奇跡(1954)のレビュー・感想・評価
全13件を表示
最小限の要素で何故これだけの作品に出来るの!? 個々の信仰の深浅や...
最小限の要素で何故これだけの作品に出来るの!?
個々の信仰の深浅や宗派を超えて、全体を大きく束ねるのが本作の宗教。
愛をもって問答無用に全体を縛り上げた。
信仰に厚いおっさんたちは、「神は自然法則に則る」と言う。何故なら、彼らは本心のところ神が奇跡を起こせるとは思っていないので、もし「神は自然法則を超える」なんて言えば矛盾が生じるから決して言わない。
信仰集団はときに他宗派の神や祈り方と対立し憎み合うが、何かを予見して言葉を選ぶ卑怯さ、無自覚な計算高さ、生と死の不条理を神の御心のせいにする都合の良さはどの宗派も共通しているようだ。
ところが。
死産の赤ちゃんの切られる音と、聖母マリアのようなインガの死という耐え難い苦しみの先に、奇跡が起きる。
次男とインガの娘の純粋な愛の力の前に、おっさんたちの権威は瓦解する。
映画ならではのフィクションの表現、力強さ、精密さに度肝を抜かれた。
静か 暗い 陰気 気が滅入る
メチャクチャつまらんかった…
静かで暗くて陰気で気が滅入る…
もう、苦痛で苦痛で…
ため息ついてる方いました(笑)
何回も、イラついてる感じに(笑)
自分と同じだと思いました(笑)
こんな、つまらない映画なのに、しっかり2時間もある(笑)
拷問の様でした(笑)
自分には、この映画に良さを見いだせない(笑)
つまらなくて、気が滅入るように、ただただ陰気に暗い(笑)
映画史上に名高い奇跡とハッピーエンド。もはや宗教そのもの。ドライヤ...
映画史上に名高い奇跡とハッピーエンド。もはや宗教そのもの。ドライヤーは独特のカットを撮っているわけではないのに神々しく感じるのはなぜなのか。演出するとはこう有りたいものだ。
難しかった
初カール・テオドア・ドライヤー作品。
正直、よくわからなかった。
信仰の在り方が人によって違うのはわかるが、
それが私の人生にどう影響するのか、
深読みが出来なすぎてスッと心に入ってこなかったのです…
どう受け止めたらいいか、全くわからなかった。
信仰に縁が無いからだろうか。
ドライヤー監督の純粋映像の美しさに圧倒されるキリスト教映画の名作
このデンマーク映画の主題はキリスト教信仰の核心であり、それについてのある一家の挑戦である。それ故仏教徒の日本人が理解できるものには限界があるだろうし、いくら熟慮したところで私個人の信仰に及ぼす程の影響もない。しかし、この決定的に疎遠な題材でありながら、心の何処かで実は深い感銘を受けたことが不思議なくらいなのだ。キリスト教映画で、これに近い経験を持ったことがある。それは、スェーデンの巨匠イングマル・ベルイマンが神の不在を扱った「冬の光」のときで、救いを求める人間の弱さを認めたところに信仰と神の存在が必要とする一種のパラドックスの概念である。”沈黙”だからこそ、人間が創造した宗教が生み出されたのではないかと考える様に至った。神が答えてくれなくても、人間の思考から行動をより深い精神性で補うことが出来るのが宗教なのであろう。そこに導くだけの映像美が「冬の光」にはあった。
このカール・テオドア・ドライヤーの「奇跡」は、その神の不在とは対極の人間の力が及ばない生死についての神の奇跡を扱っている。「冬の光」が現実的とすると、これはとても非現実的であり、有り得ないだろうと思いながらも感動してしまう理屈では説明できない映像世界があった。それは偏に、荒涼たる北欧の風土に生きる人間の飾り気の無い、素朴にして純粋な生活を描写した映像の圧倒的な美しさと純度の高さにある。イングマル・ベルイマンやロベール・ブレッソンのモノクロ映画と類似した映像世界ではあるが、ここにはドライヤー監督独自の映像美と集中度の高い演劇的演出があり、程よい緊張感を待たせながら最後の劇的展開まで誘うのだ。これはドライヤー監督の唯一無二の演出力と感服せざるを得ない。室内シーンのカメラワークは正面から捉えたショットが中心になり、舞台劇の迫力を生み出している。原題を『ことば』とするだけの生活に密着した日常の会話劇。それでいて観る者を引き込むドライヤー監督の演出が素晴らしい。登場人物ひとり一人の人格設定とその配置は、舞台劇の戯曲のようにシンプルにして個性的に創作されている。
それは国籍や宗教の違いがあっても、芝居として人間を描いている映画の表現力と魅力に違いない。ボーエン家の家庭生活は、ひとつの生活信条を大切にして生きている人たちの住み家であり、対立するペーター家との宗派の対立も生き方の違いとしての作劇と捉えることが出来る。敢えてキリストの奇跡などあり得ないと主張する牧師を登場させることや、権威を振りかざす自信過剰な医師の存在は、主人公ボーエン家の人々の信仰心の純粋さを際立たせる役目でもあろう。これら余計なものを一切省いた信仰についての家庭劇は、最後の奇跡のクライマックスを感動の劇的終結で纏め上げている。何というストーリー、何という演劇、何という映画だろう。これは第一級の映画作品である。
1979年 2月19日 岩波ホール
1955年制作のこのドライヤー作品には、特別な驚嘆と感動に包まれました。日本公開の1979年は傑作揃いの外国映画が並び、生涯忘れられない年です。ベストテンも選定に困るくらいで、アンゲロプロスの「旅芸人の記録」オルミの「木靴の樹」ヴィスコンティの「イノセント」と合わせ順位を付けるのが憚られるほどでした。
参考までに当時の私的ベストテンを記すと
①奇跡②旅芸人の記録③木靴の樹④イノセント⑤リトルロマンス⑥プロビデンス⑦これからの人生⑧郵便配達は二度ベルを鳴らす⑨ディア・ハンター⑩女の叫び 次点 インテリア
改めて見ても、上位4作品は別格ですね。
信仰って何?信仰心が篤いってどういうこと?
無宗教であることを自認し、排他的な一神教であるキリスト教やイスラム教には拒否感すら覚える者の感想です。
嫌なことがあれば信仰心が足りない、あるいはそれも神の思し召し、とにかく信仰信仰信仰、神神神。挙げ句の果てに同じキリスト教徒でありながら、その信仰のあり方の違いを理由にいがみ合う二つの家族。到底理解できない。まったくどうなってるのという感じで話は進みます。(信念ほど怖いものはない→信仰ほど怖いものはない)。
そして悲劇を迎える。悲嘆に暮れる主人公一家のもとに、いがみ合っていたはずの相手が訪れ、自分の非を認め仲直りを乞う。そんな様子に本当の信仰心とはこういうことなのかと心が洗われ、これが奇跡なのかと思っていたら、その後に本当の奇跡が起こる。神々しいクライマックスを迎える。
こういう映画、こういうクライマックスもありだと思う。幸せな気分になりました。
神を信じれば奇跡が起こる
デンマークでボーオン農場を経営してる一家。奥さんを亡くした父と長男、次男、三男、の3人の息子、長男の嫁と孫娘で暮らしていた。次男ヨハンネスは自分がキリストの生まれ変わりだと言い出して謎の行動をとりだした。三男は仕立て屋の娘に恋するが宗派が違うと両方の親から結婚を認めてもらえない。信仰心の薄い長男の妻インガーが子供を産むが残念ながら難産の末、赤ちゃんも助からず亡くなってしまった、家族が悲しみに暮れる中、精神的に不安定で失踪していた次男が突然正気を取り戻し、インガーの葬儀に現れたという話。
キリスト教に詳しくないと理解できそうにないけど、信じれば奇跡が起きるという事なのだろう。
絶賛されているが、上記理由からか自分にはあまり響いてこなかった。
この監督の作品で、以前観たジャンヌは良かったけど。
凄い映画だ。たくさんの人に観てもらいたい。
もう、何十年前に鑑賞して衝撃を受けた。私もまだ若かった。あの時の衝撃は再来することはなかったが、凄い映画であることは間違いない。
神への信仰心を問う映画である。キリスト教徒ではないが、今年の誕生日が来れば67歳になる。同級生達も既に十人は亡くなっている。この年になれば、歯が欠けるように一人静かにこの世から退場して行くだろう。私は仏教徒だか、神は存在して欲しいと願っている。が、実際のところは死んでみないと分からないのが私の本心だ。それでは、奇跡は起きないとこの映画は言っている。神を試すことになるからだ。
この映画がなければ、ベルイマン監督の「処女の泉」は生まれなかったであろう。
気になった点が二つある。農場自宅での室内場面で、いつも時計の音がすることと屋外の風の音がなり響いていることだ。終わりの部分で、時計の音は命の進行を表していることがわかる。風の音は神を信じられなくなった現代人の心を表しているのかなと思いました。
まさに映画の奇跡!
いやあ〜参った!本当に参った!
もう映画として「奇跡」としか言い様がない。
タイトルからして、ストーリーとして、ああいう展開になるだろうと思いながら観ていたが、最初から徹底徹尾リアルに徹していただけに、果たして話の落とし所として、そんな展開が本当に成り立つのか?そんなことしては、せっかく徹底していたリアリティが最後の最後で一気に全て瓦解してしまうのではないか?と思いながら観ていたのだが…
なんとも度肝を抜かれる超弩級の力技でやられてしまった。
いや、力技では語弊があるか。
あれは完璧な計算に計算を重ねた脚本と演出と最高のカメラワーク、そして役者達の緻密な演技がないと実現不可能だ。
リアリティと神秘主義の融合と、言葉にするのは簡単だが、そんな難易度が極端に高いテーマにも関わらず、驚愕すべき完成度で物語を成立させてしまった。
本当に凄い。
これが実現できたのは、原案の舞台劇の作者のカイ・ムンクが、そもそも敬虔なクリスチャンであったところも大きかったと思うが、その強固な信念ゆえナチスに虐殺された彼に対するトリビュートの熱量が、監督ドライヤーは勿論のこと、スタッフ、キャスト全員とても高かったのだと思う。
やはり、この作品を構成する全てが完璧で、最高の熱量で作り上げた結果、あの奇跡的なレベルまでに到達できたのだと思う。
映画作家だけが起こせるモンタージュの「奇跡」、それは世界の既存の秩序をも塗り替える。
極私的な感想をそっと述べるなら、ラストの「復活劇」は、若干ホラー味あったなあ(笑)
ふつうに怖いよ、それ、みたいな。
BGMが長調なだけだろ、みたいな。
むしろ、『ローズマリーの赤ちゃん』のラストとかに近い恐怖がある。
ま、・・・・・・神様なんて信じてないからね。すいません。
信仰者ならぬ身で、こういった真摯に神の実在と不在、奇蹟の実在と不在を扱ったキリスト教映画を鑑賞するのは、なかなかにハードルの高いものだ。
ふつうに日本で育って、盆暮れは神仏・祖霊にお参りするし、高山でご来迎見たら神気をびりびり感じるし、役満張ったら必死で神頼みはするけれど、恩寵を与えてくれる人格神の存在を信じるなんて「ほぼありえない」、という平均的な日本人に仕上がっている自分にとっては、作中で登場人物たちが闘わせる宗教的・思想的対立それ自体が、ふつうにナンセンスにしか思えなくて、「いやいやここは自分もそういう立場に身を置いたつもりでちゃんと感情移入しないと」と自分に言い聞かせて観るみたいなことになってくる。
本作におけるボーオン家とピーターセン家は、同じルター派のプロテスタントでありながらも、現世を肯定的にとらえる一派と、死後の福音に重きを置く一派に分かれて対立している。日本でいうと現世利益の密教系と極楽往生の浄土教系の違いみたいでもあるし、逆になんでもありの大乗仏教の真宗といろいろ戒律や制約の多い小乗仏教の禅宗の違いみたいでもある。
ただ、そのなかで子供の結婚を認める認めないで反目して、ぐちぐちやり合っているのを延々見せられると、なんだか日蓮正宗と創価学会のいがみ合いでも見ているような気になってくるし、仕立て屋が自宅に会衆集めて法話会やってるのもエホバみたいでなんか怖いし、さらに「われこそは神」とか言い出す新宗教系の次男坊まで出てくる始末で(発端がキルケゴールってのは笑うところなのか??)、ありていに言って、出てくる人間みんな宗教的すぎて、僕にとってはあまりに縁遠いタイプばかりである。
だから、そういったバイアス抜きで作品を120%鑑賞し、心から作品の出来に感服し、そのモンタージュの精度と映像の強度についてまっすぐ語れる中条先生や蓮實先生は本当にすごいと思う。
ぶっちゃけ僕には、登場人物たちの悲しみや苦悩に寄り添えるほどの想像力が欠けている。
だって、そうはいっても神様なんかいないし、理屈を外れた奇跡なんか存在するはずもないし、人間は死んだら土に帰るだけで、あの世とかあるわけがないって「先入観」が、僕のなかでは強すぎるから。
(これが完全なフィクションで、主人公だけが宇宙人に気づいているのに回りが無理解とかになったら、とたんに「宇宙人信じない大衆とか馬鹿じゃないの?」って、その時だけはなれちゃうのが不思議だけどw)
一方で、映画としての画面の強靭さと、こだわりぬかれた演出の緊迫感は、たしかにすさまじい。
冒頭、丘を背景にたなびく白いシーツからして、鮮烈だ。
カメラがパンして、石室か石塁のようなボーオン農場の堅固な石組みを映す。
四方を石壁に閉ざされ、内庭を有する、ロの字型の農場らしからぬ石造建築。
それは、堅牢な宗教観に支えられながらも、世間に対してなかば心を閉ざし、守旧的な地主として孤立して生きるボーオン家の明喩――建築化された心象風景でもある。
カメラが室内に入ると、そこには驚くほど閉鎖的な空間が立ち現れる。
徹底的に奥行きを欠いた、背後に壁の迫るラファエル前派の絵画のような息苦しい室内空間。
その書き割りじみた密室内で、登場人物たちは概ね横並びに並んで、息詰まる会話劇を展開する。
壁には、窓がうがたれ陽光が差し込むが、そこから外の風景はよく見えない。
代わりに、ご先祖だか宗教指導者だかの肖像画が部屋のど真ん中に掛けられ、さらには大きな掛け時計が時を刻んでいる。この二つは、ほとんどの会話シーンで後ろに映り込むことになる。
すなわち、この家族が交わすやり取りは、過去の因習/宗教的契約の継続を表す肖像画と、時間の拘束を示す時計によって、常に背後から見張られ、「圧」を掛けられているのであって、登場人物は恒常的に室内を統べる「時間」と「空間」の外的拘束に雁字搦めにされているのだ。
老人は、必ずしも「自分で考えて」意見を言っているわけではない。
あの部屋の、後ろから見張っている何かに「言わされて」いる部分もきっとある、ということだ。
一方、ときにカメラが屋外に出ると、今度は空と山なみの境界をほぼスクリーンの天地中央にとって、仰角で撮るようなロングショットが徹底される。ここでは、この物語が「神の領域」(天)と「人の領域」(地)のせめぎ合いの話であることが厳然と視覚化され、かつ天は常に「仰ぎ見る」ものとして視点を固定化されている。
そのほか、次男がイエスの再臨と室内への進入を示唆する場面での、車のライトによって窓格子の「十字架」状の影が壁を這ってゆく印象的なシーンや、気絶して倒れた次男を前後から抱え上げて運ぶシーンの「十字架降下」や「ピエタ」の図像との外形的類似など、本作の画面には常に宗教的な隠喩と明喩が刻印されている。
また、パンフで須藤健太郎氏が指摘しているとおり、前半でずっとスタティックな長廻しで撮られていたのが、終盤の「奇跡」が近づくにつれて、カット割りとモンタージュが唐突に用いられるようになる。いわば、映像表現における奇跡そのものと言っていい「編集」作業が、そのまま「奇跡」の顕在化と直結している点は大変興味深い。失踪したヨハンネスを探すあたりで唐突にワイプが使われたのには、正直びっくりした。え、そんなことやるんだ、みたいな。
「モンタージュの技巧」が用いられるほどに、映画としての仮想現実は「人工性」を増し、何も起きるはずのない日常に、何が起きてもおかしくない特別な気配、「ハレ」の気配が漂い始める。
その効果を、ドライヤーは明らかに意図して仕掛けている。
この作品のラストは、事前に聞いていなくても「あり得る結末」としてはじゅうぶん予測可能なものだ。
逆に「これ」が起きないと、話は終われないくらいのところもあるだろう。
それでも、このラストはショッキングだ。
なぜか。
2時間かけて、そんなことは到底起きないような映画内の「リアリティ」を醸成してきたからだ。
ただただ息を殺すような室内での長回しで、フィクションのえぐみを抑えてきたからだ。
それを、ある種の力業で、あのエンディングに着地させるのだ。
そこでだけ、「編集」という映画ならではのマジックを稼働させることによって。
この監督の、「ショッキング」なシーンをここぞという瞬間に乾坤一擲でかましてくる嗅覚は、去年8月に観た『怒りの日』において最大限に発揮されていた。
観るのはこれからだが、『裁かるるジャンヌ』でも、きっとそうなのだろう。
本作のラストで(少数派ではあるだろうが)、「ホラー」に近い「怖さ」を感じたという僕の個人的感覚も、ドライヤーのかましてくる「ショック」の仕掛けが、人間の皮膚感覚や生理的な「惧れ」の感覚にじかに訴えてくるものであることに起因するのではないか。
正直に言えば、テーマの親近感と表現の直接性の部分で、僕にとっては『怒りの日』のほうが圧倒的に面白かったのは確かだ。
だが、『奇跡』もまた、強烈な引力で観客を引き付ける映画であった。
前半こそ少しかったるくて眠たくもなったが、老人と長男の嫁が三男坊の処遇について語り合うあたりからは、こちらの集中力もぐっと増し、そのままラストまで息を殺して見入ってしまった。
考えてみると、『怒りの日』では「魔女」の呪いが二人の神父の死によってたまさか「実現」することによって、映画全体が善悪二元論を超えたオカルティズムの不穏な気配を身にまとっていたのだった。本作でドライヤーは「魔女」のかわりに「聖者」を登場させて、より確信的に「奇跡」を起こしてみせる。
「奇跡」が社会に与える衝撃性(インパクト)の差もあって、『怒りの日』の呪いはけっきょく社会を変革するほどの効力を発揮し得なかったが、『奇跡』のラストはその後の世界まで染め変えてしまう可能性を秘める。
ただ、映画としての本質は、じつはあまり変わらないのではないか、というのが僕の結論だ。
リザレクション
次男ヨハネスが神学に没頭するあまり、彼のあたかも自分が神のような妄言を見かねた家族・・・だけど、奇跡は起こると楽観的。
三男の恋人アンネの家へ乗り込むボーエン家の父親。しかし、あっけなく宗派が違うと断られる。家に戻ると長男の嫁インガが3人目の子を出産するが、難産だったため母体の危機。祈りと医学の力で助かるかと思いきや、また様態が急変して亡くなってしまう。
告別式の際、アンネの父親も参列し、娘を嫁に出すことを承諾。この宗派を超えた結婚だけでも奇跡的なんだろうけど、その後に次男が正気を取り戻して「信仰が足りない」と皆を責めるのだ・・・奇跡は起こった。
キリスト教信者でなければこの映画の良さはわからないのかもしれないけど、キリスト復活を思わせるエンディングには神聖な気分に浸れるのです。宗派を超えた敬虔な祈り。それにもまして、人間の温かさまでもが伝わってくる。
全13件を表示