劇場公開日 2024年11月17日

「「絵葉書のなかの世界」で彗星に乗って展開する、ぶっ飛んだノリのドタバタ反戦喜劇。」彗星に乗って じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5「絵葉書のなかの世界」で彗星に乗って展開する、ぶっ飛んだノリのドタバタ反戦喜劇。

2022年4月26日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

K’sシネマのカレル・ゼマン特集上映参加初日の三本目。
今日観た三本のなかでは、事前に薄ぼんやりと考えていた「ゼマンらしさ」に最もしっくり当てはまるぶっ飛んだ内容のファンタジーで、SFというよりは壮大な「ほら話」だった。
実際、来週観る予定の『ほら男爵の冒険』(61)も「宇宙ホラ話」のようだし、そこで達成した自らの路線をあらためて継承してみせた作品といえるのではないか。

フランス人の中尉が、アルジェリアの赴任地で「絵葉書の美女」に恋をしたことから始まる、奇想天外な「彗星旅行」の大冒険。
「謎の彗星が地球に大接近してきて、気が付くとアルジェリアごと彗星に乗っかってしまった」。
しょうじき、二本前に観た「洞窟を抜けたところにある川をさかのぼったら地質年代まで遡行できた」という『前世紀探検』に輪をかけて荒唐無稽な、ウルトラとんでも設定だ。
原作はジュール・ヴェルヌの『彗星飛行』。日本では昭和44年に偕成社から翻訳が出ているが、僕は未読である(ネットの感想を見る限り、ヴェルヌSFのなかでもかなりぶっとんだ科学的理屈そっちのけの内容という評価ではあるらしい)。
ただ映画『彗星に乗って』は、SFというよりは、明確にファンタジーの側にある映画であり、現実的に言えば、作中で起きることはすべて、海で溺れかけた中尉が一瞬のあいだに観た「夢」の物語だと考えて概ね差し支えない。
セピア色に塗り上げられた「彗星世界」の正体は、主人公を魅了してやまない「絵空事の美女」が住む「絵葉書のなかの世界」に他ならないからだ(これは、どうやら原作にはないゼマン独自の原作解釈と見て間違いなさそう)。

冒頭からまず、絵葉書をモチーフにしたセンス抜群のスタッフクレジットが流れる。
これは、製作者からの「ヒント」のようなものだ。
そして、作品の大半は、黄色や青の染色フィルムで独特のカラリングが付与されている。
全編に及ぶ特異なカラリングは、本作の最も特徴的な要素だと思われるが、これはまさしく「絵葉書の色」の再現に他ならない。
セピア色をベースに、原色のシアンやイエローで色付けされた、大昔の観光絵葉書の色調。
その色調をそのまま作品の色彩設定に持ち込むことで、ゼマンはこの物語が「絵葉書のなかの世界」で起きているということ――中尉は、彗星に乗る前段として、『不思議の国のアリス』のように「異世界=絵葉書の中の世界」に迷いこんだということが分かる仕掛けとなっているのだ。
この異世界において、実写映像は常に銅版画のような色面や書き割りめいた背景と組み合わされ、登場人物はある種の平面性の中での生を謳歌することになる。
まさに、江戸川乱歩の『押絵と旅する男』を彷彿させるような導入である。

崖から海に落ちたあと、海岸で意識を取り戻した中尉は、自分を絵葉書の美女が介抱してくれていることに気づく。
そこから物語は、かなりいい加減というか、素っ頓狂というか、行き当たりばったりというか、しょうじき悪い夢でも見ているかのようなイロジカルな展開を見せる(まあ、実際はまさに悪い夢を見ているという話なので、そのまんまなのだが。もしかすると、本当にカレル・ゼマンが見た「最高に楽しかった夢」がモチーフの一部を成しているのかもしれない。少なくとも、ヴェルヌの『彗星飛行』に絵葉書の美女は出てこないようだし)。
結局、彗星に乗るはめになったアルジェリアのフランス軍とアラブ人の族長一派は、そこが恐竜やシーサーペントの跋扈する人智を超えた魔界であることを知る。で、恐竜軍団に銃火器はまったく通用しないが、なぜか「ガラガラ」による騒音駆除(クマよけみたい)は奏功して、見事追い払うことに成功。フランス軍は無用の長物と判断した銃器と大砲を処分するが、アラブの族長はそれを拾って手に入れる。
その後、実の弟たちによって誘拐されたヒロインを取り戻しに行く海の冒険だとか、外国人の強制収監だとか、ドタバタとイベントが続くのだが、そのうち彗星が火星の重力下に囚われ、滅亡のときが迫っている事実に気づいた呉越同舟の人々は、ついにいがみ合いを止め、残された時間を平和裡に過ごそうと決意する。だが、いよいよ中尉と絵葉書の美女の結婚式が執り行われるさなか、今度は彗星が火星の影響圏を脱して再び地球に近づいていることがわかって……。

お話自体は、とにかくハチャメチャといっていいのだが、社会風刺としては、これ以上ないくらいまっとうでマトモな、反戦寓話となっているのが本作のミソである。
ヴェルヌの原作にも、いがみ合う敵国どうしが危機下で手を結ぶ展開があるようだが、映画版では、お国どうしの諍いや戦争、兵器、軍隊、外交などが徹底的に笑いのめされ、茶化される。災害級の危機を前に武力対立を放棄して平和を謳歌していた連中が、平和が戻った瞬間にふたたび武器を手に取って争い始めるというのは、現実世界に対する強烈な皮肉であり、警鐘だ。
植民地主義に関しても、皮肉をこめた言及が成されるが、これは『前世紀探検』でも「植民地の時代は世界の風聞が広がった」といった言い回しで行われていた。
カレル・ゼマンは、『独裁者』や『博士の異常な愛情』、『M★A★S★H』とはまた異なる、もう少し柔和でソフィスティケイトされた手法で、帝国主義の限界と国家間紛争の無意味、戦争という手段による問題解決の愚かさを、さらりと描いて見せるのだ。

ちなみに、こうやって一日で三作まとめて観ると、ゼマンが「特定のモチーフ」や「設定」を何度も自作のなかで繰り返すタイプの監督だということがわかって面白い。
まず、いずれの作品においても、本や絵葉書といった「紙媒体」に記された記録をひもとく形で、おもむろに物語が語り始められる(虚構性への言及性)。それから、やにわに空がかきくもって轟きだす雷鳴と稲光が、大自然の脅威として君臨し、物語の転機となるのも三作に共通する要素だ。そして三作すべてで、主人公は長い長い旅のすえに、崖下に広がる大海を眼前にすることになる。
『前世紀探検』と『彗星に乗って』だと、「恐竜」がメインモチーフとしてそのまま「持ち越されて」いるのが印象的だ。本来はどう考えても『彗星』のほうに恐竜が出てくるのはそぐわないのだが、そこは「だって出したいんだもん」という熱意で押し切っている。それくらい、恐竜というモチーフ(というか、恐竜を動かすという行為)に「執着」している。
『ホンジークとマジェンカ 』と『彗星に乗って』では、「御伽の国のヒロイン」に一目ぼれした男が、自らも物語世界の住人になるべく望んでそこに分け入っていく展開が、実はとてもよく似ている。
前者では、結局ヒロインのほうが「受肉」して「人」の世界に降臨し、聖性を喪失することになる。彼女を求めていったん悪魔の力を手に入れた主人公も、最後は愛の力で浄化されて「人」に戻る。
一方、後者の『彗星』では、中尉は絵葉書のなかの彼女を追いかけて、自らもその世界でともに冒険を繰り広げ、ついには婚姻を結ぶ。だが結局、中尉は地球という「現実」に帰還することになり、物語世界の住人であるヒロインは、ふたたび絵葉書のなかに戻って、水平線の彼方へと帰ってゆく……。
人は、人としか結ばれない。
物語世界の住人が人になるか。人が物語世界に移住するか。
世界がふたたび二つに分かたれたとき、異なる世界に属する二人は別々の道を歩むしかないのだ。

壮大なホラ話としてはとても面白かったし、全編を通じてカレル・ゼマンの稚気と美意識が充溢していて、スラップスティックとしても、アートフィルムとしても、素晴らしい仕上がりだった。
ただ、これだけ話が荒唐無稽でしっちゃかめっちゃかだと、観ていてしょうじきかなり疲れるし、とくに彗星に乗ってから恐竜軍団が出てくるまでのノリが結構退屈で、何度も睡魔に襲われて寝落ちしかけたことも白状しておく。
あと、ヒロインの「絵葉書の女」になんとなく既視感があるなあと思ったら、モダンチョキチョキズの濱田マリでした(笑)。

じゃい