劇場公開日 1970年12月19日

「このスクルージの役をやっているアルバート・フィニーは、 4年後に「...」クリスマス・キャロル(1970) lilacさんの映画レビュー(感想・評価)

このスクルージの役をやっているアルバート・フィニーは、 4年後に「...

2022年2月14日
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このスクルージの役をやっているアルバート・フィニーは、
4年後に「オリエント急行殺人事件」でエルキュール・ポワロ
の役をやっている。

この映画の前にも「クリスマス キャロル」は映画化されていて、
そこでスクルージの役をやっているジョージ・スコットは、
「クリスマス キャロル」の2年後に
「モルグ街の殺人」でデュパンの役をやっている。

こうしたキャスティングと、
借金を棒引きにしたスクルージが
「招かれた気分だ」と言って
そのあと実際に姪夫婦の食卓に招かれることとは実は関係がある。

オーウエンやフーリエ、カベーなどが構想する社会デザインに
必ず出てくるのが「共同食堂」で、
こうした初期の空想社会主義者たちが著述活動をしていた時期は、
活字印刷技術が開発されてから、
1860年代にタイプライターが発明され、
個人が活字で著述することが可能になるまでの時期と重なっている。
この歴史的区間以前の著述活動というのは、
プラトンの「饗宴」に典型的に見られるように、
同一の資格を持つ者同士が、
食事と対話と書記行為と読書行為を協働して行っていた、
統一されたコミュニティーの中で生まれたものである。
そこでは、師弟関係による区別はあったかもしれないが、
書記者と読書者との立場の間には基本的な互換性があった。
活字本が刊行されるようになると、
活字による書記者と読書者との間にはこうした互換性は無くなり、
読書者は、自己の家に書棚を備え付けるだけの余裕を持ち、
識字能力もあるが、
活字で自己の見解を表明する資格を持たない
セカンドクラスのメンバーとして書記者から隔てられることになった。

こうした隔絶によって生じた緊張状態から解放されたいという願望と、
家族関係を解体して共同体の中で食事を取ることを義務とするという
初期の社会主義者の奇妙な構想との間には
強い関連性があると私は思う。※1

最も初期の推理小説家の一人と言われ、
「最初の」私立探偵オーギュスト・デュパンを生み出した
エドガー・アラン・ポーは、
活字で書記活動をする資格を持つ者と
読書者との間にあるこのような隔絶を架橋しようと
非常に意識的な努力をした作家だった。
自らが執筆編集する雑誌で、読者に懸賞金をつけて犯人推理を求めることを
していたのである。
今で言うところのインタラクティブコミュニュケーションである。
それに参加した読者たちは、自らを個人の資格で犯罪捜査をする
私立探偵に重ね合わせていたに違いない。

ところでこの「クリスマス・キャロル」って
統一教会の洗脳キャンプで参加者に
見せられるものなんだって。
監禁状態でこれを観たあとでは、結構ほいほいと自発的に自分の権利を放棄して
カルト奴隷になる人がいるらしい。
そういうことを念頭においてこの映画を観ると、
映画の中でスクルージの家のカーテンが痛んでいたり、
借金の支払いを猶予するのと引き換えに露天商から振舞われたスープの器が
なんというかひどい代物なのに対して、
借金を棒引きにしたあとの器が随分よくなったりしているのに気づく。

誰かに対してスクルージ作戦を考えている人たちは、
カルト教祖のように秘匿された知の系譜を独占して、
現在では当たり前になったインタラクティブコミュニュケーションをも
一人二役とか一人三役でなコントロール化に置くことができる、
と考えられるだけの自信があるんだろうか?
自信を持つのは別に構わないけど、
起こった結果に対しては責任を負わなければいけませんよ。

※1
ドストイエフスキーは、こうした関連性に気がついていたと私は思う。
「罪と罰」の中で登場人物に
「フーリエの考えの中には共同住宅はあるが生活がない。
2枚のパンフレット
(活字かガリ版刷りかは知らないが印刷されたもののはずである)
にまとめられてそれでおしまいだ」
といったようなことを言わせている。

徒食罪なんていうとんでもない罪があって、
少ないとは言えない数の作家や芸術家が弾圧されていた一方で、
こうした作家は禁書になるどころか学校の教科書だったいうのがロシアなのだ。
私がソビエト時代のロシアに関して随分なことを言うのも、
こういうロシア人に対する基礎的な信頼があってのことなのです。

lilac