劇場公開日 2022年6月25日

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「トリュフォー流の恋愛「喜劇」だが、しょうじきあまりピンと来ず。キョーコの扱いもなんだかなあ。」家庭 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

2.5トリュフォー流の恋愛「喜劇」だが、しょうじきあまりピンと来ず。キョーコの扱いもなんだかなあ。

2022年6月26日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

20年ぶりくらいに観るトリュフォーの映画に、偶然日本人が登場するのは、なかなか思いがけない体験である。字幕に頼らずに、出てくる日本人が交わす雑談の内容を、ニュアンスも含めて完全に理解できるのは、世界広しといえども日本人の観客だけだろう。それはある種の特権性だ。
ただ……あんまり良い扱いだったとは思わないけど(笑)。

トリュフォーに関しては、二桁くらいは観ていると思うのだが、専らノワール関連、ウィリアム・アイリッシュ関連、SF関連みたいな流れで観ていて、体系だった形でフィルモグラフィを追ったことはなかった。アントワーヌ・ドワネル・シリーズに関しても、これまでに観たことがあったのは、最初の『大人は判ってくれない』だけである。

いざこうやって観ると、たしかにギミックに富んだ、じつに「映画らしい映画」だ。
シネフィルらしい、こだわりと、遊びと、センスにあふれている。
かつ、テンポ感がじつに心地よい。アレグロ・ノン・トロッポというか、アレグレットというか。
この人の編集のリズム感って、体感的にクラシック寄りなんだよね。
ゴダールはモダン・ジャズなのに。

ただ、映画として面白かったかと言われると、しょうじき大して面白くはなかったなあ。
なんか、好きな人にはすいません。

というか、出だしの30分くらいは、どういうふうに受け止めていい映画なのかすらよくわからずに、とまどいながら眺めていた感じ。
そのうちこれは、トリュフォーがやってみたかった、シチュエイション・コメディ的な恋愛ネタをあれこれとかき集めて凝縮した、れっきとした「喜劇」なのだと気づいた。
見方がわかったので心は落ち着いたし、ゆったり観られるようになったが、なぜなかなか「喜劇」だと気づかなかったかというと、それはほとんど僕にとって笑えるところがなかったからだ。
ずっと、こちらは真顔で、クセの強い微妙でシュールなお笑いを見せられてる感じ。
こういう状況はなかなか辛い。

たとえば、カーネーションに色つける仕事とか、模型の船を動かす仕事とか、ナンセンスネタとして面白いのかな?
面白い人には面白いんだろう。
なんか狙いすぎで、ただただ痛々しいってのが正直な感想だったけど。
チューリップのシュヴァンクマイエルみたいなのとか、奥さんのマダム・バタフライ・メイクとか、キョーコの「勝手にしやがれ」とかも、トリュフォーとしては渾身のネタだというのはわかるので、こっちも受けてあげたい気持ちはやまやまなんだけど、けっきょく醒めた気持ちで「あちゃ~、なんかすべってるなあ」と。
あと、奥さんがギランってつけたいって言ってるのに、勝手に自分の推してるアルフォンソの名で出生届出しちゃうのなんか、ただただ不快でしかなかった。

いや、絞殺魔ネタとか、デルフィグの口真似とか、ベッドでのたわいない睦言とか、丁々発止の口論とか、壁をぶち破るあたりの楽し気な「アクション」とか、愉快で心躍るネタもたくさんあったんですよ。
でも、笑いとくすぐりの質や、方向性や、ジャンルが、あまりに雑多というか、やってることがとりとめがなさすぎて、あれもこれも詰め込んだ結果、ガチャガチャした迷走気味の作品になってるんじゃないのかなってのが個人的感想。なんか、今まで映画で観てストックしてあったネタを注ぎ込むことが、物語に優先しているのが透けて見えるというか。

それとやっぱり、20年以上妻ひとすじでやってきた僕としては、奥さんの妊娠・出産を機に浮気するような男には、どうしてもシンパシーを抱きにくいし、夫のことを最初の男だったと言ってくれてる一途な奥さんを泣かすようなヤツが、おのれを利する形で噓と屁理屈をこねているのを見るのはただ辛い。
もちろん女性陣から反撃もされるし、彼のダメ人間ぶりはしっかり作中で強調されるんだけど、女性目線で彼を「客体化」してみせているのは、単にバランスをとっているというか、そうすることで逆に「免罪符」を与えているだけで、トリュフォーのシンパシーは、どう見てもアントワーヌの方に傾いている。僕は、ふつうに、アントワーヌはひどい男だと思うし、それを「愛嬌のうち」で誤魔化すような正当化をあまり好まない。

あと、日本人の描き方がいかにも西洋におけるステロタイプだったり、フランスに留学してる気取った女の類型だったりするのは、別段一向に構わないのだ。珍妙なジャポニスム・グッズに彩られた部屋や、謎の和装推しも、個人的には気にはならないし、好きに演出してくれていい。
ひっかかるのは、アントワーヌが「生理的に耐えられない」として、キョーコから逃げ出すきっかけとなる一連の「ありえないこと」が、彼女の奇矯さとか執念深い性格などではなく、お箸での食事とか、靴を脱ぐ前提の直座りカルチャーとか、儀礼的な行為の繰り返しとか、相手の言葉を静かに聴く姿勢とか、文をしたためて渡す習慣とかといった、「日本人であることそれ自体」を槍玉にあげているということだ。
ここでの「日本人蔑視」は、露悪的だったり、シニカルだったり、揶揄して茶化しているというよりは、もっと「ナチュラル」で「素の反応」に近いものだ。すなわち、トリュフォーは「本気で気持ち悪がってる」。それが、抑えきれずにじみ出ている。というか、あまり隠す気がない。
そして、それを看過できるほど僕はお人よしではない。

「けなす」ほど面白くなかったわけではないし、そこかしこにトリュフォーの映画的知性や稚気はしっかり感じられたのもたしか。
ただしょうじき言えば、映画より、パンフにおける自身の作品解説のほうがよほど面白かったかも。

じゃい