「パゾリーニの「生の三部作」第二弾(前作よりグレードアップ!)。英国を舞台に性と聖が入り乱れる艶笑譚。」カンタベリー物語 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
パゾリーニの「生の三部作」第二弾(前作よりグレードアップ!)。英国を舞台に性と聖が入り乱れる艶笑譚。
ぴあフェスのパゾリーニ特集上映京都編の鑑賞二本目。
お、今回は英語でしゃべってるぞ。
相変わらず変顔、奇顔のオンパレードだが、いかにも「マカロニ系の奇顔」をコレクションしてた『デカメロン』とちがって、ちゃんとケン・ローチの映画とかに出てきそうな「イギリスの奇顔」を集めてるところに、猛烈なこだわりを感じる(笑)。
そして見るからに、なんかいろいろ『デカメロン』よりもグレードアップしてる。
より物語性があって、より過剰で、より美術史的文脈に寄り添っている。
こりゃ面白いわ。
とにかくまず目につくのが、とんでもなくぶっ飛んだ色彩設定。
着ている服の真っ赤なビロードと青、緑の布地が、目に突き刺さるくらい鮮烈だ。
ジャック・タチやゴダール、黒澤なんかも、こういう極端な色調の衣装をしきりにぶっこんできたものだが、本作の場合は単に見た目が派手とかサイケデリックとかいうより、正しくベネツィア派(ティツィアーノやティントレット、ヴェロネーゼなど)やマニエリスムの画家(ポントルモ、フィオレンティーノ、ブロンズィーノなど)の描く絵画作品の色彩を、そのまま映画内で模倣・引用していると捉えるべきだろう。
泰西名画からの引用は、色彩設定にとどまらない。
およそ、ほぼすべての場面に関して、ルネサンス期~バロック期の北欧&イタリア絵画に何らかの由来が存在すると思われるくらいに、絵画芸術から衣裳デザインや構図取りや舞台装置を借用しているのは明らかだ(今回のセットはどれも徹底して作り込まれていて、ガチでお金かかってそう……)。
それは、北方ルネサンスの風俗画(とくにブリューゲルとその後継者)における農村風景や群衆表現、室内表現の再現にとどまらず、グロテスクな奇顔のオンパレードや糞尿への執着、「妖精王」のいでたち、火あぶりシーンの貴賓席の絵画性、天使降臨描写の再現などなど、それこそありとあらゆるシーンに及び、果ては、ヒエロニムス・ボスの地獄図の活人画(タブロー・ヴィヴァン)という飛び道具までラストには用意されている。
その意味では、本作もまた『マルケータ・ラザロヴァー』同様、『神々のたそがれ』や『異端の鳥』のような「ボス/ブリューゲル的な絵画世界を再現することに懸ける」“中世の闇”映画の、大いなる始祖に当たる作品だといっていいだろう。
「喧噪」と「歌」と「音楽」と「顔」によって映画を埋め尽くして、ルネサンス的な「生」と「性」の躍動をひたすら描き出そうとする姿勢は、『デカメロン』以上に突き詰められ、先鋭化している。
各エピソードは『デカメロン』以上にわかりやすく、明快なオチがあって、おおらかなうえに底抜けに下品だ。これは、ナポリの街の点描風景として各エピソードを散りばめた『デカメロン』と異なり、著者のチョーサーがカンタベリー巡礼の旅人たちから話を訊き集めて「自らの語る楽しみのために」各話を執筆しているという原作の枠組みを、そのまま生かしていることも影響しているだろう。
(チョーサー役って、『デカメロン』の絵師の親方だなと思って、家に帰ってから配役調べてみたら、こいつがパゾリーニ本人なのかよw)
樹上の間男とイギリス庭園と目の見えるようになった主人の話、
男色家を罠にはめて処刑してた召喚者が悪魔に連れ去られる話、
われらがニネット・ダヴォリが首枷されてさらし者にされる話、
屁で若者を追い払う人妻と煽りでケツに焼き鏝食らう間男の話、
三兄弟が「死神」を狩りに行って、逆に殺し合いで全滅する話、
セックス依存の年増女に吸い尽くされて死んでいく夫たちの話、
淫売宿で放尿しながら、姦淫・大食・賭博の罪を説く若者の話、
粉屋で乳母車の位置がずれたことで、スワップまがいになる話、
姦淫している修道士が天使に導かれて地獄めぐりに赴く糞尿話、
などなど、いずれのエピソードも掛け値なしにバカバカしくて面白かった。
基本的にお気に入りの俳優ばかり集めて楽しく撮っているし、やたら若い男の子を脱がせまくっていて、パゾリーニにとってもしっかり趣味と実益を兼ねている感じ(この人の描く裸の女性や性交シーンが1ミクロンもエロくないのって、彼がそっちの人であることとも深く関係していると思う)。
たぶんこの映画で一番エロいシーンって、アリソンに間男を仕掛ける大学生の股間に、西城秀樹もびっくりの巨大なレリーフ状の陰影が浮かび上がっているシーンだもん(笑)。
やたら猥歌を口ずさむ男女がでてきたり、群衆で激走しながら人形を燃やすお祭りが登場したりと、『ウィッカーマン』(73)を想起させるシーンが散見され、この両作品が、ほぼ同時期にそれぞれイングランドとスコットランドで撮影されていたシンクロニシティは興味深い(『カンタベリー物語』は1972年7月ベルリン国際映画祭で初上映、『ウィッカーマン』の撮影時期は1972年の秋なので、後者の脚本家アンソニー・シェイファーや監督ロビン・ハーディが前者を観ていた可能性もないではないが、企画時期などから考えると「かぶっていた」と取るほうが自然か)。
あと、テリー・ギリアムが『ジャバーウォッキー』(77)でブリューゲル絵画から引用した「窓からケツだし」のモチーフが、そのままこの映画でも引用されてたり、他にもバケツに小便みたいな糞尿系のネタがかなり両者には共通してたりと、ギリアムもかなり「生の三部作」からは影響を受けてそうだなとか(逆に、エッチ系のネタがほとんど引き継がれていないところに、ギリアムの童貞くささがにじみ出ているような気もするw)。
要するに「生の三部作」って、僕の好むような一連の中世再現映画の源流に位置する「元祖」みたいな作品なんだよね。
まあ、なんといっても最高級に楽しかったのは、フェリーニ臭ただよう、ラストの豪華絢爛な「地獄めぐり」。
あれに出てくる悪魔やらグリロス(=キマイラの怪物)やら罪人やらも、ケツから修道士の群れを噴出する威勢のいい糞尿描写も、概ねヒエロニムス・ボスの地獄絵から直摸されたものだが、絵じゃなくて動画であれだけ盛大にブリブリ大噴出されたら、こちらとしてはもう笑うしかない。
未だにかみさんから肛門期固着のレッテルを張られている僕にとって、初老の身になってなお、放屁と脱糞ほど面白いものはないのだ。
もちろん『カンタベリー物語』といいつつ、ラストに「地獄めぐり」をもってきているのは、当然のことながらダンテの『神曲』に対する目配せでもあるわけで、本当に西洋人というのは「地獄めぐりによる贖罪と浄化」ってネタが好きなんだなあと。
正直言って、やってることは『ポーキーズ』や『グローイング・アップ』あたりと大して変わらない気もするが、しっかりパゾリーニらしい芸術性は担保されているし、観ていて考えさせられるところもそれなりにある。
ここに登場する人々は、現代に生きる我々よりも性に奔放で、やりたい放題しているふうに一見見えるけれど、これらの姦淫・密通や男色といった要素がすべて、法的にも宗教的にも「厳に禁じられていた」時代だからこその、生(性)の躍動なのだということを忘れてはならない。
さらに言えば、こういう「エロさ」や「俗っぽさ」や「下品さ」も全部ひっくるめて、人間の「生」として全肯定してみせたのが「ルネサンス」という古典復興運動の本質だったことを、あらためて胸にとめておきたい。