「ダダイスムの流れを汲むシュルレアリスムのアバンギャルドにいた自由人ブニュエル監督の黎明」アンダルシアの犬 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
ダダイスムの流れを汲むシュルレアリスムのアバンギャルドにいた自由人ブニュエル監督の黎明
鬼才ルイス・ブニュエル監督が28歳の時に発表したシュルレアリスム(超現実主義)の代名詞的作品。全体を通してストーリーに脈略は無く、奇怪で不思議なシーンをつなぎ合わせた短編映画だが、歴史に遺る程に評価される。その理由の多くは、その後ブニュエル監督がメキシコ、アメリカ、スペイン、フランスと変遷しながら多くの名作を創作し、強烈な個性を確立した巨匠になったからだと思う。共同脚本にはシュルレアリスム画家の24歳のサルバドーリ・ダリが加わり、一つひとつのショットが非現実的な世界観を構築している。ファーストシーンの女性の眼球が剃刀で真横に切られていくショットは、男性が見上げる満月に細い筋の雲が流れる夜景からイマジネーションされている。この目を覆うような肉体の痛みが姿形を変えながら連鎖して、時と場所をも自由自在に飛躍していく。時間で見ると最初に8年後に行き、次に16年前に戻る。これは、シュルレアリスム運動が始まった1920年頃と偶然にも符合する。それはまたシュルレアリスム映画が、第一次世界大戦に対する抵抗として生まれたダダイスム(無意味)から始まったアバンギャルド=前衛映画の流れを汲んでいるという事だと思う。既成の秩序やそれまでの常識を否定して、戦争を起こした社会に警鐘を鳴らす芸術家の抵抗運動と捉えて良いのではないだろうか。
切断された手首は、路上に放置され杖でつつかれる。それを大事そうに箱に仕舞った者は、車に轢かれてしまう。また男の掌からは、土に埋もれた人間のように蟻が湧き出てくる。女に強引に迫る男の欲望と女の抵抗。その男は血を流すロバと足の取れたピアノと聖職者風男二人をロープで引いて威嚇する?。また争う男がピストルで撃たれて倒れると、森にワープして見知らぬ人たちに抱えられ運ばれる。部屋のドアには気味悪い蛾が張り付いて、よく見ると背に髑髏模様をしている。女が口紅を塗り直すと、欲望に飢えた男の口が変化する。そして怒りながら部屋を離れる女は、海岸に出て別の男と恋仲になる。だが、春になると二人は・・・・・
こんな風に下手な表現の文字で羅列しても、映画を観た印象には遠く及ばない。言葉や映像のイマジネーションはひとりひとり違うし、それを相手に伝えるには物語性が必要だからだ。だからこそ、この映画は百聞は一見に如かずの映画になっている。観て感じる感性やイマジネーションの思考訓練には最適の前衛作品だと思う。
この映画の頃の若いルイス・ブニュエル監督は、アナキズム(無政府主義)に心酔していたという。国家権力や宗教の権威に疑問を持ち、個人の自由を最優先する価値観は、ブニュエル監督の経歴と、観た数は少なくも作品から充分想像できます。1910年代から1920年代のサイレント映画は、第一次世界大戦の世相を反映した社会の激変期にあり、ダダイスムやシュルレアリスムの前衛映画が生まれた時期でもありました。個人的には、44年前のフィルムセンターで観た映画に、ドイツのハンス・リヒター監督の「リズム21」(1921年)があります。当時は今でいうアニメーション映画にあたるのかと思いましたが、調べてみるとダダイスム映画のくくりで説明されていました。抽象的な図形、正方形や長方形の模様が拡大したり縮小したりするだけの短い実験映画です。嬉しいことに、それが今は他のリヒター作品と一緒にVODで観ることが出来ます。この「アンダルシアの犬」も見直すことが出来ました。伴奏音楽が、リヒャルト・ワーグナーの楽曲で意外と思いましたが、映像と対立しても違和感より面白さが増して良かったです。映像と音楽のコラボレーションはやはり良いですね。
芸術に上下は無いといつも思いますが、絵画と音楽を比べた場合、音楽が数段上を行くと思ったことはありませんか?
特に現代絵画や日本の水墨画を見た時、これならば、僕にも描けそうだと思う事があります。長谷川等伯の松林図屏風なんかそう思ってしまいます。
でも、プロコフィエフのピアノコンチェルト三番聞いて、例え、牛田○大君の演奏であっても、僕ならもっとも弾けるとは思いませんものね。正直なここだけの話です。
朝早くからすみませんでした。