鏡のレビュー・感想・評価
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タルコフスキー監督の自伝的映画
アンドレイ・タルコフスキー監督の自伝的映画らしいけど、
デヴィッド・リンチ的な不条理な展開で、時間も場所も行ったり来たり…
どういう事だ?どういう事だ?と悩みながら観て、気になって2回目も観ました(笑)
それでも難しいな…(笑)
考察しがいあります(笑)
印象的な記憶に残るような表現や映像があって、たまに思い出しそう(笑)
バイアスかかってるかもだけど、僕の中で特別な1本です。
かなり暗く不安な気持ち イメージ集 監督の生い立ち
扇町キネマ
美しい風景だが血塗られた
母は性的で自我も強い 女性ともレズビアン的な 男に対して売春?
強く不安嫌な予感 手榴弾や鶏の首を落とすなど
荒廃トラウマなど
音楽も素晴らしいが鋭い叫び声
監督の性格はかなり嫌な人だと思った 明るくて楽観的で単純とは真逆であろう
芸術家以外では生きていけなさそうなタイプだろう
美しい映像の下には暗く重く嫌なイメージが満載だが一度は見といてよかった
この監督の有名作品は目を通しておくこと
考察を検索したがあまり正解とされる見方は定まっていなさそうであった
タルコフスキーの極めて個人的で詩的な映像美の独白
ある人々にとって、今度のタルコフスキーの「鏡」は全く理解不能の、簡単に言ってしまえば詰らないものでしかないであろう。主人公の追憶シーンの断片的な羅列、その一つ一つが当時の社会状況から意味をもつ政治的な見解、そして登場する役者の重複する演技スタイル。これらが、作者アンドレイ・タルコフスキー個人の主観的な視界の中で完全に映像化されている。僕は、このような特殊な“作家だけの映像美”に出会うと、まず最初に一般的な評価は望めないだろうという、映画鑑賞の孤独化を危惧する。つまり、タルコフスキーの創作の中には観客に対して、解りやすく提供する意図は全くなく、ここには映像の語り手ではない“映像の呟き=独白”があるだけだからだ。それによって観客の独立した鑑賞態度が問題になるであろう。
それならば、その観客を拒否した世界から、美しいもの、映像表現の優れたものを、こちらから奪ってみてはどうだろうという考えが僕を支配する。先ずゲオルギー・レルベルグのカメラが、ストーリーとは無関係に思える自然の有り様を執拗に長く撮っているのが注目に値する。母マリアが庭の柵に腰掛けている場面の風に戦ぐ野辺のカットは、それだけで詩的な風景画として母の姿を表現している。また、水が入った盥で髪を洗う場面では、天井から水と壁が落ちてくるスローモーションの美しい映像が流れる。ここでは同じ詩人で映画監督のジャン・コクトーに似たイマジネーションを想像した。そして、国立出版所の原稿に校正ミスがあったと慌てて急ぐマリアの音の無いスローモーション映像。主張を抑えた沈黙の表現に、ソビエト国民の声に出せない苦悩が感じ取れる。
この他にも時間を止めた印象的な映像が幾つもある。例えば子供たちが火事場へ向かった後の、テーブルの上から落ちていく花瓶、テーブルからワイングラスを持ち上げた時に残ったくもりが消えゆくカット。それらは記憶の世界にある些細な時間をイメージした作者の映像として存在する。人生を振り返り、個人的な記憶を映像詩として表現する作者は、また幸せではないだろうか。ここまで自分の為の映画が創作できることが、羨ましいと思った。それ故、内容が孕んでいる作者の本当の苦悩まで理解することはない。独りの幸福な詩人の映像美である。
タルコフスキーの自伝的私映画そのものの静かな映画。全体を見通せるストーリーの完結さは無く、あるのは病床に臥す主人公の断片的追想であり、それは感傷ではなく自責の苦悶に近い。極めて個性的な独白の映像詩。
1980年 7月20日 岩波ホール
公開当時、内容の解り難さのため評価されなかった。個人的にも絶賛するまでではないと思ったが、意外にも映像は脳裏に残っていて、その後忘れられない作品になった。どちらかというと理数系の思考を得意とする自分には文学コンプレックスがあり、このような詩そのものの様な映像は苦手である。しかし、嫌いではない。自分勝手な想像が許されるからだ。そこが映画と文学の違いだと思う。
わからない。わからないがとにかく美しい
タルコフスキーが自身の半生を自伝的に重層的に描いた作品。いきなり作者の父の詩の朗読が始まったりとりとめもなく連想、回想が続く。さらには20世紀の歴史のさまざまな一幕も挿入されていて、ほんとうに何度も観ているが今でもよくわからない場面が多数あると言わなければならない。しかし意味を気にせずに、映る「画」の連なりとして観るとこの映画はほんとうに綺麗な映画である。草原に風が吹いて音を立てる場面、終幕で老いた母が子どもたちを連れて森を歩いていく場面。ヨハネ受難曲の合唱が流れて言葉にならない強い感動を覚える。この監督の気取りは鼻につくところはあるが、この映画は印象的。
【タルコフスキーを通して世界を考えてみる】
この作品はいろいろ考えることがあって、嫌いというわけではないが、とても苦しくなる。
散りばめられた情報が多くて、こういうことだろうか、というところにたどり着くのがそもそも大変だし、まあ、本当にそうかも判断がつかない。
吃音の矯正を試みる少年が映画のカメラに正面に向かって話す場面、これは、きっと鏡に向かって、つまり、自分自身に向かって話しかけているのだと思う。
父親の鏡に映った姿が自分。
父親の詩を朗読しているのはタルコフスキー自身だ。
妻は母親の鏡に映った姿。
そして、息子は自分が鏡に映った姿なのだ。
ロシアの歴史的・宗教的な特異性も語られる。
西欧とは異なるキリスト教の歴史、つまり、カトリックやプロテスタントではなく、正教の流れを汲んでいるのだ。
気にも留めたことはなかったが、ロシア人にとっては、これはコンプレックスなのだろうか。
モンゴルの侵攻をくい止めた歴史もある。
ロシア人にとっては誇りであっても、その恩恵を受けたのは西欧で感謝もされない。
戦争や政治的な映像をフラッシュバックさせる場面もある。
スペイン内戦から、日本に落とされた原爆、中国の毛沢東語録をかざして熱狂する人々の姿。
個人から、家族、民族の歴史から、世界の歴史まで淡々と範囲を広げて映し出すことで、何か、僕達が決して逃れることの出来ないものが、過去には明らかに存在するのだと言っているかのようだ。
この作品はタルコフスキーの自伝的な要素が多く含まれているというが、もし、自分と家族の関係を鏡に映し出されたものとして捉えているのだとしたら、少し悲しい気もする。
僕はもっと自由であるように思うからだ。
ただ、それこそが、もしかしたら、ソ連時代の、自分達自身の自由の無さを表現しているのだろうか。
スターリンを経験したソ連の…。
タルコフスキーが亡くなってからも、世界から抑圧や紛争は無くなっていない。
新たな価値観を受け入れられない閉塞感もある。
僕達は自分達を鏡に映して、考え続けなくてはならないのだろう。
ただ、僕には、タルコフスキーは、この作品で、乗り越えられるという希望を見せようとしているような気がしてならない。
二重性
父は、自分の言葉を持つ詩人。
母は、自分の言葉を持てない校正係。
父は、自由とともに、罪悪感を得る。
母は、負担とともに、神聖さを得る。
祖国ロシアの、守ったものと失ったもの。
四大元素(火、水、風、地)の美しさと、自然に背を向ける人間。などなど。
全編にわたり、さまざまな「二重性」を感じた。
鏡は、二重性を暗示するとともに、ありのままの姿を映す意味を持つ。
母が髪を洗うシーン。水の中に潜む自分の本性と語らっているように見えた。
少年の知らない、ひとりの女性としての母の一面を見たような、衝撃的な幻視だ。
そしてラストの、草むらで戯れる若い両親と、何とも言えない母の微笑み。理想の聖母と現実の母が交差しているようだった。
理想を求めている限り、現実のむなしさは続く。
しかし、神聖さへの憧憬を忘れることなどできない。
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