「100冊分の1本」恋はデジャ・ブ 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
100冊分の1本
同じ一日が何度も繰り返される。映画人ならだれでも二の足を踏むプロットだと思う。
Happy Death Day(2017)は女性版かつホラー版だがオマージュとはいえ重圧に耐えきれず登場人物に「君の話はGroundhog Dayを思わせるね」と言わせている。主人公はその映画のことを知らない。すると相手はびっくり。
「How do you sleep at night? You’ve never seen groundhog day?」
(どうやって寝るんだ?Groundhog Dayも見たことないのに?)
これは「あなたがGroundhog Dayを見たことがないならそれは人生の大きな欠損だ」みたいな意味だろう。露骨な模倣であることを自嘲しているのである。コミカルなタッチだがいちおうホラーなので何度死んでも目覚めるところに焦点がくる。逆に言えば何度もやり直せる。
例えるならゲーム。ゲームで死んだらやり直す。やり直すなら死んだ原因を回避する。Edge of Tomorrow(2014)のケイジ(トムクルーズ)もそうした。
新兵として目覚めると鬼軍曹が待っている。異分子だらけの兵卒の巣窟に連れられアーマースーツを着けていきなり戦場へ。死ぬと再び新兵として目覚めたところへ戻る。セーブポイントはないので死んだら最初からぜんぶやり直し。学習し軌道修正するのを見るのが楽しい。
ホラーに使えSFに使えるならラブコメに使える。
When We First Met「理想の男になる方法」(2018)はフォトブースで写真を撮ると過去に戻る。それを利用してアダムディヴァインがアレクサンドラダダリオに何度もアタックする。
主人公が、何度もあいまみえる同じ事象にやり方を変えて対処する。それが楽しい。
フィルは朝目覚めると、陽気な客に会う、朝食をとる、物乞いを見かける、ぜんぜん思い出せない幼馴染みの保険屋に会う、ぬかるみの穴に足をとられる。これらのひとつひとつは、翌日また翌々日、同じ目に遭ったときのフィルの反応を期待させるのだ。
おそらくハロルドライミスにしても繰り返される同じ日に翻弄される男の喜劇をつくろうとしていたのだと思う。もとから高徳な志があったとは思わない。映画はだれが見ても1993年につくられたハリウッドのコメディだった。
ところがそれを見たすべての人がそこに人生の命題があることに気付いた。
わたしも以前、不機嫌を全身にまとっていたときがある。まいにち忙しく、やっかいなことばかり。職場では対立し、身内ともそりがあわない……。
……話の流れからすると今は立派な人間になったようなフラグだが、それを言いたいわけではない。これはGroundhog Dayを説明するのに必要な行程なだけだ。
だいたい説明もいらない話である。メタファーとか象徴とか、わかる人にはわかる文脈ではなく、教養や富や環境にかかわらずだれに対しても公平にそれが伝わる話だ。
テレビキャスターのフィル(ビルマーレイ)は自己中な性格、協調性に欠ける。キャスターの権威をかさに着て、横柄で思いやりがない。
毎年田舎町のイベント(Groundhog Day)の取材に行くが、内心、イベントも町も町民もウザいものに感じている。
「なんでおれがこいつらの取材しなきゃなんねーの」という感じ。今年も、とっとと終わらせて引き上げるつもりだった。
プロデューサーのリタ(アンディマクダウェル)とカメラマンのラリーと取材を済ませるが、雪で足止めをくい、町に止宿を余儀なくされる。
が、一夜明けてみると、また昨日と同じイベント日。
翌日もまた同じイベント日。その翌日も……。
繰り返される日を生きていくほかないとさとったフィルは、酔っ払う、お金をちょろまかす、騙りで女をせしめる、散財してみる、憧れのリタの攻略を試みる。
日毎学習し失敗を修正しながらリタを落とそうとするが、彼女はいっこうに落ちない。下心を見透かされ毎回(日)失敗する。
やがて絶望したフィルは自死を試みる。クルマで崖に墜落、感電死、トラックに飛び込み、教会の鐘楼から飛び降り、いずれも死ねない。朝6時には、また新しく同じ日が始まる。
なにもかもやり尽くしたフィルが最後にやり始めたのは周りの人々をハッピーにすることだった。
態度をあらため、人を小馬鹿にする言動をやめ、邪険に接するのをやめ、無関心でいることをやめ、人に興味を持ち、親切に接する。
自己研鑽もしてみる。ピアノを習い、小説を読み、氷彫刻もやってみる。
退屈なだけの田舎町という偏見を捨てて町の人々を助けイベントに積極的に参加する。
Groundhog Dayのパーティーで、リタが見るのは、ステージでノリノリのピアノ伴奏をするフィル。町じゅうの人々から感謝されるフィル。
ステージイベントの独身男オークションで、リタは全額を投じてフィルを競り落とす。自然に結ばれるリタとフィル。
その日で、輪廻が止まる。
映画が伝えるのは人に親切にして日々楽しく生きなさいというストレートなメッセージである。言葉にしてしまうと恥ずかしいほどだがその人生の命題がいささかのけれん味もなくダイレクトに表現されている。
わたしたちが思春期から抱えている大きなジレンマに「こんな街の、こんなところで、こんな人たちと、こんなことをしている」というのがある。
「こんな」は落胆や諦観をふくんでいて、いったんそれを抱えてしまうとローテンションが属性と化し、抜け出すことができない。
今様の呼び方を用いるならモラトリアムになるのかもしれないが、とりわけ特殊な意識ではなくだれもが抱えてきたものだ。
今この時も「まいにち同じことの繰り返しだ」と、だれかがどこかで嘆いているに違いない。
わたしも地方に住んでいて中小企業につとめていて仲間は毎日同じで仕事も毎日同じである。
さてそれなら、その同じことの繰り返しを、腐って過ごすのか、楽しく過ごすのか、どちらがいいのですか、と映画は問いかけている。
とはいえ映画に教訓はない、押しつけがましくない、画策しているものなどなにひとつ見えない、そもそも始めから終わりまでアメリカのコメディ映画の枠を外れない。
暢楽なままで見ているうちにしぜんとそんな問いかけがあり、驚きの哲学があることに気付いてしまうのである。
偉そうなことは言えないがあなたがもし生き方の実用書を探しているのならその100冊にこの1本が匹敵するはずである。