「ローズ ミチコ イセリ」王様と私 rie530さんの映画レビュー(感想・評価)
ローズ ミチコ イセリ
今日見て気になったこと。
クレジットの中に日本人と思われる名前があった。
「Michiko」とだけ。
役割はOriental dance advisor
誰なんだろう?
公開時、これはほんとうにハリウッド一押しの映画だったはず。
トニー賞を取ったブロードウェイ・ミュージカル。しかもキャストはほぼそのままという。
シネマスコープ55による超大作として、鳴り物入りでつくられたに違いない。そこに日本女性が関わっていたとは…
もちろん、早川雪洲以来ハリウッドに関わった日本人の数は決して少なくないけれど
とても気になったのであちこちのサイトをひっくり返してみた。
30分足らずの間にわかったことは
彼女の名前はイセリ ローズ ミチコ
1923年日系移民の2世として、アリゾナで生まれた。
アリゾナ州への日系移民は1900年代から始まっている。
当初は銅鉱山や綿花の畑の労働者として使われ、後に独立して農地を開拓するようになり、徐々に成功を収めるようになっていったという。彼女もそういった移民の家庭に育ったのだろう。
ところが大恐慌時代を迎え、それが一転する。
仕事にあぶれた白人労働者が有色人種である日本人を排斥するようになり、土地の所有制限が行われる。
そのせいだろうか、彼女(とその一家)はカリフォルニアへと移っている。
そこでもやはり苦難が待っていた。第二次世界大戦中の日系人強制収容のあおりをくらい、彼女たちもまたワイオミング州のハート・マウンテン移住センター(という名の収容所)に収監されてしまう。
ところがそんな中でも彼女はダンスを教えていた。その当時の"Michiko Iseri dance class and Heart Mountain mandolin band"と題された写真が今もカリフォルニア大学に残っている。写真には着物姿を含めた女性が十数人映っているが、中央の、いっそうきらびやかに装った女性がおそらくはミチコと思われる。
20そこそこでありながら、十人以上のメンバーを率いて収容所の中、何を思って彼女は舞っていたのだろう。囚人のような扱いを受けながら、それでも踊っている間だけはその境遇を忘れていられたのだろうか。
そして1950年、『王様と私』はブロードウェイにかかる。舞台版も映画版も、振り付けはジェローム・ロビンスだから、おそらくミチコも舞台版から関わっていたのではないかと思う。
この作品は、いろいろな意味でレイシズムにあふれている。悲恋の末、恋人が死んでしまう妾のティプトムは、当初アフロアメリカンの女優が予定されていたが、それが "slave" の役柄だというので断られ、結果としてプエルトリカンのリタ・モレノに移ったという裏話しもあるくらいだ。
ミチコ本人もそういったレイシズムのために、多感な時期を収容所の中で過ごすことになったのだ。
彼女はこの脚本をどんな風に読んだのだろう。
彼女が振り付けに関わったシャム宮廷の女官たちの舞、
それは本来のタイの舞踊とは似ても似つかないもので「東洋はみな同じ」という欧米的な上から目線の下に作られている。
そして同時にこの映画は「女は従うものだ」という東洋的家父長制度に対するアンチテーゼも含んでいる。
東洋の女として、彼女はこれをどう解したのだろう。
ローズ ミチコ イセリは2011年7月29日、カリフォルニア州サクラメントで没した。享年88歳。
この人の目線でもう一度この映画を見直してみたい気になっている。
ローズ ミチコ イセリのこと、初めて知りました。
デボラ・カーが素敵で、ユル・ブリンナーの筋書き上の難点をつい忘れて
見とれていた映画でしたが厚みを持って感じるようになりました。
投稿ありがとうございます。