奇跡の丘のレビュー・感想・評価
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パゾリーニの傑作
パゾリーニがまだまともな映画を作っていた頃の傑作。しかも、かなり聖書に忠実で、変に奇をてらった演出もなく、淡々とキリストの生涯を描いている。そういう意味では、137分という長いこともあり、人によっては退屈だったかもしれないが、個人的には結構引き込まれた。
出演者はほとんど素人らしいが、冒頭のマリアと夫ヨセフ、ヨセフの前に現れた天使(天使は一瞬だが、何度か現れる)、その3人の表情とそのモノクロのカメラワークに圧倒される。
イエスが生まれたベツレヘムやイスラエルの街並みが、まるでタイムスリップしたような、本当にその当時の街並み、山や砂漠、海岸等が、いかにも聖書に出て来そうで、よくこんなところを見つけてロケしたなと感心する。実際には南イタリアでロケしたようであるが。
音楽も秀逸で、特に「マタイ受難曲」と「時には母のない子のように」が印象的だ。
アフレコも結構合っている。出演者が素人なので、何回も録音し直して、満足いくまで合わせていたのだろう。「アポロンの地獄」はあまり合っていなかった。
彼の晩年の作品と、スキャンダラスな殺人事件を考えると、この当時はこの映画のようなごく真面目な映画を作っていたことに驚く。
私には猫に小判か
NHKBSで放映された。秋の彼岸の頃には朝4時半はまだ真っ暗で、この映画を観ているうちにだんだん明るくなって来るのだろう。5時近くでもまだ真っ暗だ。車もトラックらしきのがたまに通るくらいだ。イタリアとフランスの合作映画らしい。1964年製作。白黒映画である。私にはまるで異文化映画だが、歴史映画でもある。キリスト誕生の時から話が始まる。私はキリスト教の背景を知らないのでマリアが処女のはずなのに妊娠して夫のヨセフが不信を持って家を出るが、女性が処女でも身ごもったのだという説明をして和解するところから始まる。後藤真希風のマリアが佇んでいるところから始まっていた。後は数々の聖書に記されているエピソードが忠実に映画化されたものなのか。知らされて赤ん坊のキリストを連れてマリアたちは逃げたが、他の赤ん坊たちが襲われて殺されていく野原のシーンは厳しい映像だった。まるで私の知識とかけ離れた映画だが、学校で習うようなバロック音楽が流れたりしている。私にキリスト教の知識がほとんどないので記述が荒くなるが、
洗礼を受けるシーンに入った。そしてキリストが登場した。ここで、ウィキペディアで少し調べると、
やはりこの映画は「マタイによる福音書」を映画化したものであるが、イタリア語の映画との事で、
監督のピエル・パオロ・パゾリーニという人はなんだか惨殺されて死んでいるらしく、一体どうしたことか、少し調べたいと思う。弟子たちがキリストが来ると唐突に弟子になってしまうのはかなり省略されているような気もするが、砂漠地帯の中での悲惨な人達が現れて来て、キリストと弟子たちが遭遇する。顔にひどい腫物が出た人がキリストの言葉で治ってしまう場面もかなり唐突である。私は一度くらい「マタイによる福音書」は読んだような気がするし、漫画でもみたことがあるので、なんとなく入っていけるが、この映画を最初から何の知識もなく観た場合は、なんだかわからない部分もかなり多いかも知れない。新聞屋さんは真っ暗な時に配達が大変だが、5時半少し前には明るくなっていた。5時頃に変化が起きていた。NHKBSのプレミアムシネマでは、この前には『奇跡のシンフォニー』というやや新しめの放映だったが、これらの映画の選択は意図したものなのだろうか。
誰かが選択しているはずであるから。杖をついたかなり歩行が困難な人が、キリストが「杖を捨てよ」という瞬間に歩けるようになるのも唐突だし、実際に目撃したら驚く。食べ物が急に増えるのも
驚いてしまうだろう。まるで先入観なしにこの映画をみたらなんだかわからない。海の上をキリストが歩いているシーンも、これは驚くだろう。ただ背景の音楽もそうだが、全体的に落ち着いて堂々としたような雰囲気の映画である。ある種のクオリアと言うのか質感がある。スピードが小津安二郎の映画にもゆったりした感じがあるが、決して安心したような雰囲気の時代や情景ではないのだが、ゆったりとしたところを感じる。「金持ちが天国に入るのは難しい。駱駝が針の穴を通るより難しい」と言ったが、なんだか勇気づけられたりする。確かに金持ちがもっと施せば貧富の差はもっと無いとは言える。「死者を葬ることは死者に任せよ」とは一体どういう意味か。嘆き悲しまない人も葬式仏教には参加できるという意味なのか。「誘惑をもたらす者はわざわいである」。性倫理に関しても、誘惑する者、される者の関係が罪である。これが現在の日本、いや世界中なのだろうが、乱れてしまっている。しかしこのパゾリーニという映画監督だが、共産主義者だったが、青年への淫行疑惑で除名され教師の職を失った過去があったと言う。そして最期は、ネオファシズム批判の映画を製作し、出演者の少年が同性愛被害を受けたのを恨み惨殺したと為されたが不信な点があり、2005年になって当時の少年が脅されて偽証をさせられたと述べたとウィキペディアにある。なぜそうした
波乱の人生のパゾリーニという人がその途上で、「マタイによる福音書」という西洋の思想に影響を与えた所の教科書的映画を作ったのだろう。そして、この映画を観た私にとって一体なんだろうか。
この映画鑑賞は、私の貴重な、しかし浪費しすぎた人生にとって、合理的な時間だったのだろうか。イタリアの男性なんて声を女性にかけまくるというのは本当なのか?ただ、私は性の破壊的状況、乱倫状況を憂うる。十字架に架けられる寸前のキリストの言葉の群に至っては私には意味が難しくて理解出来ない発言の連続になっていた。強者や資本主義は当時は無かったが、そういうような方向への批判もパゾリーニという人にはあったのかも知れないが、取税人や娼婦も神様を信じていたほうが救われるのような話が幾つか入ったところは、パゾリーニという人の同性愛からの青年への淫行疑惑が影響しているのだろうか。かんいんするなという戒律が入っているはずだから、矛盾な感じもする。なぜNHKBSの関係者がこの映画をこの時期に選択したのだろう。改心や許しというのが重要テーマの一つなのだろうが、改心や許しを行わなくても済むような、それ以前の悪からの予防というのは教育からだろうが、悪が行われた後の悪人への対処は甘くてもいけないと思うが。
「剣を取るものはすべて剣に滅びる」。
パゾリーニふたたび
1964年製作、監督はピエル・パオロ・パゾリーニ。
聖書「マタイ伝」のテキストをそのままセリフに使い、キリストの誕生〜磔刑〜復活を描いた本作。
聖書の物語を、超絶にリアリスティックな映像で撮っている。大袈裟な描写は一切なし。オールロケ・長回し・手持ちカメラの多用はドキュメンタリーを見ているようだ。
全く同じネタの『ゴルゴダの丘』(1935年ジュリアン・デュビビエ監督)が、当時の映像技術を駆使し、迫力ある群衆シーンや、キリストを取り巻く人々(ジャン・ギャバンがピラト役)の葛藤を入れ、壮大な物語に仕上げたのに対し、何とも淡々とした、淡々としすぎる映像。
それでも退屈しないのは、リアリスティックな映像が、自分もその場にいるような臨場感を生んでいるから。群衆の中に入り込んだカメラが、弟子の視点でキリストを捉えるシーンなど、私は鳥肌が立った。
パゾリーニ『ソドムの市』などの苛烈さとは真逆の、静謐な映像。
無神論者のパゾリーニが、何故、キリストの話を、リアリスティックに撮ったのか?
彼の葛藤が、静謐な映像の底に流れているような気がしてならない。
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追記:
現在、2014年度ヴェネツィア映画祭開催中であるが…。
コンペ部門に『パゾリーニ』(1975年に殺害されたパゾリーニの死に迫る伝記映画。監督はA.フェラーラ)が選出されている。その死から何十年たっても、パゾリーニは多くの関心を集めるのだろうか。
以前、A.フェラーラの『マリー もうひとりのマリア』(キリスト映画を撮る監督が登場する現代劇)を観た時に、パゾリーニ、そしてフェラーラ自身を模した話なのではないかと、勝手に思った(かなり乱暴な見立だが…)。
そんなフェラーラがパゾリーニを直接題材にして映画を撮った。日本でいつ公開されるか(公開出来るか)わからんが、『パゾリーニ』観たいなあと思う。
追記2:
新作『パゾリーニ』の主演は、W.デフォー。
デフォーは、『奇跡の丘』と同じ主題を翻案した、スコセッシ版『最後の誘惑』、トリアー版『アンチクライスト』の二本で主演している。ずいぶんと「丘」に見込まれた男だなあと思う。
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