軽蔑(1963)のレビュー・感想・評価
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カミーユその人を見よ
ジャン=リュック・ゴダール作品。
ブリジット・バルドーがすごい。美の模型。
そしてあの軽蔑する眼差し。記憶に残り続けると思う。
本作はバルドー演じるカミーユと劇作家のポールの倦怠感漂う夫婦の話だが、映画製作についても軽蔑の眼差しを向けている気がする。
特に試写の時、映画プロデューサーのプロコシュが裸体に喜んでいる様を冷めた感じで撮っていることにその眼差しを感じる。
ゴダール自身も映画プロデューサーとの関わりや脚本直しの指示で自分の思い通りに撮れないときがあったのだろう。そんな実体験を皮肉めいたジョークで映画に昇華しているのだから素晴らしい。
またカミーユが軽蔑するのもすごいわかる。妻として特別視されないことへの傷つき。ポールよ、セックスへの心配じゃなくて、カミーユその人を見よ。
カプリ島の画も美しいし、観れてよかった。
ゴダール作品でも、分かり易い映画理論と斬新な感性で創作されたフランス映画の粋に魅了される秀作
初見は18歳の時のテレビ見学でしたから、50年振りの再鑑賞になります。ヌーベルバーグの旗手にして映画の革命家であるジャン=リュック・ゴダール(1930年~2022年)作品の初体験は、変わった映画を撮る人のイメージを持ちながら、ある夫婦の倦怠期を扱った物語の内容が分かり易く、予想外にも好感を持ちました。映画日誌には、退廃的な映画に驚きつつ秀作と明記しています。それでもこの時期は、アーサー・ペンの「奇跡の人」ロベール・ブレッソンの「スリ」リチャード・サラフィンの「バニシング・ポイント」ビリー・ワイルダーの「あなただけ今晩は」ルネ・クレマンの「雨の訪問者」ジョージ・シートンの「大空港」と観ていて、唯一このゴダール作品には星評価を付けていません。この曖昧さを振り返ると、まだ映画の知識について未熟であると自覚していたからでもあります。初見の印象は、フランス映画のセックス・シンボルにしてコケティッシュな魅力溢れる女優ブリジット・バルドー(1934年生まれ)の美しい身体が堪能でき、原作者アルベルト・モラヴィア(1907年~1990年)という作家の存在を知り、名前だけは有名なドイツ無声映画時代の巨匠フリッツ・ラング監督(1890年~1976年)の素顔が見れて、「シェーン」の悪役で印象的だったジャック・パランス(1919年~2006年)の配役の意外性と、映画としての楽しみ方が色々と出来る事でした。そして、映画タイトルの軽蔑という言葉について、好きか嫌いかの価値判断はあっても、人を軽蔑するという概念をまだ人生で経験したことが無かったことです。
1954年に発表されたモラヴィアの原作は、夫婦間の好き嫌いが愛憎を通り越して軽蔑に至る過程の心理を表現したもののようですが、これに制作当時33歳のゴダール監督が共感し身につまされたのかは、偶然にも2年前結婚したパートナーのアンナ・カリーナと翌年の1964年に離婚した私生活から想像するしかありません。それでも長編デビュー作「勝手にしやがれ」(1960年)でも主人公のミシェルとパトリシアが延々と噛み合わない会話を交わし、“見つめ合っても結局無意味”な男女を描いていて、ゴダール監督の特徴の一つと印象に持ちました。この作品でも脚本家ポールと妻カミーユがアメリカ人プロデューサープロコシュの誘いで別荘のあるカプリ島に行くか行かないかで揉めて、最後は喧嘩からカミーユの口からポールに軽蔑の言葉が浴びせられます。ローマのこのアパートシーンが全体の約三分の一の30分を占めているのも、ゴダール監督が意図したものに間違いありません。
先ずタイトル表示のないナレーションでキャスト・スタッフを説明するプロローグの斬新さに驚きました。ゴダール監督の解説好きが窺えます。ヌーベルバーグの精神的父親と言われる映画批評家アンドレ・バザン(1918年~1958年)の言葉 “映画は、欲望が作る世界の視覚化である” と述べ、「軽蔑」はその世界を描く、と観客に直接語りかけます。20歳で批評家デビューし、その後バザン編集の『カイエ・デュ・シネマ』に執筆したゴダール監督は、批評家として古今東西の映画を沢山浴びた映画人であり、その知識と解釈は映画史を熟知したものであったと想像します。カメラのレンズ側を観客に向けて本編が始まる、この大胆さを支える自信には、畏敬の念を抱かざるを得ません。そして全裸で横たわるカミーユが身体の脚から顔までの一つ一つの部分を言葉にして、ポールに好きか素敵かを尋ねるカットのフランス映画らしさ。それは当時29歳のブリジット・バルドーのヌードだから表現できたことかも知れません。均整の取れた美しい肢体が清潔感あるエロティシズムを感じさせ、少しも淫靡さがなく、淀川長治さんがこのシーンを褒めていたことが想い出されます。女性美崇拝のフランス映画を代表するシーンです。続くイタリア国立撮影所チネチッタのスタジオからプロコシュが登場するカットのフレーミングの奇抜さもいい。斜陽のイタリア映画界に参入したハリウッド大手の配給会社のプロデューサーの横柄さと自信に溢れた態度から、プロコシュの人間性が分かります。まるで舞台に立って演説する演劇人のようで、ポールと通訳のフランチェスカは、頭だけしか見えない観客の扱いです。プロコシュは映画興行面からフリッツ・ラング監督の演出に不満があり、色っぽいシーンを入れるようポールに脚本の手直しを要請する。ここで最初のバルドーのヌードシーンの意味が明かされる諧謔たっぷりなゴダール演出の理論的映画解説の面白さです。体格の良いプロコシュが格言をまとめたミニミニ手帳を取り出して、“己の無知を知ることは優れた精神の賜物”と自分に言い聞かせるように語るのも、皮肉が効いている。
古代ギリシャの叙事詩『オデュッセイア』の英雄オデュッセウスと妻ペネロペの物語は、古代遺跡から発掘された彫刻のモンタージュと僅かに役者が登場する撮影シーンで全容は分かりません。来年公開されるクリストファー・ノーラン監督の超大作で勉強するとして、この映画の素晴らしさは、撮影のラウール・クタール(1924年~2016年)の映像美にあると深く感銘しました。カメラワークの素晴らしさは、プロローグからラストカットまで統一された美学があります。今回クタールの監修のもとに修復された4Kデジタル化の映像の色彩の配置とその色合いの美しさは見事です。プロコシュのスポーツカーの赤、フランチャスカのオレンジ色の服も上品に、全体としては赤と青と白のコントラストが際立っています。ローマのアパートで交互にお風呂に入って、カミーユが赤のバスタオル、ポールが白のバスタオルを身体に巻く姿が、古代ギリシャの彫刻を思わせる見せ方も面白い。そして、最後の舞台となるカプリ島のロケーションの美しさと、プロコシュの別荘のモダンで独創的なデザイン。屋上が平面で、そのまま海につながる景観の素晴らしさ。この別荘で修復不可能になったポールとカミーユの最後のシーンがいい。一度画面から消えて海に泳ぐカミーユに、うたたねするポールを俯瞰で捉えたカットが、世界を分けた二人を映像で語ります。目覚めたポールにカミーユが遺した置手紙のモノローグが重なる演出が巧い。洗練された演出とカメラワークです。
フランソワ・トリュフォーやゴダール監督と多く組んだラウール・クタールのカメラワークと色彩の美しさに、これもトリュフォー作品で音楽を担当したジョルジュ・ドルリュー(1925年~1992年)の音楽が合っていました。古代ギリシャを想像させる悠久の静かな時の流れのようなメロディが、カミーユとポールのすれ違う意識の軋轢を、普遍的男女の人間模様として伴奏します。それも一つの曲を何度も繰り返しながら、不思議とくどく感じません。このような映画音楽の使い方があるのに、いたく感心してしまいました。ストーリーは悲劇で終わりますが、ゴダール監督の表現力の豊かさとスタッフの充実度、主演バルドーの女性美に改めて魅せられた嬉しさが勝りました。フランス映画らしい感性の秀作と思います。
男と女は別れるものだし
タクシーが30分遅れただけで男と女の天と地はひっくり返る
「『何 読んでんの?』と
夫に声をかけられた時に
この人と離婚しようと決めた」。
という三行の文章を読んだ。
実際、そんなものなのかも知れない。
理由不明の男女のお別れは、それは不条理劇と呼んでも構わないだろうが、
これが超現実主義。結婚の生ナマの姿と呼んでも、また構わないのだ。
半年前に我が営業所に入社した若きW君が 可哀想である。あまりにも周りの先輩たちから
「おまえ独身なのか、羨ましいなぁ」と言われ続けているので
「オレ、結婚への夢に冷めましたわー」とこぼしている。
ダメじゃん、先輩たち!
・・・・・・・・・・・・・
本作、
こじれていく男女。
嫉妬と独占欲がなければ、愛は成就しないらしいが、
嫉妬と独占欲があったとしても、愛は成就しない。
「もしもあの時こうしていれば」が無い。
解決も正解も無い。
ゴダール。怖い。
「10年間、妻のいる自宅に戻らなかったユリシーズの物語」=オデッセイアと、この夫婦=ポールとカミーユの物語が、スクリーンに重ねられて語られていくのだけれど、
そのホメロスの「オデッセイア」や、「オルフェウスとエウリディーチェ」、そして中東オリエントの伝承「エデンの園」のアダムとイヴ等々の、それぞれの《夫婦喧嘩》が
よくぞここまで飽きられもせずに、いまだに人類全般に読まれているものだ。
それは、哀しくも可笑しい、男と女の真実の姿だからだね。
だからゴダールは、この映像作品でも新しくて古い物語をフィルムに描いた。
懐かしきカプリ島。
絶景と言うべき島の別荘。
黄色のローブ、赤いカウチと青いソファー。
・呻吟するポールとカミーユの姿。
・ドイツ人映画監督のラングはオデッセイアの真意を語り、
・そして男と女の成り行きを采配するアメリカ人のゼウス神=プロデューサーのプロコシュをば、登場人物たちは一致して呪う。
神と人間が住む神話の島での物語でした。
ビーナス=BBの裸身が陽光に燦然と映えます。
神話のふるさと=地中海を舞台とした前衛なお芝居に、皆さんも引き込まれること、請け合います。
さあて、うちの新入社員、若きW君、
きみに忠告しようね、
アフロディーテは、手が届かないから美しいと知るべき。
苦しいから、良いのだ。傷付くから沁みるのだ。
それが人生の面白さだよ。苦しんでみ給え、
うふふ。
ゴダールの中で一番好きな作品
ゴダールの作品はスター俳優が出ても、ぴったりはまるのは、なぜなんでしょうか。
アラン・ドロンを起用した「ヌーヴェルバーグ」も傑作でした。「軽蔑」は監督自身の私生活を反映したグタグタ感があるのに愛すべき作品です。バルドーのモデルは破局したばかりのアンナ・カリーナ。観ている内に、なぜかバルドーがアンナに同化してしまう。ゴダールが助監督役で出てくるのは、ご愛嬌。
ちなみに監督役はフリッツ・ラングで実在の映画監督です。ヌーヴェルバーグに多大な影響を与えたシネフィルにとって偉大なる方です。ちなみに彼の「スカーレットストーリー」は私にトラウマを植えつけました。
軽蔑劇中の「オデッセイア」というギリシャ神話を題材にした映画のカットインで映画はフィナーレを迎えますが何かジーンとするシーンでした。ラングは晩年、映画が撮れませんでしたがギリシャ史劇を撮ってたら、どんなんだったのだろうか想像が膨らみます。
軽蔑は男女の破局の他に映画スタジオ・システムの崩壊を描いた作品でもあります。
熱烈なゴダール信者だったときのベルトルッチ監督は「暗殺のオペラ」で、まんま「軽蔑」のシーンをパクっています。次回作「暗殺の森」でアンナ役にバルドーを起用したかったそうですが断られたそうです。
名監督、名作なのだろうか?
ブリジット・バルドー
前から観たかった映画で、やっと観れた。
観たかった1番の理由は、ブリジット・バルドー!
ブリジット・バルドーを初めて知ったのは、大好きなバンドのプリテンダーズからで、
「Message Of Love」って曲の歌詞に、ブリジット・バルドーの名前が出てくるんですよ。
動物愛護に尽力する方で、人として尊敬するし興味あります。
ちなみに、プリテンダーズの女性ボーカルであるクリッシー・ハインドも動物愛護家。
(女性ロッカーつながりだけど、ジョーン・ジェットも動物愛護です)
とにかくオシャレな映画で、センスいい色使いが強烈に飛びこんできます。
赤い屋根に赤い壁、壁に寄りかかった赤い自転車、服装や車などなど、細部まで計算しつくされた色使い。
話的には、詩的なセリフが多くて回りくどく難解で眠くなります。
あまり意味が分からず半分ボンヤリ観てたけど、最後まで観て概ね分かりました。
フランス映画らしい終わり方が良かった。
ブリジット・バルドー、オシャレさ、終わり方、に加点して、60点ぐらい(笑)
面白い
夫婦の痴話喧嘩部分は古めかしい。ミシェル・ピコリは誰が見ても典型的なDV野郎で、捨てられて当然なのだが同情的に描かれているのがアホくさい。
一方、映画製作にまつわるシーンはハッとする箇所が多々あって素晴らしかった。差し色が入ったギリシャ彫刻のドアップもやたらとカッコいいが、何よりもフリッツ・ラングが良すぎる。本人役だとは聞き知っていたが、もっとチョイ役なのかと勝手に思っていた。台詞、身のこなしも含めて際立った存在感で、生ける伝説を見てしまった、という感動があった。
ジャック・パランスも誇張されたキャラが良かったし、寝そべるバルドーの肌のキメまで肉薄する撮影も良かった。スクリーンで見られて良かった。
私のくるぶし好き?
カミーユの思いの深さと海の美しさ。
ギリシャの古典についてはよくわからなかったが、私には、まずシンプルに視覚的に素敵な映画だった。舞台となった場所そのものの美しさやユニークさ、配色の楽しさ。
加えて、だんだんカミーユの心境がわかってくると、彼女の苦しい心境が察せられ、目が離せなくなっていく。
二人のマンション?での会話の場面は長く、話が進まず歯切れが悪い。少し眠気を誘われたが、この場面は後で思うと、やはり見どころだったと感じる。
カミーユには、ポールが自分をいわば道具として売る行為に出たことが、決定的にショックだった。
ポールにしてみれば、<現実的選択>だったのだろう。彼女なら我慢してくれるだろう、という甘えもあったかもしれない。
でも…カミーユの愛情は最初から、とても深く純粋だった。だからこそ、受け入れがたい。彼の愛の浅さを知った以上、愛しても苦しむだけだ…でもやはり愛している。カプリ島など、そこで起きることを予想すれば、もちろん断りたい。しかし彼のためには、彼はもちろん自分も行ったほうが良い。でも、もし彼が行くな!と言ってくれれば自分はとても嬉しい…。
ポールはポールで、彼女の思いの深さを知って戸惑いつつも、知らんぷりしてやり過ごしたい気持ち。と同時に、もし彼女を失ったらどうしよう、という不安。
こころの中で行ったり来たりする時間。現実と理想の間で、駆け引きしながら決断を迫られるとき。
カプリ島で決定的に失望したカミーユ。純粋な愛を貫くことができない人生は、辛いだけで無意味なものとなってしまった。
島を取り囲む美しい海の青さ、深さ、拡がり。カミーユの思いの深さ、純粋さとリンクしそれらが脳裏に焼きつく。
とても美しいけれど、虚ろな風景。
それにしても、男性の監督がこのように繊細に女性の気持ちを巧みに描いている、ということに感心してしまう。
芸術活動と言いながら、足元では純粋なものを無頓着に踏みつけていることに、自他ともに批判する意味が込められての<軽蔑>だと思う。
ブリジッドバルドーはその美しさや可愛さも素敵だったけれど、カンの強さや熱い思いが伝わるキリキリした演技がよかった。結構気に入ってしまった。
ブリジット・バルドーに尽きる
ナポリ湾を望む岬の奇妙な別荘で展開する、ゴダール流「蛙化現象」の物語。
こんな建物ホントにあるの??
と思ったら、マジで実在するんだな。カプリ島のマラパルテ邸。
なにこれ。超かっこいい。
すげえ、観に行きてええ!!!!(いま入れないらしいけどw)
でも、あんだけ坂下らないとたどり着けなくて、建物から海岸までも行くのもあんなに階段下りないとたどり着けないとか、実はめちゃくちゃ不便な立地だよなあ。
なんか、ランドマークとしての「映え」に全ぶりしてるような、凄い建築物。
強烈な空想的概念だとか、見栄だとか、アイディアだとかに寄り切られて、そのまま作られちゃったみたいな狂ったお屋敷。
実際に別荘として来客を招いたりするには、かなり傍迷惑な建物だったのでは?
たぶん、これって男女の孤独と断絶とか、
夫婦という制度の本来的ないびつさとか、
一見美しくても機能性を喪った状態とか、
お互い近づけそうでいてすれ違う様とか、
そういう「夫婦関係」のメタファーとして、
舞台立てに用いられてるんだろうね。
ちょうど持ち主のクルツィオ・マラパルテが1958年に亡くなっていて、1963年4月のロケの際は空き家だったんだな。それでこれ幸いとロケ地に採用したと。
これって、原作でも出てくるのかな?
原作者のアルベルト・モラヴィアって、一時期、別荘の主人であるマラパルテに支援されてたみたいだけど。
実際には、この異様な別荘建築なしでは『軽蔑』という映画自体が成立し得ていなかったのではないか――、そう思わされるくらいのインパクトを残す、強烈なロケーションだ。
からっと晴れた青い空。風光明媚な崖地の海岸線。
岬の突端に向かって這うように伸びる奇矯な建築。
そこで展開される、壮絶な「愛の不毛と断絶」の物語。
ここから『気狂いピエロ』までは、あと一歩といっていい。
― ― ―
『軽蔑』は、モラヴィアの原作に比較的忠実なつくりだというが、いくらどう考えても、妻であるアンナ・カリーナとの不和が直接的に影響を与えているのは明らかだ。
61年3月、アンナ・カリーナと結婚
64年、アヌーシュカ・フィルム設立(アンナ・アリーナと)
同年、『はなればなれに』完成(アンナ・カリーナ主演)
64年12月、アンナ・カリーナと離婚
65年8月、『気狂いピエロ』公開(アンナ・カリーナ主演)
ちょうど『軽蔑』は64年の4月~5月に撮られていて、その時期ゴダールとアンナ・カリーナの夫婦仲は急速に悪化していた。
ここで描かれているミシェル・ピコリとブリジット・バルドーが演じるポール&カミーユ夫妻の日常と、やがて(夫の側からすればかなり「唐突に」)巻き起こる家庭内の不和には、そのままふたりの関係性が投影されていると見ていい。
むしろ、かなり生々しく「ゴダールとアンナ・カリーナ間で実際にあった会話」や「実際にアンナ・カリーナが見せた行動」が取り入れられている可能性まである。要するに、この映画は原作付きでありながら、かなり「私小説的」な色彩を帯びているということだ。
作家とか監督というのは本当に因果な商売で、体験した不幸やいざこざまで飯の種になってしまう。いや、私小説的なジャンルでは、そういった実生活での思いがけない事件や対人関係の不調がないと「創作のネタ」が作れない、という側面すらありそうだ。
俳優もしかりで、身に降りかかった不幸はみんな「演技のこやし」になる。味わったことのある感情を「引き出し」にしまっておかないと、求められたときに引き出せないからだ。
その意味では、『軽蔑』はゴダールが自身の夫婦関係の亀裂とそれに伴う苦悩を、「創作」の形で芸術に「昇華」した作品だということができる。
それと、ある意味、自分を苦しめるアンナ・カリーナの言動や不条理な態度を赤裸々に世間に「さらしものにする」ことで、「復讐」を遂げている部分もあるのかもしれない。
「いやマジでなんであんなに怒ってるかわけわかんないんだけど、皆さんもそう思いません? ちょっと聞いてやってくださいよ。超理不尽ですから」みたいな。
それにしても、生々しい。
夫婦がイチャコラしてる序盤のピロートークも生々しいし、
突然のように妻の態度が冷淡になる切り替わり方も生々しいし、
いったん生じた亀裂が見る見る間に拡がって修復不能になっていく感じも生々しい。
会話それ自体はきわめてソフィスティケイトされていて、ゴダールらしい言葉遊びと象徴性に満ちているのだが、その感覚というか空気感が実に生々しいのだ。
ああ、うちのかみさんもたまにあるよ、こういう急にこわくなるやつ。
で、扱いにしくじるとぶわっとエスカレートしてキレっぽくなるんだけど、
なんでそこまでイライラしてるのかこっちは全然つかみきれないっていう。
「なんで?」「どうすればいい?」ってのも禁句で、「理屈じゃない」と。
というか「理詰めの議論」自体が猛烈に「男性特有の追い詰め方で腹が立つ」と。
じゃあどうしろっちゅうねん(笑)。
カミーユ。ポールの妻にして女優。元タイピスト。
ブリジット・バルドーの放つメガトン級の魅力と、
得体の知れない蠱惑的な「ゲームの仕掛け方」と、
理解の及ばない突然の心変わりというエニグマ。
吸引力。トロフィー。愛嬌。移り気。大いなる謎。
ある意味、女性の「すべて」が詰まっている、
アイコンのようなキャラクターといってもいい。
ミシェル・ピコリ演じる脚本家ポールは、「なぜ妻は突然の心変わりをしたのか」を考え続け、相手に対しても問い続けるが、映画が終わるまで結局「明快な答え」は得られない。一応のところは(理性的に解釈するなら)、アメリカ人プロデューサーと車に一緒に乗せて先に行かせたことで、「人身御供にされた」とカミーユが考えたのがきっかけだろうということは示唆されるのだが、具体的な「軽蔑するに至った経緯」は最後まで本人の口からは語られない。
結局のところ、女性の気分と海の天気は予測不可能なのだ(山の天気だっけ?)。
ていうか、この映画って、今日び流行ってた意味合いでの「蛙化現象」の話だよね。
ある日突然、ふとした相手の行動やことばがきっかけで「百年の恋もさめて」しまうような現象。いったん憑き物が落ちると、どんどんうざさと気持ち悪さが増して、話すのもいや、臭いもいや、同じ空間にいるのもいや、となってくる。
この映画は、(2023年の流行り言葉としての)「蛙化現象」に直面した男女のあせりといらだち、破局と破滅を描きだした物語であるともいえるわけだ。
そこの「過程」を描くことが肝要な作品なので、前半の室内をうろうろしながら会話を重ねていくシーンや、後半の海辺の別荘での心理戦の描写は見どころ満載だが、一方で、終わり方はかなり適当な感じもする。というか、かなり無理やりな締め方だよね? これって原作もこんな感じで終わるのだろうか?
ゴダールとしては、アンナ・カリーナが好きで好きで、同時に憎くて憎くて、ああでもしないと「気が済まなかった」という感じなのではないか? 留飲を下げるというか、こうなったらいっそのこと●●●しまえと(笑)。
まあゴダールの場合『女と男のいる舗道』(62)でも似たことをやってるし、その後しばらくして「それだけで」出来ているような怪作『ウィークエンド』(67)も撮っているので、苦しくなったらこうやって無理やり終わるのが「手癖」の人だったってだけかもしれないけど。
― ― ―
夫婦の愛の在り方とすれ違い、破局を描くという面に加えて『軽蔑』が重要なのは、本作が「映画製作の裏側」を描いたバックヤードもの、「映画についての映画」だということだ。
冒頭からドリー撮影の様子に始まり(常に対象とカメラが並行に移動して交わらないという動きには、夫婦の関係性も投影されているのだろうか)、屋上での『オデュッセイア』の撮影シーンで終わる(もちろん『オデュッセイア』の物語もまた夫婦の不和の物語であり、映画内の物語とオーバーラップしている)本作は、きわめて自己言及的な作品であると同時に、ゴダールの映画論を比較的生の形で登場人物に語らせている作品でもある。
ちょうどトリュフォーでいえば『アメリカの夜』に当たる作品といえようか。
そういえば、オープニングでゴダール自身の声でスタッフクレジットが読み上げられるが、パゾリーニの『大きな鳥と小さな鳥』(66)の「歌うクレジット」に影響を与えた可能性はあってもおかしくないな。
さらには、映画監督役にゴダール自身が敬愛するフリッツ・ラングを引っ張り出して、自分は副監督役で出演している(このあとゴダールは『気狂いピエロ』でサミュエル・フラーを出演させている)。フリッツ・ラングが作中で語る「金言」の数々には、ゴダール自身の映画観や映画業界に対する提言が強く反映されているはずだ。
アメリカ人プロデューサー役でジャック・パランスを呼びつけているのもかなりクセの強い配役で、当初ゴダールがこの映画を、フランク・シナトラとキム・ノヴァクで撮ろうとしていたエピソードとも関連がありそうな気がする。
フランス、イタリア合作映画というビッグ・バジェットの「国際映画」という枠組みをもつ本作の作中で、フランス語と英語、イタリア語が飛び交い(フリッツ・ラングがドイツ語話すシーンもあったっけ?)、言語間の断絶が随所で見られるのも面白い。
意地でも英語しか話さないジャック・パランスと、意地でもフランス語しか話さないブリジット・バルドー(笑)。
すべての会話にプロデューサー秘書の美女が通訳として介入して、微妙に会話のニュアンスを支配しているというのも、けっこう生々しい。この女性にはポールとイチャコラするシーンもあって、彼女は必ずしも「空気」のような存在ではなく「れっきとしたプレイヤーのひとり」なのである。そういう人物が、それぞれの会話の勘所を握っているというのは、結構恐ろしい状況だと思うのだが、じつは国際ビジネスにおいては「あるある」ではないだろうか。
それにしても、単純な日常会話すら成立しないプロデューサーと女優妻が一緒に出奔して、何をどうするつもりだったんだろうなあ……。
そのほか、赤・青・黄・白を象徴的に用いたとんがった色彩設定(『気狂いピエロ』に通じる)とか、『オデュッセイア』を彷彿させるような変なタオル(バスローブ?)の巻き方とか、唐突に大写しになるギリシャ神話の神々の彫刻とか、ブリジット・バルドーが読んでいるフリッツ・ラングの解説本とか、ポンペイ?の春画集とか、風呂でもつばのある帽子をかぶってるミシェル・ピコリとか(ぱっと思いつくのは本作と同年、撮影開始の直前に封切られた『8 1/2』(63)のマルチェロ・マストロヤンニの格好だが、そういやあれも「映画を描いた映画」だったな。ちなみにプロデューサーは本作の主役にマストロヤンニとソフィア・ローレンを推したけどゴダールに拒絶されたらしい)、いろいろと「ゴダールらしい」要素は満載である。
あと、全編で流れる「カミーユのテーマ」が美しい。作曲家はジョルジュ・ドルリューで、むしろトリュフォー映画の常連というイメージが強い人だけど、なんかワーグナーの『タンホイザー』とか『神々の黄昏』の和声進行を少し思わせる曲だよね。
頭でっかちな映画を撮りだす前の、いちばん脂ののっていた時期のゴダールの魅力を堪能できる良作だったと思う。
軽蔑と言う不毛の大地
ゴダールファンには『軽蔑』されそうだけど、彼の作品はいまいち肌に合わなくて寝落ちするのもしばしばだけど、今回はすごい緊張感で最後まで観られました。(なんかトホホなレビューですいません)舞台の脚本家がハリウッドの映画プロデューサーから脚本の依頼を受けたことで夫婦関係が崩壊する話です。下心から女好きのプロデューサーの車に妻を一人で乗せた後、プロデューサーとは何かあったかと妻に問いただす主人公の卑屈な態度や、彼に対して男として脚本家として激しく失望し,それが軽蔑へと変化して行く妻の心境の変化がリアルで息を呑むような展開です。風光明媚ならカプリに舞台が変わっても彼女の気持ちは変わらず、本当にプロデューサーの元に走ってしまう幕切れは残酷であり不毛です。同じクリエイターとしてゴダールを主人公に投影しているのか分からないけど、クリエイターの安いプライドと過酷な現実との板ばさみはつらいものがあります。役者では、ミシェル・ピコリがまさに静かな熱演です。ブリジット・バルドーは美しい肢体だけでなく、最小限の表情で軽蔑する女を見事に演じていました。
映画に対する軽蔑
去年の11/12に僕は意中の女の子に告白し、付き合い、同じ年の11/19に別れた。もし、去年の11/11にこの映画を観ていたら、もしかすると、別れずに済んだかもと、感じた。
と、言っても、この映画の主題は男女の関係というわけではなさそうだ。それは「映画」そのものであり、映画を作っているものに固有の卑俗さがこの映画の「悪役」だった。それを懲らしめるのは、「運命」であり、すなわち脚本を書いてるゴダールだ。つまり、ゴダールvs映画がこの映画の基本構造だ。
そうだとしても、僕にとってはこの映画は男女の関係が主題に感じてしまう。それぐらい本当らしい関係の破綻だった。論理に囚われ、形而下の出来事見ようとせずに、事実を撫でるようにしか認識できない男を見るのは自分を見てるようでとても辛かった。
主人公はついにカミーユが何に軽蔑したのかを知ることはなかったが、観客にはそれははっきりしてるのはとても不思議だ。
現実の男女のお互いへの不理解は、大抵は男が悪い。そう思ってしまう。
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