「モノクロだからこそ見えてくる色がある」動くな、死ね、甦れ! LukeRacewalkerさんの映画レビュー(感想・評価)
モノクロだからこそ見えてくる色がある
”悪童”ワレルカと慈母のような同級生ガリーヤの関係性、日本兵捕虜(いわゆる抑留者)の民謡、さまざまなエピソードと逃避行、モノクロームの映像、そして最後のシーン・・・については他のレビュアーさんたちが的確に評してくれているのでここでは繰り返さない。
そこで、例によってまったく違った視点からこの作品の味わいを書いてみようと思う。
まず、このタイトルは何を意味しているのだろうか、とつくづく考えた。
考えた挙げ句に、結局見当もつかないのでAIに調べさせたところ、こんな答が帰ってきた。
動くな(Замри): 「現状を止める」こと。監督にとって、それは自分の過去である子ども時代をフィルムの中に永遠に封じ込める行為。
死ね(умри): 「終わりを迎える」こと。過去をフィルムに固定することは、その過去の自分自身を一度「殺す」ことであり、苦しみや痛みに満ちた記憶との決別を象徴する。
甦れ(воскресни): 「新しい生を得る」こと。過去の自分を芸術作品として昇華させる意味。
ふむ。要するにこのタイトルは、作品のストーリー展開やプロットとはまったく関係がないのだ。
むしろこの作品が存在する意味、創作した動機を、異なる次元からメタ認知して、神のごとく表していることになる。
それなら、最後の「ガリーヤのイカれた母」のシーンで「子どもはもういい。女を撮ってくれ」という謎の一言が腑に落ちる。
あれが監督の声ならば、それは「神の声」だったわけだ。
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以下は私の勝手な想像に任せた。
帝政ロシアの土俗的な呪いは農奴制という通奏低音だが、炭鉱と収容所がないまぜになったこの極東の地スーチャンは、もともと農奴すら居なかった地だと思える。凍てつく以外には泥濘しかない。
その無産な土地に新しい時代の資源が採掘され、ソヴィエト以降に軽微なものも含めて犯罪者や政治犯が送り込まれてきたのだろう。
ソルジェニーツィン『収容所群島』で描かれた収容所は主に国家反逆罪(反革命罪)に問われたある意味「上級政治犯」の行く場所だったようなのだが、ここはどうだろうか?
穿った見方をすればここは「重要な政治犯」が流刑される地ではなく、それ以外の虚実が不明な密告による告発や一般的な犯罪者、要するにソヴィエト社会でささいな罪に陥れられ、最下層に追いやられた人びとが溜まる場所だったのかもしれない。
モスクワから追放されてきて、イカれてしまった学者もそうだろう。例えば重大な思想犯と言うより、指導教授に自分の業績を献上しなかったためとか、要するに世渡り下手だったのかもしれない。
また、説明されないが、受胎することでここから釈放されることを願って男に迫る15歳の少女も、ティーンエイジャーにありがちな跳ね返った言動で、あるいは単なる嫉妬の標的となって、何らかの罪に問われて流されてきたのかもしれない。
あるいは、ワレルカの母だって(本来、子連れは「釈放」されていたはずなのに)ここに居る、ということは、いかなる形であれ、どこか西の地に居るときに有罪を宣告されたのかもしれない。
それを教師と警官と政治士官?秘密警察?という体制側の吏員たちがスターリンの威光をもって束ねようとするが、しかし束ねられない。
そこには土着の農奴の諦めに似た従順さはなく、行進訓練で掛け声を茶化し、ダンスホールでは酔って乱闘に明け暮れ、常に他人の僅かな財産を盗み合い奪い合い、弱い立場の者や周囲に馴染まない者に隙あらばリンチまがいの「冗談」をしかけ、夜道を帰る人を付け狙うような、無法とインモラルを絵に描いたようなコミュニティである。
まるで、荒唐無稽な想像で創出したディストピアSFのようだけれど、これが監督の心象の原風景のようだ。
なんと殺伐とした、救いのない原風景だろうか。
それならば、『動くな、死ね、甦れ! 』という呪文のようなタイトルは、痛いほど胸を撃つ。監督はそんな救いのない少年期をフリーズし、殺し、決別したかったのかもしれない。
そして恐らく実在はしなかっただろう悪ガキのワレルカは、実在させたかったトリックスターである。悪戯と反抗で善悪の境界を超えた予測不能な行動で権力を出し抜き、秩序を嘲笑う。
ガリーヤは神話や古物語に時折登場する「賢い少女」だ。主人公を助け、癒やし、純粋な愛を発する。
ガリーヤの死は「純粋さが失われた悲劇」であり、この地(この社会)の救いようのなさを際立たせて、鑑賞者のわれわれに突きつける。
彼女の死に、もう一歩踏み込んだ意味があるとするなら、それは主人公の覚醒だ。
劇中では「ワレルカは?」「病院だ」という台詞が飛び交った。つまりワレルカはともかくも生きている。
彼女の死を目の当たりにしたはずのワレルカはその復讐やガリーヤの使命を果たすべく、この物語のあと長い時間を掛けて立ち上がるかもしれない。
少女の死は物語の終わりではなく転換点となり、主人公は彼女が象徴していた純粋さや希望を、自らの行動を通じて世界に甦らせる役割を担い、彼女の死が決して無駄ではなかったことを示す。
つまり悲劇の中に希望を見出す物語の構造を作り出すことになる。
そうすると、三部作と言われるあとの2作を観ないわけにはいかなくなるのかなぁ。