「不安が持続するクラシック・ホラー」荒野のストレンジャー 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
不安が持続するクラシック・ホラー
抑制の間隙に暴力の胎動が垣間見える不気味さ。クリント・イーストウッド作品に通底する基本的イメージだ。画面そのものはゆったりとしているのに、どこか落ち着かない感じ。何かが襲いかかってくるんじゃないかという恐怖が常に付き纏い続ける。しかもその「何か」は、自分の存在をちらつかせはするもののいっこうに襲いかかってこない。カタルシスというガス抜きを迎えられないまま、恐怖は際限なく膨れ上がっていく。
イーストウッド本人が演じる名無しのガンマンはどこか人間離れしている。銃の腕前もさることながら、インディアンや小人症の男に優しく接したり、かと思いきや嫌がる女を犯したり町人たちに無茶苦茶な命令を出したりと、とにかくやることに一貫性がない。
こうやって文字に起こすとガンマンはただの暴漢のようにも思えるが、イーストウッドの演技がそこにある種神聖な輝きを宿している。「一貫性のなさ」を「超然性」へと転じてしまえるだけの説得力が、彼の演技には備わっていた。怪演っていうのはこういうもののことをいうんだろうなあ。
名無しのガンマンは紆余曲折を経て荒野の小さな町を暴漢から護衛することになったが、この町には後ろ暗い過去があった。ある保安官が町の真ん中で暴漢たちにめった打ちにされて死んだのだ。町人たちは自分に被害が及ぶことを恐れ、保安官を助けようとしなかった。保安官は失望と怨嗟のうちに息絶えていく。
同系統の西部劇である『真昼の決闘』では孤独な保安官を背後から支える妻が存在していたが、本作の保安官は最後まで孤独のままだった。
謎のガンマンとある保安官の死。2つのファクターは繋がりそうで繋がらない。おそらくそれらが繋がった瞬間に、予感として漂っていた暴力が現実のものとして顕現する。その顕現の瞬間と暴漢たちの来訪がもしちょうど重なったならば、どれだけの惨劇が起きてしまうことか。
しかしそれは起きない。ガンマンと保安官の関係は宙吊りにされたまま、遂に暴漢たちは町へ侵入する。町人たちは3人の暴漢に対して必死に応戦するも虚しく、夕刻までには呆気なく全員が暴漢らに屈した。
するとそこへ一本の縄が伸びてきて、1人の暴漢が家屋の外へと引き摺り出される。外はもう夜だった。暴漢は何者かによってめった打ちにされ息絶える。他の暴漢も同様だった。闇の中に浮かび上がる謎の男に「お前は誰だ!」と問いかけながら、暴漢たちはあえなく絶命する。もちろん謎の男とは、名無しのガンマンのことだ。
翌日、ガンマンは町を出た。町外れの墓場には小人症の男がある墓標を立てていた。男はガンマンに名前を問うが、ガンマンは「既に知っているはずだ」とだけ言って去っていく。
墓標には死んだ保安官の名前が刻まれていた。
もしイーストウッドがハリウッド的な快感を追い求めるタイプの監督だったなら、暴漢が来襲してきたところでガンマンの素性を明かすような演出をしていたと思う。そのほうが町人たちは直接的な反省の契機を得られたと思うし、暴漢たちも自分が死んでいく理由を自覚できただろう。
しかし先に述べた通り、イーストウッドは宙吊りの恐怖を、いつまでもじっとりと持続する恐怖を描き出す監督だ。カタルシスを観客の思い通りにさせない。むしろぎこちない不快感を与える。だからこそかえって心に残る。そのことをイーストウッド本人もよく理解している。つまり意図して我々に不安を投げつけている。
町人たちは小人症の男を除いて最後までガンマンの正体を知ることがなかった。超然たるガンマンの謎は漠たる不安となって町を漂い続けるだろう。おそらくガンマンもそんなことを意図していたんじゃないかと思う。
西部劇の皮を被ったクラシック・ホラーとしてものすごく質の高い映画だったと思う。