大いなる幻影(1937)のレビュー・感想・評価
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男の友情は男くさい
舞台は第一次世界大戦で、職工出身の将校のジャン・ギャバンと貴族階級の将校が一緒に捕虜となる。ドイツ軍に捕らえられるがこちらの将校(エーリッヒ・フォン・シュトロハイムが障害者役でコルセットをつけたまま演じる)も貴族階級なので、非常に紳士的に取り扱ってくれる。彼らは捕虜収容所におくられ、脱走を試みるべく、地下に穴を掘り続けるが、後一歩のところで収容所変えをさせられる。ジャン・ギャバンと貴族と金持ちのユダヤ人は城を改造したような収容所へ送られ、シュトロハイムと再会する。ジャン・ギャバンとユダヤ人は脱走計画を練り、貴族とシュトロハイムは滅び行く貴族階級への愛惜を語りながら杯を傾ける。ある日、一緒に収容されているロシア兵が皇后からの贈り物をあけると本だったことに腹を立て火をつけて燃やす騒ぎを起こす(食べ物じゃねえのかYO!まさに焚書ですよ焚書)。それにヒントを得て、貴族がドイツ兵をひきつけている間に、ユダヤ人とジャン・ギャバンは逃走。貴族はシュトロハイムに撃たれ、友情に感謝しながら死ぬ。
スイスの国境近くでユダヤ人が足を痛めて歩けなくなり、二人は近くの小屋へいく。そこは寡婦の家畜小屋で、二人は憲兵への通報を覚悟するが意外に匿って貰えた。寡婦の家で手伝いしながら、彼女とジャン・ギャバンの間には愛情が芽生える。ギャバンは戦争が終わったら迎えに来ると寡婦に約束し、スイス国境へ…。
例えば「大脱走」なり「栄光への脱出」なり、ハリウッド製“収容所脱走もの”はいかにして奇想天外な方法で脱走するかというような部分、成功するか否か手に汗握“らせる”ことを主眼においているけれども、この映画はどちらかというとそれはあくまでも結果であって、女装して舞台をやったりといった収容所の生活について丁寧に描き、かなりの時間を割いている。脱走が成功するかしないかを風味付けにしているというあたりに、ルノワールらしさを感じる。スティーブ・マックイーンの美学が通用しないのだ。
この映画が作られたのは1937年。まだフランスは第二次世界大戦を当然潜り抜ける前なので、ドイツ軍に対して戦後あれほどの憎しみを映画にぶつけることになろうとは信じられないほど友好的な作り。同じ貴族だからとシュトロハイムが国境を越えた友情をフランス貴族将校と築き、捕虜として捕らえてもランチを一緒にしたりといった騎士道精神発揮場面を描写する、またスイス国境越えのシーンでも二人を見かけたドイツ兵は撃とうとするけれども「もうだめだ、あそこはスイス国境だ」と制するなど、ドイツ人の紳士っぷりを強調している。そういう意味でかなり面白かった。
シュトロハイムは以前レビューした「グリード」の監督だがあまりにも無茶をやりすぎたので、結果監督できなくなり、俳優をやって糊口をしのいでいた。この「貴族階級のドイツ将校」なんて彼のもっとも得意とする役であるので余裕すら漂うが、でもシュトロハイムだからなんとなく悪巧みしてそうな胡散臭さを感じてしまうのはご愛嬌。ジャン・ギャバンの若さにびっくり。
ラスト、ジャン・ギャバンが「もう戦争はこれっきりにしたい」といい、ユダヤ人が「それは大いなる幻想だよ」とたしなめる。私たちは既にこの後どうなるかわかりすぎるほどわかっているわけで、このきちんとした現実認識こそルノワールの抱く「世界に対する恐れ」だと私はおもう。安直ではない娯楽映画なのだ。
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