「精神的飢餓。愛という縁は、しばりか。成長か。」男が女を愛する時 xmasrose3105さんの映画レビュー(感想・評価)
精神的飢餓。愛という縁は、しばりか。成長か。
当時メグ・ライアンが人気絶頂で、興行狙いだろうとスルーしていましたが、なんと深い中身がちゃんとありました。精神的飢餓。夫婦や家族や社会的豊かさがあっても、人間の中には虚無という闇があります。
夫はパイロット、妻は美しく教師という仕事、二人とも善き人たち。幼き長女と次女。愛し合っている恵まれた幸せ家族。なのに、妻は徐々にアルコールに依存する。
なぜか。何が不満?誰もがそう思うでしょう。当人達ですら「わからない」というのですから。ここに真実味があります。
でも無意識はサインを出し続ける。
社会的成功者である夫は、オスとして妻や家族を守る優れた男です。でもその自負が、家族を「女・子供」という、自分と比べ弱い未熟な人格というステレオタイプな認識となり、ちょいちょい内面の未熟さが見え隠れする。妻もはじめはお姫様のように愛し尽くされ、頼り切る可愛いオンナ。でもね。夫の幻想に合わせ、理想の妻&女性という枠にがんじがらめ。嫌われたくないから。愛という名のもとに、娘二人育てるだけでいっぱいいっぱい。
幼き優秀夫は自分のことを未熟なんて思うわけがない。良い人なんですよ、本当に。
愚痴も言わない俺がそんなメンタル弱い人間と一緒にされるのは...って感じで、依存症家族の会もどこか自分向けではないと思っている。「治す」のはあくまで「依存症である妻」。しかし別居後、笑顔が戻った妻を見て、落ち込む夫。結局、夫の自己効力感を上げるため、妻子が土台になってくれていたのか。自分が妻子を支えているつもりになって、自信満々だったのに。
幼き長女、彼女の感性がこの映画を輝かせています。
精神年齢は彼女の方が上です。彼女には色々見えてるんですね。妻の連れ子という立場、妹は現父の実子。幼きながら、どれだけアンテナを効かせ、気を遣っているか。幼き優秀父は、なんだかんだで少し成長、後半でようやくこの長女と心の対話ができるシーンがあります。この部分のやりとり、ここにやられました。一生忘れられない。この長女が、幼き優秀父の精神的成長を促す、触媒的存在なのです。こんな描き方は初めてみました。
対話に年齢は関係ない。社会的評価で優秀でも「対話」ができるとは限らない。会話はできても。自分の影と向き合うことは、弱いからでなく、誰もが通らなければならない道です。それを経ていない人は対話にならないし、信頼を育てる心の土壌が無いということ。
妻はリハビリ施設に入所、そこでの出会いから、夫より一足先にそれに気がつきました。
上辺のキラキラは他人が見るもの。そうした他からの承認欲求とは違う、自己の承認欲求とでも言いましょうか。自分を満たしていくのは、ステイタスや、まして人でもなかった。自分の中の土を耕し、また相手の中にもその土壌を見いだし、お互い何かを育てていくのを認めあい、支え合うことでしか得られない。
エンディングの描き方は少し安易に感じましたが、ここでめでたしめでたしではなく、まだ現在進行形ということでしょうね。
男が女を愛する時、というとロマンスを想像しますが、もっと深い、自由も含んだ親愛みたいなもの。育てていく意志はありますか?と問われているような作品でした。