「最初に鑑賞したのは二十歳ごろだった。 お恥ずかしい話だが、当時は「...」カッコーの巣の上で ROKUxさんの映画レビュー(感想・評価)
最初に鑑賞したのは二十歳ごろだった。 お恥ずかしい話だが、当時は「...
最初に鑑賞したのは二十歳ごろだった。
お恥ずかしい話だが、当時は「なんのことやらさっぱり」だった。
患者が落ち着いて暮らすことができるように、きちんと管理されている精神病院に、精神病と偽って刑を免れたマクマーフィ(ジャック・ニコルソン)がやってきて、秩序正しい日常をぶち壊す。あげくの果てに看護師を殺そうとまでしたので脳に手術をされ廃人となるが、けっきょく最後に同房の収容者に殺されてしまう話…というふうにしか受け取れなかった。
むろんミロシュ・フォアマン監督の意図は、そういうところにはない。
非常に個人的で我田引水な解釈を許してもらえるなら、この映画が言っているのは、「患者の治療のため」と称して行われる「管理」は、実は、「病院」の秩序維持のために患者を「押し込めておく」ことにすぎなかったということだ。
むろん「患者」とか「治療」、「病院」が何の喩えかは言わずもがなだ。
映画の中で患者たちは一時「外」に出してもらえる。だけどそこで失敗をやらかす。明確には表現されないが、看護師長(ルイーズ・フレッチャー)の「ホラごらんなさい。だからあなたたちは管理されなきゃダメなのよ。それがあなたたちのためなのよ」とでも言いたげな勝ち誇った表情。
そして、最後のところで看護師長の本性がむき出しになる。ハメをはずしすぎた青年の患者に向かって「あなたのお母さんに言いつけますよ」と言う。極度のマザーコンプレックスから精神を病んでしまった患者にだ。その言葉にショックを受けた青年が自殺を図る。看護師であれば予測し得た結果だ。看護師長にとっては「治療」よりも「秩序」が優先すべきことだったのだ。
これを見たマクマーフィは激怒し、看護師長にとびかかってその首を絞めようとする…。
最初に書いたようにマクマーフィは死んでしまうのだが、この映画は希望をにじませる形で終わる。
人間の尊厳とか自由について、たまには考えてみることも必要だ。
仕事帰りのビールが楽しみな日常に慣れきって毎日を安穏と過ごしていると、いつのまにか知らないうちに窓に鉄格子が嵌っていることにもなりかねない。