「反逆児パゾリーニが、誠実かつ真摯な姿勢で「マタイによる福音書」を実写化したキリストの伝記映画。」奇跡の丘 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
反逆児パゾリーニが、誠実かつ真摯な姿勢で「マタイによる福音書」を実写化したキリストの伝記映画。
まあ、いちばん何が気になったかって言うと、キリスト役の青年のつながり眉毛なんだけど(笑)。
なんか、ずっとそこばっかり観てた気がする。
ああいうの、仏像用語だと「連眉(れんび)」っていうんだけど、大阪・勝尾寺薬師だとか、和歌山・紀三井寺千手だとか、兵庫・温泉寺十一面だとか、とびきりの平安秘仏に限られる表現なんだよね。
意外と、「他とは違う特別な聖人」のアイコンとしては、効果的だったのかも???
総じて、不思議なバランスの映画だ。
無神論者で、共産主義者で、同性愛者だということが知られているパゾリーニ。
しかも前年には、オムニバス映画『ロゴパグ』(63)のなかの一篇「ラ・リコッタ」が「冒涜的で猥褻」とされて、「イタリアの国家と宗教への攻撃」の罪でいったんは懲役刑まで食らっている(のち、無罪)。
そんな彼が、わざわざ共産主義活動家の素人のカタロニア人青年をキリスト役に抜擢して、『マタイによる福音書』を映画化する。
さも、スキャンダラスな映画に仕上がっているかと思いきや、さにあらず。
ある意味、実にまっとうな映画化である。
敢えてリアリティに則して読み替えたりすることなく、極端な誇張や強調を避け、淡々と「マタイ伝」に書かれているままにキリストの生涯を実写化している。
だから、この映画でのキリストは、不貞の結果生まれた父無し子で、手品と弁舌で成り上がった、神の子を詐称する得体の知れない詐欺師として描かれたりはしない。
若干おざなりで投げやりな感じではあるが、要所要所で天使とか出てきてちゃんと啓示を授けてくるし、キリストが海を渡ったり死者をよみがえらせたりの「奇跡」もきちんと起こして見せる(ラスト近く、「いやボーン」みたいに叫んだら町が崩壊するのはテキトーすぎてクソ笑ったが)。
要するに、パゾリーニは、聖書のテキストに対して、つねに誠実に、真摯に向き合っている。
へえ、パゾリーニってこんな風にふるまえる人なんだ。
パゾリーニ自身は、こう言っている。
「私は不信者かもしれないが、信仰に郷愁を持つ不信者である」
「私は冒涜することに興味がない。それは私が嫌うただのファッションであり、それこそプチブルジョア的行為だ。私は、そうすることが可能である以上、物事をもう一度聖別し、再神話化したい。私はキリストの生涯を実際にそうであったように描きたいとは思わない。私は、キリストと、キリストの生涯を物語ってきたクリスチャンの2000年を合わせた形での歴史を作りたいのだ」
要するに、ここでパゾリーニは聖書を、真実を語っていない偽りの書として攻撃しようとしているわけではない。
彼は、聖書を、ギリシャ神話の事績を語った叙事詩や、中世の騎士を物語るバラッドなどと同様の、「語り継いできた信者たちの2000年の歴史をも包含するひとつの集合意識的な神話」として尊重し、敬意をもって接している。
そのうえで、キャストに素人を配して、抑制的な演出に終始し、描かれたままを映像化するという、まさに「ネオ・リアリズモ」の精神で聖書に向き合ってみせたのだ。
僕は思う。
パゾリーニにとって、「聖書」とは、畢竟「文学」なのだ。
文学の「始原」といってもいい。
前に『アポロンの地獄』の感想でも書いたが、彼は本作以降のフィルモグラフィで、西欧文学の淵源と歴史を辿るような試みに乗り出している。
すなわち、『アポロンの地獄』と『王女メディア』でギリシャ神話を扱い、『ボッカチオ』と『カンタベリー物語』でルネッサンス文学を扱い、そして『ソドムの市』ではダンテの『神曲』を援用してみせた。
彼にとっては、聖書は「西洋文学史」を語るさいの、最も重要な一書であり、西洋文明の根幹を成す核心なのだ。だからこそ、その扱いはなおざりにできないし、「愚弄」「嘲笑」「冒涜」することは、無神論者のパゾリーニにとっても、正しいこととは思えなかったのだろう。
じゃあ、『ロゴパグ』のなかの「ラ・リコッタ(意志薄弱な男)」でのキリスト教の扱いはどうなの?って話だが、結論からいえば、あれだって、僕は別段キリスト教自体を「愚弄」しているようには感じない。
「ラ・リコッタ」は、キリストの受難を描く映画撮影をめぐるコメディだ。
太ったオーソン・ウェルズが監督役で出てきて、ポントルモかフィオレンティーノあたりのマニエリスム期の宗教画(磔刑図とピエタ)の色彩と歪んだ肢体を、そのまま活人画(ヴィヴァン・タブロー)としてフィルムにおさめようとしている。
エキストラたちは、宗教的敬虔さなどそっちのけで、ツイストを踊ったり、女といちゃついたり、撮影用の食材を食い散らかしている。で、散々腹を空かせていた「善き盗賊」役の男が、ようやく口にできたリコッタ・チーズを食べ過ぎたあげく、十字架にかけられてひねりポーズをずっととっていたら、消化不良を起こしてそのまま頓死してしまう。
まあ、パゾリーニらしい人を食ったバカな話だが、ふつうに面白い。
たしかにキリスト教に対して斜に構えた姿勢は顕著だし、散々受難劇それ自体をおちょくっているのも事実だが、ここで本当に描きたいのは「エキストラ」という「底辺」の社会構成者の活力と悲哀である。さらには、もしこれがキリスト教に批判的だというのなら、それは「飢えている底辺の人間を放置している現代のキリスト教のありかた」を徹底的に批判しているわけだ。
むしろ、これくらいの批判やパロディやファルスを受け入れないで、何が世界宗教か、と思う。
すなわち、パゾリーニは、「受難劇を撮影するバックヤードもの」では、現代のキリスト教への批評精神を存分に発揮した笑劇に仕上げることを試み、翌年本格的に挑んだキリストの生涯を描く大作には、真摯で敬虔なネオ・リアリズモ的姿勢で臨んだということになる。
パゾリーニは、「今のキリスト教の運用には社会派として大いに文句がある」が、「キリスト教そのものと、信者たちが培ってきた歴史に対しては一定の文学的敬意を払っている」、要はそういうことだろう。
映画自体は、とにかく一にロケ地のすばらしさ(マテーラ!)、ニに音楽のすばらしさ(マタイ受難曲!)、三に撮影のすばらしさ(トニーノ・デル・コリ!)で、すでにお腹いっぱいといった感がある。
中盤までは、マタイ伝に登場するキリストの事績や名台詞を羅列的に紹介していくような淡泊なつくりで訥々と進行するのだが、ゲッセマネの祈りあたりからやにわにドラマチックになって、イスカリオテのユダという最良のキャラを得て物語性を増していくのも、「聖書を文学として読んだときの印象」そのままである。
超越的でのっぺりとして面白みを欠くキリストと、さらに記号的な顔のない使徒たちの紡ぐ宗教逸話集。そこに、ユダという人間臭い裏切者が登場することで、物語が活性化し、終幕の悲劇に向けてキリストも他の使徒たちもキャラとしてどんどん息づいていく。この、聖書のもつ文学的な気韻生動が、そのままフィルムに刻印されているのだ。
音楽としては、耳で聴く限りバッハの「マタイ受難曲」が7割方のような気がするが、ほかにも「ミサ曲ロ短調」や、モーツァルトの「アダージョとフーガ」、プロコフィエフのカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」などのクラシックのほか、黒人霊歌やゴスペル・ブルース、ユダヤのコル・ニドライなどが折衷的に挿入されている。冒頭とラストでかかる印象的なルンバみたいな音楽は、解説を見る限りコンゴのミサ曲で「グロリア」というらしい。
クラシックパートはおおむね無声楽で、ブルースやアフリカの民族音楽は声付きってのはいかにもパゾリーニらしい仕分けで、のちの『アポロンの地獄』や『王女メディア』でのエスニック楽曲(日本の古謡など)の使用を彷彿させる。
まあでも個人的には、やっぱり終盤の受難劇で延々リフレインされる、マタイ受難曲の「神よ憐みたまえ」に尽きるなあ。まさか、絵つきで聴けるとは、みたいな。
出演者はネオ・リアリズモ的アプローチが行なわれ、全員ずぶの素人で固められている。
撮影地のマテーラ周辺で調達されたほか、パゾリーニの知人・友人が総出で出演、老母マリア役はパゾリーニの母親が演じている(ふつうに雰囲気出ている)。
総じてイタリア映画らしく、素人は素人でも、眼力(めぢから)と奇顔力を兼ね備えた逸材が揃えられている印象。ユダ役の人とか、プロの俳優顔負けの演技力を示している(なんて良いクビの吊りっぷりであることよ!)。
そういや、キリスト役のエンリケ・イザロキが、ずぶの素人のわりに異様に演説が巧いのはプロの活動家だからかと最初思ったのだが、声のほうはプロの俳優による吹き替えなのね。イタリア映画はふつうに俳優を吹き替えるので、気を付けないと勘違いしちゃうところだった……。
あと、「ラ・リコッタ」で試みられているのと同様、絵画史からの引用らしき要素が随所に見られるのだが、ぱっとこれはこれと指摘できないのがもどかしい。概ねはやはりイタリア・ルネッサンスからマニエリスム期にかけての絵画・彫刻からの引用が多いかと思うのだが、たとえば引き立てられ十字架を背負わされて膝を突くキリストの姿と卑俗に囃し立てる群衆の対比は、むしろヒエロニムス・ボスやブリューゲル、グリューネヴァルトの描く「十字架を背負うキリスト」などに近い印象もあり、もしかすると北方ルネサンスからのリファレンスも多いのかもしれない。向こうのWikiを見ると、キリスト自身の姿については、ルオーの描くキリスト像からの影響が指摘されていて、なるほどと思った。
結局パゾリーニは、音楽において「キリスト教にまつわる世界各地の音楽」を注ぎ込んでみせたのと同様の姿勢で、「キリストの生涯を物語ってきたキリスト教の2000年史」のあらゆるところから、視覚的イメージをもとりいれようとしたということだろう。
ちなみに、僕にとって初めて観たキリストの伝記映画は、高校生のときに友人のO君に誘われて西京極まで封切りで観に行ったマーティン・スコセッシの『最後の誘惑』だった。
それから30年以上経って、そのスコセッシが「私の人生で最高のキリストについての映画」と呼んだ作品の日本最終上映に立ち会うのは、なかなかに感慨深いものだ。
イエス・キリストという存在は、世界で23億の信徒を有する絶対的な宗教アイコンであり、その伝記映画というのは、どう撮ったところで困難をきわめるプロジェクトだ。そのなかで、正攻法で臨んだ数々のハリウッド超大作よりも、無神論者のイタリア人がネオ・リアリズモの手法で挑んだ本作と、キリストを徹頭徹尾「隠す」ことで「仏足石(初期仏教において、姿を描くには恐れ多い仏陀の代わりにその足跡を描いて信仰対象としたもの)」的な神秘性を生み出した『ベン・ハー』、そしてロック・ミュージカルとして思い切り良く異化しきってみせた『ジーザス・クライスト・スーパースター』の三本が、とりわけ後世に残って今も人口に膾炙しているというのは、「アプローチの仕方と目の付け所しだいで、映画はなんでも描くことができる」ことを示す恰好の事例だと言わざるを得ない。