが、一方的に復讐するだけで、プロレス的な要素が無い。つまり、ドロドロとした復讐する為の動機がこの主人公から消えている。つまり、腐りきったアメリカ社会のモラルを綱紀粛正している所なのかなぁ。
赤い家は赤狩りに対する反省とか。まさかね。考えすぎ?
面白かった。
街を地獄に見立て破壊し全員を地獄行きに。
墓標が書かれない死者の魂はさまようことから街への復讐をスタート。最後は名前が書かれエンド。
なぜダイナマイトで殺さない??と思ってたが、ムチでやられてたからその借りを返したと分かってから納得。
良く考えればわかりやすい
なかなか実験的、挑戦的な作品です。ラーゴという町にやってきた、名前を名乗らないはぐれ者。金鉱が国有地に発見されたことから、それを国に伝えようとした保安官を鞭で殺した悪者と、金鉱の利益を自分たちのものにしようとして、それを見て見ぬふりした街の人々。その街自体も、暴力、嘘、裏切り、見て見ぬふり、利益だけで結びついた関係など悪が蔓延している。それ故に、自分たちの罪がばれるかと思い、よそ者に対して言いがかりをつけて、痛めつけようとしたり、殺そうとしている。
だから冒頭、はぐれ者に対して、3人が言いがかりをつけて返り討ちにあってしまうのだ。この街自体が、地獄のような街なので、街を赤のペンキで塗らせて、看板にはHELLと書かせる。
はぐれ者は、街の人々の罪をあぶり出し、悪者同士を争わせたり、殺し合いをさせて、最後に極悪人の3人を始末する。
最後、チビから名前を聞かれ、知っているはずさと。はぐれ者は、鞭で打たれて殺された「保安官の亡霊?」という余韻を残して、陽炎の立つ中に消えていく。
見ようによっては、はぐれ者や極悪人は、戦争をする世界、街の人々は、その後方で自分の利益だけを血眼になって考えている人々と深読みすることができなくもない。(イーストウッドは、確か朝鮮戦争に従軍している)前線で命を張って戦っている人達と、後方で戦争はいけないといいながら、自分たちは危険な橋を渡らずに、それでもしっかりと自分たちの利益だけは確保する人たちを冷たく突き放すように描いているようにも見える。
【”その愚かしき町を赤く塗れ!”荒野から現れたストレンジャーが、自分達の利に固執するが故、正義の保安官を死に至るまで鞭打った町民及びならず者に対する強烈な復讐劇を描いた異色の西部劇】
ー 今作でクリント・イーストウッドが演じたストレンジャーは、町の人達に対しても、彼らに雇われたならず者に対しても、容赦がない。「ペイルライダー」の牧師とは大違いである。
だが、観ているとその理由が徐々に明らかになって来るのである。-
◆感想<Caution! 内容に触れています。>
・ストレンジャーは、鉱山の町、ラーゴの採掘場が国有地である事を知った保安官、ジム・ダンカンの関係者であろう。弟か、兄か、ダンカンの亡霊か・・。
ー ストレンジャーの夢に出てくる町の人達から死するまで鞭打たれるジム・ダンカン保安官。
だが、物語としてはこの辺りの描き方が粗い。-
・ストレンジャーは、町の人達には”全ての建物を赤く塗れ!特に教会だ。”と無茶な要求を次々にし、刑務所から出て来たステイシー達ならず者を容赦なく殺し、彼が保安官に任命したモルデカイがジム・ダンカン保安官の墓標が立った事を見てラーゴを去るのである。
モルデカイが”アンタの名前は何て言うんだい。”と聞いた事に対し応えた言葉”もう、しっているだろう”
<今作は、勧善懲悪の物語ではあるが、異色の西部劇である。>
湖畔の町が舞台であることが冒頭に示される。西部劇には珍しい(当社比...
湖畔の町が舞台であることが冒頭に示される。西部劇には珍しい(当社比)水場があることから、単なる西部劇とは異なるのでは……という期待が高まる。
SFと特撮と西部劇って似るのだなと思った。いや、ドキュメンタリーがいちばん近いのかも。
名無しの人間離れした主人公で、異色のチャレンジングな西部劇
クリント・イーストウッド 監督による1972年製作のアメリカ映画。
原題:High Plains Drifter、配給:ユニヴァーサル=CIC。
西部劇ではあるが、かつて見たことがないタイプの不思議な、そして怖い映画であった。何と言っても、善人そうな村人達がかつて、正義を貫こうとする保安官をよってたかって虐殺したことが暴かれる展開が怖い。村人たちが皆で黒人を殺してしまう大島渚の「飼育」(1961)を思い出した。同様に、正義を抹殺する様な閉鎖的社会を糾弾しているのだろう。
それを、西部劇という勧善懲悪のエンタテイメント世界に持ち込んだのが野心的で挑戦的。
主人公の性格もかなりぶっ飛んでいる。異人種や小人には優しいが、彼にとって女はレイプするものみたいだし、躊躇なくヒトを殺し、圧倒的に射撃が速く正確で、残忍な方法で悪役を殺す。そして、人間離れしているというか、殺された保安官の幽霊と思われる様な描かれ方である。必ずしも成功していると思えないが、時代的影響として反戦運動や学園紛争が有る影響もあるのだろうか、利益を追求し正義感を失くした米国社会を糾弾する随分とチャレンジングな映画とも思った。
監督クリント・イーストウッド、脚本アーネスト・タイディマン、製作ロバート・デイリー、撮影ブルース・サーティーズ、音楽ディー・バートン、編集フェリス・ウェブスター、字幕川名完次。
クリント・イーストウッド The Stranger、バーナ・ブルームSarah、マリアンナ・ヒルCallie、ミッチェル・ライアンDave、ジャック・ギンクMorgan、ステファン・ギラシュMayor_Jason_Hobert、テッド・ハートリーLewis、ビリー・カーティスMordecai、ジェフリー・ルイスBridges。
考えさせられた
ガンマンの主人公、歯向かう奴はすぐ殺すし、女はすぐにレイプする。やりたい放題だ。
こういう妄想はたまにするが、実際に映像として見せられると考えさせられる。
現実世界だったら警察に捕まるし、周囲から嫌われ孤立するだろう。楽しいのは一日だけだと思う。
とにかく無茶苦茶やって、見る人を飽きさせないようにしてるのかと思ったら、ラストで納得のいく終わり方をしていて感心した。
登場人物達がいわゆるウエスタンファッションなのだが、ジーパンを履いてる人は誰もいなかった。
不安が持続するクラシック・ホラー
抑制の間隙に暴力の胎動が垣間見える不気味さ。クリント・イーストウッド作品に通底する基本的イメージだ。画面そのものはゆったりとしているのに、どこか落ち着かない感じ。何かが襲いかかってくるんじゃないかという恐怖が常に付き纏い続ける。しかもその「何か」は、自分の存在をちらつかせはするもののいっこうに襲いかかってこない。カタルシスというガス抜きを迎えられないまま、恐怖は際限なく膨れ上がっていく。
イーストウッド本人が演じる名無しのガンマンはどこか人間離れしている。銃の腕前もさることながら、インディアンや小人症の男に優しく接したり、かと思いきや嫌がる女を犯したり町人たちに無茶苦茶な命令を出したりと、とにかくやることに一貫性がない。
こうやって文字に起こすとガンマンはただの暴漢のようにも思えるが、イーストウッドの演技がそこにある種神聖な輝きを宿している。「一貫性のなさ」を「超然性」へと転じてしまえるだけの説得力が、彼の演技には備わっていた。怪演っていうのはこういうもののことをいうんだろうなあ。
名無しのガンマンは紆余曲折を経て荒野の小さな町を暴漢から護衛することになったが、この町には後ろ暗い過去があった。ある保安官が町の真ん中で暴漢たちにめった打ちにされて死んだのだ。町人たちは自分に被害が及ぶことを恐れ、保安官を助けようとしなかった。保安官は失望と怨嗟のうちに息絶えていく。
同系統の西部劇である『真昼の決闘』では孤独な保安官を背後から支える妻が存在していたが、本作の保安官は最後まで孤独のままだった。
謎のガンマンとある保安官の死。2つのファクターは繋がりそうで繋がらない。おそらくそれらが繋がった瞬間に、予感として漂っていた暴力が現実のものとして顕現する。その顕現の瞬間と暴漢たちの来訪がもしちょうど重なったならば、どれだけの惨劇が起きてしまうことか。
しかしそれは起きない。ガンマンと保安官の関係は宙吊りにされたまま、遂に暴漢たちは町へ侵入する。町人たちは3人の暴漢に対して必死に応戦するも虚しく、夕刻までには呆気なく全員が暴漢らに屈した。
するとそこへ一本の縄が伸びてきて、1人の暴漢が家屋の外へと引き摺り出される。外はもう夜だった。暴漢は何者かによってめった打ちにされ息絶える。他の暴漢も同様だった。闇の中に浮かび上がる謎の男に「お前は誰だ!」と問いかけながら、暴漢たちはあえなく絶命する。もちろん謎の男とは、名無しのガンマンのことだ。
翌日、ガンマンは町を出た。町外れの墓場には小人症の男がある墓標を立てていた。男はガンマンに名前を問うが、ガンマンは「既に知っているはずだ」とだけ言って去っていく。
墓標には死んだ保安官の名前が刻まれていた。
もしイーストウッドがハリウッド的な快感を追い求めるタイプの監督だったなら、暴漢が来襲してきたところでガンマンの素性を明かすような演出をしていたと思う。そのほうが町人たちは直接的な反省の契機を得られたと思うし、暴漢たちも自分が死んでいく理由を自覚できただろう。
しかし先に述べた通り、イーストウッドは宙吊りの恐怖を、いつまでもじっとりと持続する恐怖を描き出す監督だ。カタルシスを観客の思い通りにさせない。むしろぎこちない不快感を与える。だからこそかえって心に残る。そのことをイーストウッド本人もよく理解している。つまり意図して我々に不安を投げつけている。
町人たちは小人症の男を除いて最後までガンマンの正体を知ることがなかった。超然たるガンマンの謎は漠たる不安となって町を漂い続けるだろう。おそらくガンマンもそんなことを意図していたんじゃないかと思う。
西部劇の皮を被ったクラシック・ホラーとしてものすごく質の高い映画だったと思う。
人任せにするな、自分のケツは自分で拭け。
nhkbsプレミアムシネマを連ドラ予約してるので、西部劇はよく観るが、
本作は毛並みが違っていた。見知らぬ者が、街を守るのはよくあるが、
ここに登場する街の住人は、採掘会社からの旨味を吸いながら、
それを告発しようとした保安官を闇に葬り、そのため刑務所に入った罪人たちの
復習に備えるため、用心棒を雇う。
用心棒クリントイーストウッドは街をぐちゃぐちゃにしながら、罪人たちを殺す。
ラストシーンでは、その正体は街に殺されたとも言えるダンカン保安官の
亡霊であることも仄めかす。
他力本願に対する強烈な皮肉なのか。
アメリカの理想と正義それを見失った末の繁栄ならば、そんなものは無意味だ、この街のように崩壊すべきだそれがテーマの映画だったと思います
つかみは最高
冒頭10分で三人の男が撃たれて死ぬ
最初の男は額に穴が開く
そして15分で女を押し倒しているのだから
25分でその女が頭に来て主人公を撃ちに来る
今頃頭に来たのか?
一度きりだからですよ
大笑いしてしまうこの台詞
昨今では問題視されるものです、でも最後まで物語を観て本作のテーマを知れば、何故なのか分かるはずです
これぞ西部劇!
これこそクリント・イーストウッドだというガンマンをみれます
監督2作目
既にスタイルが確立してブレもしないのが良くわかります
物語は西部劇の金字塔「真昼の決闘」を下敷きにした感じです
極悪のならず者三人が刑務所から釈放されて街に復讐にやってくる
それを主人公は成り行きで用心棒になり、彼らを迎え撃つというもの
ところが、一番悪いのは卑怯者ばかりの街の住人達だったのです
「真昼の決闘」では、街の住人達に加勢を頼みますが誰一人助けようとしません
結局、保安官が孤立無援で4人のならず者とたった独りで対決して勝利します
しかしその勝利の胸糞悪さと言ったらありません
主人公の保安官はバッチを捨てて映画が終わるのです
本作ではそんな事件が過去にあり、ダンカンという保安官がなぶり殺しされていたという設定です
保安官の助けてくれとの声を見捨てて街の住人達は黙って保安官が殺されていくのを見ているだけだったのです
しかもその墓には悪漢達をはばかって墓標すら立てていなかったのです
主人公は蜃気楼の中で無から現れて、ラストシーンもまた蜃気楼の中に幻のように消えていくのです
もしかしたら、墓標のない亡骸は幽霊となりさ迷うとの劇中の台詞の通り主人公は殺されたダンカン保安官の幽霊であったのかも知れません
復讐は三人のならず者だけでなく、ダンカン保安官を見殺しにした街の住人達にも及ぶのです
だから冒頭の女性への暴行と暴言シーンが有るわけです
小人が保安官になり町長になる必然があったのです
街の広場に悪人達の為の歓迎パーティーの会場をつくり、街の建物全てを血の色に塗る必然があったのです
初めから街全体への復讐が目的であったのです
街は大勢の死者をだし、大火で軒並み焼失します
多分金鉱山の問題も明るみにでてしまい、この街は消えて無くなってしまうでしょう
ホラー映画?
違います
ただのアクション西部劇?
それも違います
アメリカの理想と正義
それを見失った末の繁栄ならば、そんなものは無意味だ、この街のように崩壊すべきだ
それがテーマの映画だったと思います
クリントイーストウッドは、理想のフロンティアを追い求めた幾多の正義が必ず勝つ西部劇の世界もこのように失われていったのだと言いたかったのでしょう
よかった
2回目、なんとなく面倒な映画を見るのが嫌な気分だったので見た。イーストウッドが用心棒として全権を委任されたのをいいことに小人を保安官にしたり、やりたい放題。
最終的には街は廃墟のようになり、けっこう暗い話だった。イーストウッドも実在していたのかどうかよくわからない印象だった。
名無しの主人公
総合:45点 ( ストーリー:30点|キャスト:60点|演出:60点|ビジュアル:70点|音楽:60点 )
しょぼい小さな町に何故か町全体を塗り替えられるほどの大量の赤い塗料の在庫があって、町の建物全てを真っ赤に塗って、大きな机を作らせてその周りに住民が無防備にいてわざわざ三人の無法者がやってくるのを待っている。何がしたいのかわからなかった。「地獄」という看板があったから、ここがその舞台にふさわしいように塗り替えられたのか。
全体を通してなんとなくわかるのは、イーストウッド演じる流れ者は、町の住民に復讐をしたいからわざわざこんなことをする。彼らに代償を支払わせる。それは物であったり建物であったり、時には命で償わせる。鞭で打たれて死んだ保安官の場面が出てくるから、流れ者は保安官と何らかの関係があるし、その後の彼の住民への行動から復讐なんだなと何となく分る。
最後に保安官の墓の前で「名前はわかっているはず」と言うから、流れ者は保安官の幽霊ということか。それにしても現実性がない。幽霊だというのは映画だからまだいいとして、彼の思うとおりに住民と無法者が動いてくれることがおかしいし、鞭で一人の無法者が打ち殺されるまで他の人は何もせず酒場で待っているとか思いっきり変だ。そして住民と彼の関係など色々と分り辛い。昔、イーストウッド監督作品にはずれはないと書いたが、前言撤回、これははずれだった。
異色の西部劇。
イーストウッドらしい普通の西部劇は作らないぞ! という気概に溢れていて面白かった。自分を見殺しにした町全体に復讐するという、正に西部劇ホラー。町にやって来た流れ者が何者かという謎は、初っぱなのシーンでのムチの音に暗示されてたが、この伏線はなかった方が、もっと怖さが増したように思う。
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