軽蔑(1963)のレビュー・感想・評価
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カミーユその人を見よ
ジャン=リュック・ゴダール作品。
ブリジット・バルドーがすごい。美の模型。
そしてあの軽蔑する眼差し。記憶に残り続けると思う。
本作はバルドー演じるカミーユと劇作家のポールの倦怠感漂う夫婦の話だが、映画製作についても軽蔑の眼差しを向けている気がする。
特に試写の時、映画プロデューサーのプロコシュが裸体に喜んでいる様を冷めた感じで撮っていることにその眼差しを感じる。
ゴダール自身も映画プロデューサーとの関わりや脚本直しの指示で自分の思い通りに撮れないときがあったのだろう。そんな実体験を皮肉めいたジョークで映画に昇華しているのだから素晴らしい。
またカミーユが軽蔑するのもすごいわかる。妻として特別視されないことへの傷つき。ポールよ、セックスへの心配じゃなくて、カミーユその人を見よ。
カプリ島の画も美しいし、観れてよかった。
タクシーが30分遅れただけで男と女の天と地はひっくり返る
「『何 読んでんの?』と
夫に声をかけられた時に
この人と離婚しようと決めた」。
という三行の文章を読んだ。
実際、そんなものなのかも知れない。
理由不明の男女のお別れは、それは不条理劇と呼んでも構わないだろうが、
これが超現実主義。結婚の生ナマの姿と呼んでも、また構わないのだ。
半年前に我が営業所に入社した若きW君が 可哀想である。あまりにも周りの先輩たちから
「おまえ独身なのか、羨ましいなぁ」と言われ続けているので
「オレ、結婚への夢に冷めましたわー」とこぼしている。
ダメじゃん、先輩たち!
・・・・・・・・・・・・・
本作、
こじれていく男女。
嫉妬と独占欲がなければ、愛は成就しないらしいが、
嫉妬と独占欲があったとしても、愛は成就しない。
「もしもあの時こうしていれば」が無い。
解決も正解も無い。
ゴダール。怖い。
「10年間、妻のいる自宅に戻らなかったユリシーズの物語」=オデッセイアと、この夫婦=ポールとカミーユの物語が、スクリーンに重ねられて語られていくのだけれど、
ホメロスのオデッセイアや、オルフェウスとエウリディーチェ、そして中東オリエントの伝承「エデンの園」のアダムとイヴ等々の、それぞれの《夫婦喧嘩》が
よくぞここまで飽きられもせずに、いまだに人類全般に読まれているものだ。
それは、哀しくも可笑しい、男女の真の姿だからだね。
だからゴダールは、この映像作品でも新しくて古い物語を描く。
懐かしきカプリ島。
絶景と言うべき島の別荘。
黄色のローブ、赤いカウチと青いソファー。
呻吟するポールとカミーユ。
ドイツ人映画監督のラングはオデッセイアの真意を語り、
そして男と女の成り行きを采配するアメリカ人のゼウス神=プロデューサーのプロコシュをば、人間たちは呪う。
BBの裸身が陽光に燦然と映えます。
神話のふるさと=地中海を舞台とした前衛なお芝居に、皆さん引き込まれること、請け合います。
若きW君、
きみに忠告しようね、
アフロディーテは、手が届かないから美しいと知るべき。
苦しいから、良いのだ。
それが人生の面白さだよ。
うふふ。
ゴダールの中で一番好きな作品
ゴダールの作品はスター俳優が出ても、ぴったりはまるのは、なぜなんでしょうか。
アラン・ドロンを起用した「ヌーヴェルバーグ」も傑作でした。「軽蔑」は監督自身の私生活を反映したグタグタ感があるのに愛すべき作品です。バルドーのモデルは破局したばかりのアンナ・カリーナ。観ている内に、なぜかバルドーがアンナに同化してしまう。ゴダールが助監督役で出てくるのは、ご愛嬌。
ちなみに監督役はフリッツ・ラングで実在の映画監督です。ヌーヴェルバーグに多大な影響を与えたシネフィルにとって偉大なる方です。ちなみに彼の「スカーレットストーリー」は私にトラウマを植えつけました。
軽蔑劇中の「オデッセイア」というギリシャ神話を題材にした映画のカットインで映画はフィナーレを迎えますが何かジーンとするシーンでした。ラングは晩年、映画が撮れませんでしたがギリシャ史劇を撮ってたら、どんなんだったのだろうか想像が膨らみます。
軽蔑は男女の破局の他に映画スタジオ・システムの崩壊を描いた作品でもあります。
熱烈なゴダール信者だったときのベルトルッチ監督は「暗殺のオペラ」で、まんま「軽蔑」のシーンをパクっています。次回作「暗殺の森」でアンナ役にバルドーを起用したかったそうですが断られたそうです。
名監督、名作なのだろうか?
無駄に美しいギリシャ見立てのカプリ島?の風景と、ただの嫉妬でもなさそうだが、主人公のしつこく面倒くさい会話がぐちぐちと続く、この映画の良さが分からなかった。ブリジット・バルドーの美しい体だけが良かったので、これをもっと見せてくれとしか思わなかった。どんな評論家がなんと言おうと、この作品に関しては、私には名作とも名監督とも思えない。モラヴィアの原作もこんなに面白くないのか、確かめるために逆に読みたくなった。
ブリジット・バルドー
前から観たかった映画で、やっと観れた。
観たかった1番の理由は、ブリジット・バルドー!
ブリジット・バルドーを初めて知ったのは、大好きなバンドのプリテンダーズからで、
「Message Of Love」って曲の歌詞に、ブリジット・バルドーの名前が出てくるんですよ。
動物愛護に尽力する方で、人として尊敬するし興味あります。
ちなみに、プリテンダーズの女性ボーカルであるクリッシー・ハインドも動物愛護家。
(女性ロッカーつながりだけど、ジョーン・ジェットも動物愛護です)
とにかくオシャレな映画で、センスいい色使いが強烈に飛びこんできます。
赤い屋根に赤い壁、壁に寄りかかった赤い自転車、服装や車などなど、細部まで計算しつくされた色使い。
話的には、詩的なセリフが多くて回りくどく難解で眠くなります。
あまり意味が分からず半分ボンヤリ観てたけど、最後まで観て概ね分かりました。
フランス映画らしい終わり方が良かった。
ブリジット・バルドー、オシャレさ、終わり方、に加点して、60点ぐらい(笑)
面白い
夫婦の痴話喧嘩部分は古めかしい。ミシェル・ピコリは誰が見ても典型的なDV野郎で、捨てられて当然なのだが同情的に描かれているのがアホくさい。
一方、映画製作にまつわるシーンはハッとする箇所が多々あって素晴らしかった。差し色が入ったギリシャ彫刻のドアップもやたらとカッコいいが、何よりもフリッツ・ラングが良すぎる。本人役だとは聞き知っていたが、もっとチョイ役なのかと勝手に思っていた。台詞、身のこなしも含めて際立った存在感で、生ける伝説を見てしまった、という感動があった。
ジャック・パランスも誇張されたキャラが良かったし、寝そべるバルドーの肌のキメまで肉薄する撮影も良かった。スクリーンで見られて良かった。
私のくるぶし好き?
まずはご冥福をお祈りします。
ゴダール氏の近年の作品は私ごときでは全く理解できず睡魔との闘いに必死になっています。きっと遺作も理解の範疇を越えるんだろうな…この作品も数十年ぶりに鑑賞。当時はこの手の作品を背伸びしてわかった風に観てました(^^;;改めて鑑賞し、ビビットな色使い、バルドーの美しさ、米国の資本主義と西欧の映画制作との軋轢、室内の移動撮影、美しい海景など全く色褪せないクオリティに感服いたしました。遺作の公開が近づいていますね。楽しみの反面、たぶんまた…体調をしっかり整えて挑みたいと思います٩( ᐛ )و
③G-10
カミーユの思いの深さと海の美しさ。
ギリシャの古典についてはよくわからなかったが、私には、まずシンプルに視覚的に素敵な映画だった。舞台となった場所そのものの美しさやユニークさ、配色の楽しさ。
加えて、だんだんカミーユの心境がわかってくると、彼女の苦しい心境が察せられ、目が離せなくなっていく。
二人のマンション?での会話の場面は長く、話が進まず歯切れが悪い。少し眠気を誘われたが、この場面は後で思うと、やはり見どころだったと感じる。
カミーユには、ポールが自分をいわば道具として売る行為に出たことが、決定的にショックだった。
ポールにしてみれば、<現実的選択>だったのだろう。彼女なら我慢してくれるだろう、という甘えもあったかもしれない。
でも…カミーユの愛情は最初から、とても深く純粋だった。だからこそ、受け入れがたい。彼の愛の浅さを知った以上、愛しても苦しむだけだ…でもやはり愛している。カプリ島など、そこで起きることを予想すれば、もちろん断りたい。しかし彼のためには、彼はもちろん自分も行ったほうが良い。でも、もし彼が行くな!と言ってくれれば自分はとても嬉しい…。
ポールはポールで、彼女の思いの深さを知って戸惑いつつも、知らんぷりしてやり過ごしたい気持ち。と同時に、もし彼女を失ったらどうしよう、という不安。
こころの中で行ったり来たりする時間。現実と理想の間で、駆け引きしながら決断を迫られるとき。
カプリ島で決定的に失望したカミーユ。純粋な愛を貫くことができない人生は、辛いだけで無意味なものとなってしまった。
島を取り囲む美しい海の青さ、深さ、拡がり。カミーユの思いの深さ、純粋さとリンクしそれらが脳裏に焼きつく。
とても美しいけれど、虚ろな風景。
それにしても、男性の監督がこのように繊細に女性の気持ちを巧みに描いている、ということに感心してしまう。
芸術活動と言いながら、足元では純粋なものを無頓着に踏みつけていることに、自他ともに批判する意味が込められての<軽蔑>だと思う。
ブリジッドバルドーはその美しさや可愛さも素敵だったけれど、カンの強さや熱い思いが伝わるキリキリした演技がよかった。結構気に入ってしまった。
ブリジット・バルドーに尽きる
綺麗な人だったんですね。
一人の女優を魅力的に撮れたら、それで映画はOKだみたいな話を聞いたことがあって、まさにそんな映画だなと思った。
追記
自分が愛されていることに自信が持てない。なんかわかる気もしないではないが、あまりにも彼女がかわいそうだった。
ナポリ湾を望む岬の奇妙な別荘で展開する、ゴダール流「蛙化現象」の物語。
こんな建物ホントにあるの??
と思ったら、マジで実在するんだな。カプリ島のマラパルテ邸。
なにこれ。超かっこいい。
すげえ、観に行きてええ!!!!(いま入れないらしいけどw)
でも、あんだけ坂下らないとたどり着けなくて、建物から海岸までも行くのもあんなに階段下りないとたどり着けないとか、実はめちゃくちゃ不便な立地だよなあ。
なんか、ランドマークとしての「映え」に全ぶりしてるような、凄い建築物。
強烈な空想的概念だとか、見栄だとか、アイディアだとかに寄り切られて、そのまま作られちゃったみたいな狂ったお屋敷。
実際に別荘として来客を招いたりするには、かなり傍迷惑な建物だったのでは?
たぶん、これって男女の孤独と断絶とか、
夫婦という制度の本来的ないびつさとか、
一見美しくても機能性を喪った状態とか、
お互い近づけそうでいてすれ違う様とか、
そういう「夫婦関係」のメタファーとして、
舞台立てに用いられてるんだろうね。
ちょうど持ち主のクルツィオ・マラパルテが1958年に亡くなっていて、1963年4月のロケの際は空き家だったんだな。それでこれ幸いとロケ地に採用したと。
これって、原作でも出てくるのかな?
原作者のアルベルト・モラヴィアって、一時期、別荘の主人であるマラパルテに支援されてたみたいだけど。
実際には、この異様な別荘建築なしでは『軽蔑』という映画自体が成立し得ていなかったのではないか――、そう思わされるくらいのインパクトを残す、強烈なロケーションだ。
からっと晴れた青い空。風光明媚な崖地の海岸線。
岬の突端に向かって這うように伸びる奇矯な建築。
そこで展開される、壮絶な「愛の不毛と断絶」の物語。
ここから『気狂いピエロ』までは、あと一歩といっていい。
― ― ―
『軽蔑』は、モラヴィアの原作に比較的忠実なつくりだというが、いくらどう考えても、妻であるアンナ・カリーナとの不和が直接的に影響を与えているのは明らかだ。
61年3月、アンナ・カリーナと結婚
64年、アヌーシュカ・フィルム設立(アンナ・アリーナと)
同年、『はなればなれに』完成(アンナ・カリーナ主演)
64年12月、アンナ・カリーナと離婚
65年8月、『気狂いピエロ』公開(アンナ・カリーナ主演)
ちょうど『軽蔑』は64年の4月~5月に撮られていて、その時期ゴダールとアンナ・カリーナの夫婦仲は急速に悪化していた。
ここで描かれているミシェル・ピコリとブリジット・バルドーが演じるポール&カミーユ夫妻の日常と、やがて(夫の側からすればかなり「唐突に」)巻き起こる家庭内の不和には、そのままふたりの関係性が投影されていると見ていい。
むしろ、かなり生々しく「ゴダールとアンナ・カリーナ間で実際にあった会話」や「実際にアンナ・カリーナが見せた行動」が取り入れられている可能性まである。要するに、この映画は原作付きでありながら、かなり「私小説的」な色彩を帯びているということだ。
作家とか監督というのは本当に因果な商売で、体験した不幸やいざこざまで飯の種になってしまう。いや、私小説的なジャンルでは、そういった実生活での思いがけない事件や対人関係の不調がないと「創作のネタ」が作れない、という側面すらありそうだ。
俳優もしかりで、身に降りかかった不幸はみんな「演技のこやし」になる。味わったことのある感情を「引き出し」にしまっておかないと、求められたときに引き出せないからだ。
その意味では、『軽蔑』はゴダールが自身の夫婦関係の亀裂とそれに伴う苦悩を、「創作」の形で芸術に「昇華」した作品だということができる。
それと、ある意味、自分を苦しめるアンナ・カリーナの言動や不条理な態度を赤裸々に世間に「さらしものにする」ことで、「復讐」を遂げている部分もあるのかもしれない。
「いやマジでなんであんなに怒ってるかわけわかんないんだけど、皆さんもそう思いません? ちょっと聞いてやってくださいよ。超理不尽ですから」みたいな。
それにしても、生々しい。
夫婦がイチャコラしてる序盤のピロートークも生々しいし、
突然のように妻の態度が冷淡になる切り替わり方も生々しいし、
いったん生じた亀裂が見る見る間に拡がって修復不能になっていく感じも生々しい。
会話それ自体はきわめてソフィスティケイトされていて、ゴダールらしい言葉遊びと象徴性に満ちているのだが、その感覚というか空気感が実に生々しいのだ。
ああ、うちのかみさんもたまにあるよ、こういう急にこわくなるやつ。
で、扱いにしくじるとぶわっとエスカレートしてキレっぽくなるんだけど、
なんでそこまでイライラしてるのかこっちは全然つかみきれないっていう。
「なんで?」「どうすればいい?」ってのも禁句で、「理屈じゃない」と。
というか「理詰めの議論」自体が猛烈に「男性特有の追い詰め方で腹が立つ」と。
じゃあどうしろっちゅうねん(笑)。
カミーユ。ポールの妻にして女優。元タイピスト。
ブリジット・バルドーの放つメガトン級の魅力と、
得体の知れない蠱惑的な「ゲームの仕掛け方」と、
理解の及ばない突然の心変わりというエニグマ。
吸引力。トロフィー。愛嬌。移り気。大いなる謎。
ある意味、女性の「すべて」が詰まっている、
アイコンのようなキャラクターといってもいい。
ミシェル・ピコリ演じる脚本家ポールは、「なぜ妻は突然の心変わりをしたのか」を考え続け、相手に対しても問い続けるが、映画が終わるまで結局「明快な答え」は得られない。一応のところは(理性的に解釈するなら)、アメリカ人プロデューサーと車に一緒に乗せて先に行かせたことで、「人身御供にされた」とカミーユが考えたのがきっかけだろうということは示唆されるのだが、具体的な「軽蔑するに至った経緯」は最後まで本人の口からは語られない。
結局のところ、女性の気分と海の天気は予測不可能なのだ(山の天気だっけ?)。
ていうか、この映画って、今日び流行ってた意味合いでの「蛙化現象」の話だよね。
ある日突然、ふとした相手の行動やことばがきっかけで「百年の恋もさめて」しまうような現象。いったん憑き物が落ちると、どんどんうざさと気持ち悪さが増して、話すのもいや、臭いもいや、同じ空間にいるのもいや、となってくる。
この映画は、(2023年の流行り言葉としての)「蛙化現象」に直面した男女のあせりといらだち、破局と破滅を描きだした物語であるともいえるわけだ。
そこの「過程」を描くことが肝要な作品なので、前半の室内をうろうろしながら会話を重ねていくシーンや、後半の海辺の別荘での心理戦の描写は見どころ満載だが、一方で、終わり方はかなり適当な感じもする。というか、かなり無理やりな締め方だよね? これって原作もこんな感じで終わるのだろうか?
ゴダールとしては、アンナ・カリーナが好きで好きで、同時に憎くて憎くて、ああでもしないと「気が済まなかった」という感じなのではないか? 留飲を下げるというか、こうなったらいっそのこと●●●しまえと(笑)。
まあゴダールの場合『女と男のいる舗道』(62)でも似たことをやってるし、その後しばらくして「それだけで」出来ているような怪作『ウィークエンド』(67)も撮っているので、苦しくなったらこうやって無理やり終わるのが「手癖」の人だったってだけかもしれないけど。
― ― ―
夫婦の愛の在り方とすれ違い、破局を描くという面に加えて『軽蔑』が重要なのは、本作が「映画製作の裏側」を描いたバックヤードもの、「映画についての映画」だということだ。
冒頭からドリー撮影の様子に始まり(常に対象とカメラが並行に移動して交わらないという動きには、夫婦の関係性も投影されているのだろうか)、屋上での『オデュッセイア』の撮影シーンで終わる(もちろん『オデュッセイア』の物語もまた夫婦の不和の物語であり、映画内の物語とオーバーラップしている)本作は、きわめて自己言及的な作品であると同時に、ゴダールの映画論を比較的生の形で登場人物に語らせている作品でもある。
ちょうどトリュフォーでいえば『アメリカの夜』に当たる作品といえようか。
そういえば、オープニングでゴダール自身の声でスタッフクレジットが読み上げられるが、パゾリーニの『大きな鳥と小さな鳥』(66)の「歌うクレジット」に影響を与えた可能性はあってもおかしくないな。
さらには、映画監督役にゴダール自身が敬愛するフリッツ・ラングを引っ張り出して、自分は副監督役で出演している(このあとゴダールは『気狂いピエロ』でサミュエル・フラーを出演させている)。フリッツ・ラングが作中で語る「金言」の数々には、ゴダール自身の映画観や映画業界に対する提言が強く反映されているはずだ。
アメリカ人プロデューサー役でジャック・パランスを呼びつけているのもかなりクセの強い配役で、当初ゴダールがこの映画を、フランク・シナトラとキム・ノヴァクで撮ろうとしていたエピソードとも関連がありそうな気がする。
フランス、イタリア合作映画というビッグ・バジェットの「国際映画」という枠組みをもつ本作の作中で、フランス語と英語、イタリア語が飛び交い(フリッツ・ラングがドイツ語話すシーンもあったっけ?)、言語間の断絶が随所で見られるのも面白い。
意地でも英語しか話さないジャック・パランスと、意地でもフランス語しか話さないブリジット・バルドー(笑)。
すべての会話にプロデューサー秘書の美女が通訳として介入して、微妙に会話のニュアンスを支配しているというのも、けっこう生々しい。この女性にはポールとイチャコラするシーンもあって、彼女は必ずしも「空気」のような存在ではなく「れっきとしたプレイヤーのひとり」なのである。そういう人物が、それぞれの会話の勘所を握っているというのは、結構恐ろしい状況だと思うのだが、じつは国際ビジネスにおいては「あるある」ではないだろうか。
それにしても、単純な日常会話すら成立しないプロデューサーと女優妻が一緒に出奔して、何をどうするつもりだったんだろうなあ……。
そのほか、赤・青・黄・白を象徴的に用いたとんがった色彩設定(『気狂いピエロ』に通じる)とか、『オデュッセイア』を彷彿させるような変なタオル(バスローブ?)の巻き方とか、唐突に大写しになるギリシャ神話の神々の彫刻とか、ブリジット・バルドーが読んでいるフリッツ・ラングの解説本とか、ポンペイ?の春画集とか、風呂でもつばのある帽子をかぶってるミシェル・ピコリとか(ぱっと思いつくのは本作と同年、撮影開始の直前に封切られた『8 1/2』(63)のマルチェロ・マストロヤンニの格好だが、そういやあれも「映画を描いた映画」だったな。ちなみにプロデューサーは本作の主役にマストロヤンニとソフィア・ローレンを推したけどゴダールに拒絶されたらしい)、いろいろと「ゴダールらしい」要素は満載である。
あと、全編で流れる「カミーユのテーマ」が美しい。作曲家はジョルジュ・ドルリューで、むしろトリュフォー映画の常連というイメージが強い人だけど、なんかワーグナーの『タンホイザー』とか『神々の黄昏』の和声進行を少し思わせる曲だよね。
頭でっかちな映画を撮りだす前の、いちばん脂ののっていた時期のゴダールの魅力を堪能できる良作だったと思う。
軽蔑と言う不毛の大地
ゴダールファンには『軽蔑』されそうだけど、彼の作品はいまいち肌に合わなくて寝落ちするのもしばしばだけど、今回はすごい緊張感で最後まで観られました。(なんかトホホなレビューですいません)舞台の脚本家がハリウッドの映画プロデューサーから脚本の依頼を受けたことで夫婦関係が崩壊する話です。下心から女好きのプロデューサーの車に妻を一人で乗せた後、プロデューサーとは何かあったかと妻に問いただす主人公の卑屈な態度や、彼に対して男として脚本家として激しく失望し,それが軽蔑へと変化して行く妻の心境の変化がリアルで息を呑むような展開です。風光明媚ならカプリに舞台が変わっても彼女の気持ちは変わらず、本当にプロデューサーの元に走ってしまう幕切れは残酷であり不毛です。同じクリエイターとしてゴダールを主人公に投影しているのか分からないけど、クリエイターの安いプライドと過酷な現実との板ばさみはつらいものがあります。役者では、ミシェル・ピコリがまさに静かな熱演です。ブリジット・バルドーは美しい肢体だけでなく、最小限の表情で軽蔑する女を見事に演じていました。
映画に対する軽蔑
去年の11/12に僕は意中の女の子に告白し、付き合い、同じ年の11/19に別れた。もし、去年の11/11にこの映画を観ていたら、もしかすると、別れずに済んだかもと、感じた。
と、言っても、この映画の主題は男女の関係というわけではなさそうだ。それは「映画」そのものであり、映画を作っているものに固有の卑俗さがこの映画の「悪役」だった。それを懲らしめるのは、「運命」であり、すなわち脚本を書いてるゴダールだ。つまり、ゴダールvs映画がこの映画の基本構造だ。
そうだとしても、僕にとってはこの映画は男女の関係が主題に感じてしまう。それぐらい本当らしい関係の破綻だった。論理に囚われ、形而下の出来事見ようとせずに、事実を撫でるようにしか認識できない男を見るのは自分を見てるようでとても辛かった。
主人公はついにカミーユが何に軽蔑したのかを知ることはなかったが、観客にはそれははっきりしてるのはとても不思議だ。
現実の男女のお互いへの不理解は、大抵は男が悪い。そう思ってしまう。
いつものことだが
寝てしまった。ゴダールは二度寝る。
リマスターで黄色と赤がきれい!
ストーリーは相変わらずわかりません。オデュッセイアの知識もあやふやな身としてはわりと早めに諦めた。
ブリジットバルドーの裸体いいなあ。
夫婦の絆、西欧の起源、映画。
1963年。ジャン=リュック・ゴダール監督。妻の心変わりを察した男の右往左往の物語と、その要因を補足する(かもしれない)話として、夫の仕事(映画の脚本)と金をめぐる話と、映画を製作するプロデューサーや監督、出演者の話(特にアメリカ資本と映画監督の関係)と、さらにその映画作品自体(オデュッセイア)の物語(ユリシーズとその妻の関係)が複雑に重なりながら進行する。だから、例えばブリジッド・バルドーは心変わりをする妻であり、アメリカ資本の力に揺れるフランス人であり、映画製作につきあう素人であり、ユリシーズの妻である(ついでにブレヒトでもある。みればわかる)。作中の映画監督フリッツ・ラングが原作とプロデューサーの要求の間で微妙な距離とバランスをとって自分らしい映画をつくろうとするように、ゴダール監督も原作小説と微妙な距離とバランスを取っている。それがつまり映画というものだということらしい。
赤、青、黄の原色が意味を持って配置され(特に金の色ともいうべき黄色が特徴的)、イタリアの撮影所を自転車が走り、映画館ではロッセリーニの「イタリア旅行」が上映されている。アメリカ資本、ドイツ人監督、イタリアの撮影所。そこにフランス人の脚本家夫婦が入ってきて、ヨーロッパの起源ともいうべき物語をテーマに、映画撮影という営みが遂行される。ゴダール監督の作品に通底する組み合わせ。しかも、他の監督作品に比べて、引用元は明言されていることが多いし、物語の展開も心理的にわかりやすく、困惑するところがほとんどない。ゴダール監督はこの作品から入るべき。
意識下に色
男女の痴話喧嘩を2時間見せられるだけ映画…なのに心地良いのは何故だろう?
ゴダールは実は会話を見せようとしていないのではないか?
常に3原色を配置し、場面と音楽はズレて、人物の動きは唐突で映像空間を作っている。
神話に教訓はなく、ただ水平線を見つめるだけ。
こんなことできるのはゴダールしかいなかった。
予想を超える難しい映画だった。
脚本家であるポール(ミシェル・ピッコリ)は、妻カミーユ(ブリジッド・バルドー)とローマのアパートで幸せだったが、アメリカ人のプロデューサーのジェレミー(ジャック・パランス)から、フリッツ・ラング監督の映画「オデュッセイア」の難解な脚本の修正を依頼される。アパートの購入代などが気になるポールは、妻がジェレミーに誘われるのを、黙認する。
ここで、ギリシアの叙事詩に親しんでいる西欧人ならば、イタケーの王オデュッセイア(ラテン語だとウリッセ、英語読みだとユリシーズ)が、トロイア戦争ののち10年間も漂泊し、彼の不在の間、妃のペーネロペー(ペネロペ)が多くの男たちに求婚されることから、容易に、ポールとユリシーズ、カミーユとペネロペ、ジェレミーと求婚者を対比できるのだが、我々日本人には手に余る。
結局、3人は、フリッツ・ラングが撮影を進めている映画のロケ地、あまりにも美しいカプリ島を訪ねるが、カミーユのポールに対する愛は冷めてしまい(軽蔑)、あまつさえ、カミーユとジェレミーは出奔する。おそらく、その背景には巷間伝えられているようなゴダール監督と(私の一番好きな)当時の妻アンナ・カリーナとの不安定な関係が影を落としているのだろう。
すると、人間関係だけでも、3層の構造があることに気づくのだ。底辺にゴダールの個人的な事情が横たわり、その上にポールとカミーユの劇的な関係、しかし、それにはユリシーズから由来する規範が存在する。
映画として見ると、ゴダールの始めたヌーヴェル・ヴァーグを基層に、長編第6作にして初めての大規模な予算をかけて製作に乗り出したイタリア・フランス合作映画であるが、ハリウッド映画の影もある。特に驚いたのが、62年当時すでにヨーロッパの映画産業には衰退が目立つこと。ハリウッドでは早くからテレビに押されていたことは知っていたが。そこでバルドーを登用したことは、よく判る。製作者からの要請があったとは言え、バルドーの肢体は、この世のものとは思えないくらい素晴らしいのだが、演技者となると疑問もある。表面上は、あんなに避けていたジェレミーと出奔したのち、表情に何の曇りもみられない。もちろんゴダールは、それを狙っていたのだろうが。
それにしても、あの「勝手にしやがれ」で輝いていた手持ちカメラの使用による疾走感はどこに行ったのか。セリフや演技の自発性は感じられ、カットの多さ、引用癖も十分、残っていたものの。やはり、64年のBande à part、65年の「気狂いピエロ」を待たなければいけないのだろう。
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