「精神病の線引きとは」カッコーの巣の上で mob001さんの映画レビュー(感想・評価)
精神病の線引きとは
映画の中でこんな会話がある。刑務所の強制労働を避けるために狂人を装って入院してきた主人公についての、病院の職員たちの会話である。
「彼は精神病といえるのか」「危険だが病気ではない」「重い障害ではないが病気だ」…
私も彼が精神病なのかと考えてみたが、そう決めつけるのには少し違和感があった。彼は確かに病院内で一番問題ばかり起こし周りを巻き込む「クレイジー」な人物ではある。しかしそれが病気のせいなのかと言われると疑問が残る。一方、彼の周りの患者たちは確かに精神病といえる振る舞いをしている物が目立つ。すぐに泣き出すいい年のおじさんや、黙っていたかと思えばいきなり大声で罵りだす青年(?)など。
しかし、一番言動が「クレイジー」なのは主人公のマックである。「マックは病気のふりをしているのだから健常者なのは当たり前」と言われたらそれまでなのだが、ふりだとしてもなりふり構わず問題を起こしまくること自体普通ではないし、後半は彼の本心で行動しているようにも見える。
患者の中には症状の軽そうな者もいるし、(ちょっと神経質なくらいで割とまともなハーディングなど)何をもって精神病だというのか…これは現代でも難しい問題である。驚きなのは、それぞれ症状の全く違う患者たちに同じ(と思われる)薬を処方していること。本当に病院側はそれぞれの患者ひとりひとりを治そうとしているのか?同じ薬に、同じ日課メニューを強いる病院の姿勢には疑問が湧く。患者たちの日常を見ていて、「ここに入ったら私も無気力の廃人になりそう…」と感じた。
そして衝撃的なラストだが、数々の問題を起こし看護師を絞め殺そうとしたマックはロボトミー手術を施される。そのせいで彼は自分の意志の全くない廃人になってしまう。ロボトミーは一時期実際に行われていた治療だが、それを施された患者こそ一番の精神病者のように見えてしまう…。一番健常者に近かった彼がなぜ悲惨な結果を迎えてしまったのか。病院側の思惑以外には考えられない。
しかし、病院がすべて悪だったのかというと、それも違う気がする。患者を虐待していたわけでもないし、むしろ自由にカードゲームや運動をさせていたように見える。(それも日課の一環だったのだろうが、やり方などを強制させていたようには思えない)
ミーティングも、現代も行われているような、自由に話し合って患者自身が互いの心を解きほぐしあうような理想をもって始められたのではないか。また集団生活の中で規則があるのは当たり前だし、それを破ろうとする者には指導を行うのも自然なことである。つまりすべてやり方が悪かったのだと思う。すべての患者に対して画一的な方法で治療を行っていたことが間違いだったのではないか。
実際、マックの型破りで人間的な行動に巻き込まれた患者たちは笑顔を取り戻していく。吃音症のビリーは、好きな女性と結ばれた喜びで一瞬だが吃音が治っている。しかし看護師のラチェッドの厳しい追及で再び吃音に戻り、ついに自殺してしまう。その騒ぎで集まってきた患者たちに対して、「いつもの日課に戻りなさい」と言うラチェッドには、少しぞっとするものがあった。彼女にも患者たちを治したいという信念があったのだろうが、その時代の方法論ではそれは叶わなかったのではないか。
現代では、精神病についての研究が進み、新しい病名も次々世間に知られるようになってきたようで、薬も症状に応じた細かな処方がされているそうだが、患者に無理やり病名を割り当てたり、とりあえず薬を出す、というような治療がなされているとも言われている。実際精神の病というものを100%間違いなく診断することは不可能であるが、患者を「ひとりの人間」として向き合う姿勢こそが一番大事なのではないだろうか。