女と男のいる舗道のレビュー・感想・評価
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女版「勝手にしやがれ」
「勝手にしやがれ」は、随分と前に観たっきりだけど、似ているって感じた。既成的な価値観を否定、論理的な会話は成立せず、いまある状況が酷くても、短い反意的、詩的な言葉で修辞してみせ煙に巻く。
ナナは、女優を夢見て、子どもを置いて離婚、写真を撮りたいという男に騙され、娼婦に転落。しかし、女優は、自分の外側で演じ、客に媚びを売り、金をせしめる商売。娼婦も、似たようなものとも言える。
女優を諦め、娼婦を演じるナナ。しかし、哲学者に会い、人生に愛は必須と知る。この時点で、ナナの内面は、もう既に死んでいることに気づいていたのかもしれない。
終幕は、娼婦として別な業者に売り飛ばされかけ、商談が成立せずに、何故かナナだけが撃たれて死ぬ。
「勝手にしやがれ」では、自分の暴力性が仇となって死ぬが、「女と男のいる舗道」では、自分の愛欲性が仇となって死ぬ。
ヌーベルバーグは、WWⅡ以後、既成的な価値観が崩壊し、リベラル、実存主義的な価値観によって生まれたと聞くが、実存主義は個個人の実存に立脚しているがゆえ、儚く、刹那的で、受け継がれるものではない生き方のように自分には思える。それ故に最後は、死へと帰結するのではないだろうか。
なんとなく格好よく、自分らしさ全開なのだろうが、長い目でみると破綻する考え方のように見えてしまい、自分は推さない。
ナナ転び…
昔ゴダール特集で見たはずだけど、おぼろげな記憶しかないので、久々のご対面。
本編を12の章に分け(そう言えば「わたしは最悪。」も12章構成だった)、さらに一見無造作な断片で紡いでいく、とある街娼のスケッチ。もともとゴダールの映画はストーリーを有機的に語るというよりは、シークエンスをコラージュのように散りばめる手法だ。
ビリヤード台を巡るダンスなどは見ていられるのだが、哲学者との問答など楽しいかと言われれば、そうでもない。
ラストの呆気ない死も当時の定番のようで、本家ヌーヴェルヴァーグのみならず、松竹ヌーヴェルヴァーグでも踏襲していた気がする。
愛と愛なき者の街
アンナ・カリーナが、21歳か22歳の頃に撮られたゴダール作品。1962年のフランス映画。この頃が一番美しくないですか?ちょっと色々と凄いです。女優さんとしても。
84分の映画は12分割された上で各々にタイトルがつけられ、各々に主題がありますが、もちろん一本の長編映画になっています。
離婚歴のあるレコード屋の店員ナナは、映画女優を夢見る22歳の女。友達に貸した2000フランの貸し倒れが元で家賃を払えなくなり、街でネコババで警察に捕まってしまう。一回の援交から、売春婦に身をやつし、最後にはヒモ(売春の元締め)に売られて、命を落とす。
ヌーベルバーグらしい、救いの無い物語り。ただ墜ちて行くだけのナナの不幸。11章に出て来る見知らぬ哲学者は、本当の哲学者ブリス・パランとの事で、哲学の知識のないナナと真面目に愛について談義します。しかもドイツ哲学。これも「らしい」としか。
モノクロの画面。ミシェル・ルグランの音楽。時代を超えて来た建築物。石畳の歩道と両開きの窓。不思議な郷愁を感じる映画です。パリに行ってみたくなる、と言うか暮らしたくなります。
これまで見た三作のアンナ・カリーナ主演作の中では、コレだけがリアルな演技の映画で、一番好き。女優としてのアンナ・カリーナの魅力は勿論の事、映画表現としての斬新さもあり、ヌーベルバーグのサンプルとして、見る価値はあると思います。
やっぱりアンナ・カリーナが好き。
良かった。
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