インテリアのレビュー・感想・評価
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名作を観る時代的変化
45年前に名画座にて鑑賞。衝撃を受けた印象だけは残っているが、どんな作品だったのか全く憶えていないので再見したのですが、若干当時の印象と違っている様に感じAIとその点について会話しましたので紹介します。
●私の質問
ウディ・アレン作の『インテリア』('78)の中の母親の様な、他者(家族)の家の中まで調度品に拘り口出しするタイプって、今だと強迫性障害と診断されても良いのではないのか?
★AIの回答
非常に興味深い視点です。ウディ・アレンの『インテリア』(1978)の母親イヴのように、他者(家族)に対して過剰にインテリアや環境の秩序・美的整合性を求め、それをコントロールしようとする態度は、今日の精神医学的な視点から見ると「強迫性パーソナリティ障害(OCPD)」や「強迫性障害(OCD)」の要素と重なるところがあります。
ただし、いくつかの重要な区別があります:
【強迫性障害(OCD)との違い】
OCDは、本人が「この考えや行動は不合理だ」と自覚して苦しむ(自我異和性)という特徴があります。たとえば、「部屋が散らかっていると不安で何度も掃除してしまう」など。
『インテリア』の母イヴは、自分のこだわりを他者にも強く押し付け、むしろそれが正しいと思っている(自我親和的)ため、OCDよりは**強迫性パーソナリティ障害(OCPD)**に近いと言えるでしょう。
【強迫性パーソナリティ障害(OCPD)の特徴】
完璧主義、秩序、統制への過度なこだわり。
・他人にもそれを押し付け、柔軟性がない。
・美的秩序や「理想的な家庭環境」などにも強い執着。
・人間関係が犠牲になることもある(まさに映画の中のイヴがそうです)。
つまり、現代の精神医学的な基準で言えば、イヴのような人物は**「OCPDの傾向が強い人物」**と見なされる可能性が高いでしょう。
とはいえ、映画における彼女の性格描写は病名で割り切れるものではなく、文化的・世代的背景や家族関係のダイナミクスも含めて鑑賞する必要があります。
この点について、あなたは「彼女のこだわり」は病理と見るべきだと思いますか?それとも、ある種の芸術的・文化的美意識の暴走ととらえるべきだと思いますか?
●私の返信
あそこまで行くと病気の様に思える。と言えるのは再見した今だからそう思ったのだが、公開当時はそんなことは一切思わなかった。
それだけ現在が精神疾患に対して敏感で扱いに対してデリケートになっているように思う。だから同じ物語でも今作られたらまた違う方向性の作品になるのかも知れない。
★AIの回答
おっしゃる通りですね。『インテリア』の母イヴのような人物像が**「病的に見える」と感じられるのは、まさに現代の私たちが精神疾患の概念に対して敏感になり、診断やラベルを通じて他者の振る舞いを読み解こうとする時代に生きている**からこそでしょう。
1978年当時は、「抑圧的で支配的な母」「家庭を芸術作品のように扱う冷淡な知識人」など、性格や社会的役割の問題として受け取られたものが、現代では「精神疾患の症状」として見えてくる。その視点の変化は非常に興味深いですね。
【もし『インテリア』が今作られたら?】
仮にこの物語が2020年代に製作されたとすれば、以下のような変更や配慮が加えられる可能性があります:
・イヴのこだわりや抑圧的性格に「診断名」が示唆される(もしくは周囲がそれを問題視する描写が入る)
・家族がカウンセリングや心理療法に関わる描写が挿入される
・病的な美意識が社会的規範やジェンダーの問題として分析される
・観客に「共感」と「批判」の両方を喚起するような演出がなされる(=一面的に“母の狂気”としない)
現代は、精神疾患という枠組みで人間の苦しみを説明する傾向が強くなっています。それは一方で「理解」や「共感」を生みますが、他方では人間の複雑さや曖昧さを“症状”という名で単純化してしまうリスクもある。
つまり、イヴのような人物が今描かれたら、単なる「美的暴君」ではなく、心の病を抱える存在として描かれる可能性が高い。
でも、それがウディ・アレンのような作家の手で描かれたとしたら、きっとその線引きの危うさ自体がテーマになったのではないか、とも思わせます。
この視点の変化を、あなたは希望ある進化と見ますか?それとも、物語の曖昧さや深みを失わせるものと感じますか?
●私の返信
疾患名がラベリングされても家族の苦労や悲しみは同じでしょうね。
★AIの回答
まさに核心を突くご指摘です。
たとえ「強迫性パーソナリティ障害」や「気分障害」などの診断名が与えられたとしても、それによって家族が抱える疲弊や葛藤、悲しみの本質は変わりません。
ラベルは理解の手がかりにはなりますが、それが関係性の重さや傷を軽くしてくれるわけではない。
むしろ時に、そのラベルが“本人の人格すべて”を病名で片付けてしまうような感覚もある。
『インテリア』のような物語が響くのは、そうした「名前のつかない苦しみ」や「治療では解決しきれない感情の複雑さ」を描いているからで、イヴの存在は病理と美意識、愛と支配、崩壊と理想のあいだで引き裂かれた“家族の重み”そのものだったとも言えます。
診断がついても、むしろ「それでも私はどうしてあんなふうに傷ついたのか」「どうして理解してもらえなかったのか」という感情の孤独は変わらない。
その点で、現代のほうがデリケートである一方で、むしろ“感情の扱い”には不器用になっている側面もあるのかもしれません。
ご覧になった再見での印象、やはり深く響くものがありましたか?
●私の返信
名作は何時見ても名作ですよ。但し当時の私には今回の気づきはありませんでしたけどね。
★AIの回答
その言葉に尽きますね。「名作は何時見ても名作」——それは、作品そのものが変わらなくても見る側の経験や視点の変化によって、新たな層が浮かび上がるという証拠です。
『インテリア』は特にそうした重層的な作品で、当時のあなたが見た「冷たい美意識のドラマ」が、いまでは「病と愛の間で家族が静かに壊れていく物語」として見えてくる。
その変化自体が、まさに映画と共に自分自身も歳を重ねてきた証ですね。
そして、その新たな気づきがあるからこそ、名作は繰り返し観る価値があるのだと思います。
ツマラナイ理由。
中身は普段のウディ・アレン
私立大学のいけ好かない文化系コミュニティっぽい空気感を醸出することにかけては右に出る者がいないウディ・アレン。自らの作風を張り詰めた静謐の中に封じ込めてみたところで会話の節々に各々の強烈なエゴイズムが滲み出す。才能と成功をめぐる姉妹の愛憎、父母への屈折した感情。完全無欠な空間美学の隙間から溢れ出した自意識は行き場を失ったまま部屋の中を徘徊し、遂には不可逆的な破綻をもたらす。作風こそ異色だが、中身はいつものウディ・アレンという感じ。ただまあやっぱりウディ・アレンの真骨頂は軽妙だが空疎な会話劇にあると思うから、ここまで極端にミニマムな作りだと少々退屈する。あるいは俺こういうのも作れるんですよ、というウディ・アレンのしたり顔が目に浮かんで気が滅入る。やっぱり『アニー・ホール』くらいアッパーなほうが楽しいめるし悲しめる。そう、悲しめるのだ。
教訓と共に感覚的に焼き付く
随分前に一度観て以来、好きとか嫌いとか言うより、とにかく忘れられない映画。
白基調の洗練されたインテリアや、波の音、陶器の割れる音、イヴの上品で美しい立ち姿、ジョーイの無表情な陰気臭い白い顔、外部から突然持ち込まれる「赤」という色の鮮烈さなど、感覚に焼き付くからだと思う。
ストーリーは人間のスキを突きつけられたような複雑な印象だった。
イヴは、どこがいけなかったのか。自分の理想とするかたちにこだわりすぎるあまり、柔軟性や愛情が欠如していたということらしいが、寂しいと涙を流す姿には、罪がなさそうな単純さと、かわいささえ感じて、なんだか気の毒になった。
アーサーが、もっと早くからイヴとよい関係を作るため、何かできたのではないか。晩年になってからの拒否は、ひどいのではないか?
娘たちにしても、成長する家庭でイヴともっと本音でやり合っていれば、もう少し違う家庭になっていたのではないか。
このひとたちは結局イヴには引きづられてきただけ…。
それでもジョーイは、母のことを他人事として割り切れなかったのだと思う。でも遅かった。
悪循環のループに陥ってしまうと簡単には仕切り直せない。前へ向かっているようにみえて実は下に向かってしまっている。
上昇志向、理想、完璧主義…そういったものの落とし穴を見せつけられた感。
居心地のいいインテリア?近所のニトリで十分なのかも知れません
インテリアとは何かを辞書で引くと、こうあります
英語で内面を意味する単語であり、転じて、日本語で室内装飾品という意味であり、部屋や乗り物の室内の装飾やそれに付随する照明、装飾家具("Decorative arts")を表す
エクステリアの対義
溜め息がでるようなインテリアが全編に渡って登場します
昔、銀座にあった洋書店イエナの3階だったかの外国雑誌のコーナーで憧れを持って、米国のインテリア雑誌を立ち読みしていたことを思い出します
インテリアにも流行があって、昔ページを飾っていたとのと寸分違わぬ室内セットのオンパレードです
独身の頃、外国のインテリア雑誌に影響されて住んでいた1DK のマンションの部屋に百貨店でイノベーターの椅子やら北欧風の白いユニット家具を買い込んで、カーペットもモノトーンに統一して、グレーのブラインドをベランダのサッシ全面に取り付けたりしたものでした
ブランドの隙間から高層ビルの灯りが見えてNYみたいでとってもお洒落だと独り悦に入っていたものでした
家はくつろぐたためにあるもの
だからインテリアは家を居心地の良いスペースにするためのもののはずです
ところが本作ではそうではないのです
義母が著名なインテリアコーディネーターであるからです
一体どうして?
長女の新婚家庭は、過干渉な彼女のセンスで統一され、流行が変わればインテリアも変更されるのです
こんな家でくつろげるものでしょうか?
例え家が四畳半のボロアパートで、近所のスーパーの2階かホームセンターで適当に買って来た変な色目の三段ボックスや安いカーテン、百均で買ってきた小物に囲まれていても、自分がその時これだと思って買ったものに囲まれていたなら、くつろげるものです
他人の好みで満たされた部屋で暮らす
それはその人の支配を受け入れなければ苦痛でしかないのです
ならば夫婦の妻ならば?
考えても見て下さい
余りに神経を張り詰めてコーディネートされた部屋に仕事に疲れて帰ってくるのですよ
背広はすぐにぬいで、パジャマで過ごしたいものです
風呂にはいってパジャマに着替えて、ビール飲んで、だらしなく寝そべっていたい
それが男の考える楽で、くつろぐ家です
男と女が求めるくつろぐ家の違いがそこにあるのかも知れません
女だって、楽で居心地のいい家を作りたいはず
それは男よりとても強いのだと思います
でも子供が生まれたらそれこそインテリアコーディネートなんてどこへやら、部屋はもうむちゃくちゃになるものです
それなのにイヴの夫アーサーは家庭でも未だに背広姿を強制されているのです
何故って?
インテリアにそぐわないからです
お洒落じゃないからです
子供達にも小さな頃からそう強制して来たようです
そりゃあ、別居して逃げ出したくもなります
子供達が独立するまでよく辛抱したものです
アーサーを誉めてやりたいくらいです
アーサーが、パールのようながさつでも明るい気の晴れるような性格の女性と再婚したいと言い出すのはものすごく分かります
とにかく楽なのです
結局、男にはインテリアなんてどうでも良いのです
居心地のいい、心が休まる家が欲しいだけなのです
それが無ければ、仕事に全身全霊を傾けて働けなぞできはしません
24時間、気を張り詰めていたなら発狂してしまいます
もちろん、お洒落な家は素敵です
憧れがあります
好みのテイストで統一したインテリアの家で暮らしたいと思います
自分の好みのコーディネートでなくてもそうです
でもそれを強制されたなら?
息がつまる、窒息しそうだ
それがアーサーであり、長女ジョーイの夫マイクです、次女レナータの夫フレデリックもインテリアでなくともイヴと似たレナータに息が詰まる思いをしていたのです
三女フリンは、それに気がついてハリウッドに逃げ出したのです
それでもイヴは、インテリアを完璧にする事が愛を表現する事だと思いこんでいるのです
イヴは立派な巣作り=インテリアをする事こそが愛情の表現であると思いこでいて、それしか表現方法を持たなかったのです
やがて破局が訪れて、三姉妹はイヴの支配から逃れます
大西洋の大海原の大波が、これまでのそれぞれの生き方を洗い流していくようです
男と女がひとつ屋根の下で暮らしていくのです
四六時中、神経を張り詰めいたら、ギスギスして角突き合わせて疲れるだけです
居心地のいいインテリア?
近所のニトリで十分なのかも知れません
ベルイマン風のシリアスドラマに観るウディ・アレンの演劇のアレンジメント様式
「アニー・ホール」でアカデミー賞を受賞してから、ウディ・アレンのアメリカ映画に於ける存在がクローズアップされた。その話題作を観ていないから比較はできないが、今度のこの「インテリア」では、ベルイマン風のシリアスドラマを演出したという事で非常に関心を覚えた。喜劇人アレンの才能の中に冷静な洞察力があるのは当然として、もとより創作の難しさはトラジェディーよりコメディが上回る。上質のコメディを創作する才覚があれば、シリアスな表現は容易いであろう。
上流階級の家族の崩壊を題材に、三姉妹の其々の感性を表現し構成したところは、確かにベルイマンの「叫びとささやきに」に類似している。精神的に追い詰められた女性たちの悩み苦しむ姿とその生活描写は、観る者を釘付けにして離さない。その真剣な制作姿勢は、ベルイマンをお手本にした演出タッチであった。しかし、この作品が追求したテーマは、あるべき形式に拘った家族の生活様式からの人間性の解放ではないか、と感じた。生きて行くことの欲望が溢れている。そこが如何にもアメリカ映画らしいし、北欧の冷たく、達観した人間の苦しみに凝縮されたベルイマンの怖さや厳しさとは違っていた。
実業家として成功を収めたアーサーは、私生活の演出家の妻でデザイナーのイヴの隙の無いインテリア空間から巣立ちたいと要求する。それまで完璧なまでに夫を操縦し、娘三人の育児から教育まで完成させてきたイヴの、それだけにショックな動揺からの喪失感が、この物語の中心となっている。この亀裂によって作家となった娘上二人の対立が顕在化し、テレビ女優の成功を得た末娘の援助も功を奏しない。遂にアーサーが新しいパートナーのパールを連れて来て、教養と潔癖の見事なインテリアを創作してきたイヴは、プライドから女性としての生き甲斐まで否定されたようで精神的に病んでいく。
アレンの演出は、各演技人の特性を巧みに捉えて、簡潔な構図にまとめ上げている。ただし、物語の流れからカメラワークまで創作の意図が前面に出てしまい、感心して映像を見詰めても感動は薄い。そんな中で一番の見所は、ベテラン女優の演技の巧さであった。イヴの棄てられる妻の心理的な恐怖と苛立ちを具現化したジュラルディン・ペイジには、驚き感服する。「白い肌の異常な夜」の怖い女性のイメージの、単にキャリアを積んだ女優さんと気にも留めていなかったが、この演技で考えを改めた。手で眉間を摩る仕草が印象的である。生きることに前向きで人生を謳歌するパールのモーリン・ステイプルトンの抑制の効いた演技は、流石に素晴らしい。「大空港」で大好きになった女優さん、期待を裏切らない。E・G・マーシャルとダイアン・キートン含め、映画以上に演劇の楽しみ方が上回る。それでもアレンの演出で特筆しなくてはいけないのは、録音のリアリティ効果。ダイアン・キートンが髪を梳かす音、イヴが部屋の隙間にテープを貼る音、教会のキャンドルが壊れる音など、日常にある生活の音を丁寧に拾い、映像の表現力と並列に使われていた。
1979年 4月17日 ニュー東宝シネマ2
ジュラルディン・ペイジに関しては、後にジェームズ・ディーンと交友関係があったと知る。リー・ストラスバーグのアクターズ・スタジオでは、最古参の演技派女優であったようだ。私個人の勉強不足で認識が甘かった。若い時期に作品に恵まれていたなら、複数回オスカーを受賞していて不思議ではない。それくらいの女優さんですね。
眼鏡の彼女には4年後に「ガープの世界」で再び会えることに…
公開当時に印象深かったので、
ウディ・アレン作品の中でも
最も再鑑賞したかった映画だったが、
現代と異なり、当時は簡単に再び観れる環境
はなく、今日まで延び延びになって
しまっていた作品だ。
「アニー・ホール」の次作品にしては
打って変わって重々しいテーマの映画で、
同じ監督の作品とは思えない位だ。
アレン作品の中でも心惹かれていたのは、
解説によるとベルイマン調を狙ったと
あったので、
少しベルイマンをかじった者として
共通性を感じたためだったかも知れない。
インテリアのプロとしては完璧でも
周りへの思い遣りも無く、
しかもその好みを押し付けられては
家族にとっては迷惑千万だが、
そんな権力的な振る舞いに家族はそれなりに
反抗するものの抗しきれず、
悶々としているのは
ヨーロッパの臭いや日本的な感じを受ける。
米国イズムだったら、
次女の強い叱咤が母の死の引き金になった
ものの、普段からもっと強い自己主張で
反抗しそうなものだ。
ウディ・アレンはどちらかというと
ヨーロッパ気質に近く、
それがヨーロッパを舞台にした名作が
後年に多い理由ではないかと
勝手な想像もしてしまう。
さて、この映画、
ウディ・アレンの中では好きな作品だが、
ラストシーンで
母が突然現れて入水するラストの唐突感と、
問題を全て母の気質に起因させたのは
少し底浅い印象を受ける。
ロバート・レッドフォード監督の
「普通の人々」もそんなイメージがあった
ことが思い出される。
また、「アニー・ホール」に続いて
この作品でも精神治療や薬物依存の場面が
出てきたが、彼の作品の中で
繰り返し描かないといけないほど、
日常的なことなのか、或いは徹底して
皮肉りたい事象なのか、私には謎のままだ。
ところで、この作品で心惹かれた次女役の
“メアリー・ベス・ハート”
だが、4年後により素敵なイメージで
「ガープの世界」で会えることになったのは
嬉しいばかりだった。
眼鏡を掛けた女優としては最初の
スクリーンの恋人だったかも知れない。
誰が悪いわけでも
現代でも広告や女性ファッション誌にありますよね。ワーキングマザーでありながら、家も美しく容姿も美しく頭は良くて家事は完璧。この息苦しさよ。
この『パーフェクトマザー』を女性に求める風潮は、アメリカの方が早かったのでしょうか?私が幼い時は、こんな感じじゃなかったと思うのですが、真面目な女性はノイローゼになりますよね。人の気持ちも環境も変わるものだし、決して母親が悪いわけではないのですが。『パーフェクト』を求められる女性の生きづらさを感じました。
心のなかのインテリア
ウディ・アレンのダークサイド ウディ・アレン映画におきまりの、美人...
インテリアはそこに「住む人」のためにあるもの。
都会派コメディーを製作して来たアレン監督が、敬愛する巨匠ベルイマン監督にオマージュを捧げた心理ドラマ。精神を病んだ母親と3姉妹の確執は、ベルイマンの『秋のソナタ』や『叫びとささやき』を想起させる。表面的には互いを気遣いあう「家族」だが、その心底には、それぞれの愛憎が凝っており、その「怒りや哀しみ」を、モノクロに近い抑えた色調と、音楽の変わりに波の音をBGMにした静かかつ哀しくも美しい画面で表現されている(余談だが、アレン監督は登場人物のアングルもこだわり、ベルイマン監督の『仮面 ペルソナ』のアングルそのままを使っている)。
完璧主義の母親に脅威を感じながら育った3姉妹は、母が精神を病んでからも、独裁下から抜け出せない。それでも、長女は「才能」に恵まれたため、「個人」としての存在を認めることができているし、才能はないが、「家族」から遠く離れたところで暮すことによって、「家族」の「呪縛」から逃れている三女は、かろうじて自分を見失わずに済んでいる。しかし、近くに住んで母の面倒を見ている次女には逃げ場がない・・・。完璧な人生を歩んでいたはずの母に、唐突に訪れた夫との別居。夫が自分から離れていった理由が「解らない(解りたくない)」母は精神のバランスを崩す。その母に、まるで腫れ物にさわるように接する家族たち。この家族の「危うさ」が、個人の「危うさ」へと繋がるのだ。本音では付き合えない関係なのに、家族であるという矛盾。いや、家族だからこそ本音を言い合えない。姉妹が不幸である故に、姉妹のパートナーも不幸になる。ここに登場する人々は不幸の連鎖で繋がっている。その鎖を断ち切れるのは自分自身の「意識」だということを誰も気づかないままだ。
父の再婚という新たな出来事によって、ついに爆発する家族たちの「叫び」。娘が心情を吐露することによって、結果的に母は「死」という逃げ道を選んでしまう。しかし、この悲劇のラストシーンと重いテーマの中、私はある「希望」を見出せた。ベルイマン作品では、「呪縛」を解き放つのは「自分自身」なのだが、アレン作品では「人の優しさ」がキーポイントになっている。まずは、三女の無邪気さ。三女は長女の夫に対していつも親しげに接していたため、妻との仲がギクシャクしていた夫(デキル妻をもった男のコンプレックス)は、三女を自分のものにしようとする。確かに男に「ブーツを脱がせてくれ」などと頼むあたり、”誘っている”と思われても致し方ない。男を非難することはできない。しかし三女に関しては、それらの行為は純粋に義兄としての愛情表現にすぎなかった。私は、長女の夫が三女をレイプしようとして未遂に終わったことを心からよかったと思う。このレイプ(いや、レイプではなくて、たとえ合意の上でのセックスでも)が実際に起こってしまっていたら、この一家は、ますます深い呪縛にがんじがらめにされてしまったことだろう。
さて、本作で、この家族(特に次女)に救いの手を差し伸べるのが、父の再婚相手。ただでさえ、病気の母を見捨てて、父が再婚することにショックを受けている次女だが、この再婚相手というのがおよそ納得できる人物ではなかった。完璧だった母に比べて、それほど美人でも若くもなく、ガサツで下品で教養もない。何故母より数段も劣っているこの女を、父は選んだのか?さらにこの女は、インテリアデザイナーである母が選んだ完璧な(無機質な)部屋のインテリアを変えようとしたり、不注意で花瓶を割ったりする。しかし、次女が、海へ入った母を引き止めようとして、溺れた時、必死で人工呼吸をして助けてくれたのは、彼女が蔑み、思わず意地悪を言ってしまったこの女だったのだ。
この「溺れた人を助ける」という、人間としてあたりまえの行為の力強さに改めて感動を覚えた。自分を嫌っている相手に対しても、迷うことなく行なえる「本能」の力強さ。この「プラスのパワー」は、家族の呪縛によって、自分自身や、周囲の人間の心までも見えなくなってしまっている次女の「マイナスのパワー」を大きく上回るものだ。深く傷つき、悩み、混乱した彼女の心は、こんな「当たり前」のことで救われるのだ。
完璧に整えられた高級なインテリアは美しい・・・、しかし、インテリアはその部屋に「住む人」がいて初めてその役割を果たす。自分の完璧なインテリア(世界)だけを整えて、「他人の優しさ」を住まわすことができなかった母より、外の世界のゴタゴタを招きいれ、とっちらかって掃除が行きとどいてなくても、温かくて和める住処を持つ女を選んだ父の人間臭さを姉妹たちは理解し、やがては自分自身もそんな住処を持つようになるだろう
ウディは母親コンプレックス?
1978年アメリカ映画。93分。今年36本目の作品。ウディ・アレンにとって初のシリアスドラマ、らしい。さらに本作でのウディは監督と脚本に集中しています。
内容は;
1、娘三人が自立した家庭の夫はインテリアデザイナの妻に「試験的別居」をしようと持ちかける。
2、それから妻の体調は一気に悪化し、追い打ちをかけるように夫は別の女と再婚しようとしている。
3、両親の狭間に立たされた娘たちは、どちらの側につくこともできない。
本作のテーマを平たく言えば「家庭の絆の崩壊」ドラマ。家庭のために働き続けた夫は娘の独立を機にもっと自分らしく生きる方法を模索し、愛人をみつけ、そして妻にやんわりと別れ話をもちかける。個人的にもそういう家庭、知ってます。
娘たちはみんな、じつはかなり前から冷え切っていた両親の夫婦関係を無意識に感じ取っていたのか、とてもドライな性格として育っている。だからいざ両親が別居しはじめても、娘たちの反応は実に冷ややか。
そして、この冷ややかさが本作の軸となっています。それまでのウディの作品にあった人間に対する愛情のまなざしは、本作では見事に消え去っています。たしかに本作はウディ作品の中でもかなりの異色作なのですが、それでもやはりウディのタッチなのです。
物語は最後まで観ると不条理きわまりない。そして、その不条理さはわたしたちの本質に潜む「無責任さ」から生じている。恐らく、これが本作のポイントだと思います。
終盤でウディはちょっとしたシェイクスピア的なタクトを振るい、家庭の絆を運命論的に演出しますが、それが不条理さと見事に対立してなんとも言えない気持ちになるんだな。
気持ちは沈むのだけど、知って良かったんだろうなって感じのメッセージでした。
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