「記憶のなかで」大いなる幻影(1937) 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
記憶のなかで
おそらく誰もがエドゥアールマネの絵画「笛を吹く少年」を見たことがある──と思う。真紅のズボン。黒いチョッキ。黄色い装飾がある略帽をかぶり、笛筒を肩に提げ、横笛を吹いている。──あどけない顔立ちの少年。
なぜ、見たことがあるはずと言ってしまえるのか──というと、この絵は、教科書として、美術にも音楽にも使えるという重宝な素性を持っているから。じっさい、わたしも、学校の美術もしくは音楽の教本の表紙絵として、この絵を見たのだった。
ルノワールの大いなる幻影でこの少年を見た──気がする。
昭和期に著名人たちが洋画ベストをやるとかならず大いなる幻影が入った。かつてフランスには映画の黄金期があり、日本にも仏映画のファンが多かった。ルノワールはメジャーだったが、いうなれば芸術点を加味した大家だった。黒澤明とおなじで、労働者からも、教養ある人たちからも愛されたのがルノワールだった。(と思う)。
来歴を見たら初作が1924年で、遺作が1961年。
じっさいわたしも三本しか見たことがないので、知った風なことは言えないが、ルノワールと言えば挙がるのは大いなる幻影で、ほとんど同監督の代名詞だった。
1937年の映画だが、大河ドラマが映画の尺に凝縮されたようなエピック。笑えるし、泣けるし、ハラハラドキドキもある。エンタメの方法論の原型がすべて詰まったような映画だった。
主演はまだ若いジャンギャバン。若い頃があるのはとうぜんだが、初老以降ばかり見る役者なので若いジャンギャバンは新鮮だった。
独軍の収容所から脱走する戦争映画。大脱走とか、第十七とかを思い浮かべてもらえば、そんなに大きく外れない。
その収容所の面子にボアルデュ大尉というひとがいた。
ピエールフレネーという往年のイケメン俳優が演じていた。
野卑な捕虜たちのなかで、大尉だけは、貴族の出で、絵に描いたような紳士だった。いつも上着を袖を通さず肩にかけている。あまり喋らず、片眼にモノクルを嵌め、白手袋、常に身だしなみを整え、綺麗に整髪している。
捕虜仲間たちがじゃれあったり騒いだりしているのを、ちょっと離れた場所で、おだやかに微笑みながら見ている。囚われの身となっても威厳と気品をそこなわず、エリッヒフォンシュトロハイムが演じた独軍の収容所長からも敬意をはらわれる。ボアルデュ大尉とはそんな役どころだった。
筋書きのなかで大尉は、ジャンギャバンらと脱走を企てる仲間に入るのだが、最期は、単身、脱走の経路を外れ、自ら囮(おとり)となり、敵の注意を惹くため笛を吹きながら逃げ、主人公たちの脱走に挺身する。
身ぎれいな男性ピエールフレネーが笛を吹きながらみずから犠牲になる姿がマネの笛を吹く少年と合致した。──大いなる幻影にマネの笛を吹く少年が出ていた──気がしたのである。
笛を吹く──という外観的類似が、ボアルデュ大尉と笛を吹く少年を重ねたのではなかった。二者から、いやおうなしににじみ出てくる、潔白で何のためらいもない様子、美しい佇まいが、ピッタリ符号したからだった。(と思う)。
そういう態度のことを今は使われなくなった日本語で「高潔」というんじゃなかろうか。マネの無垢な少年に高潔を見たように、ボアルデュ大尉に高潔を見た──という話。