劇場公開日 1974年9月26日

「パゾリーニ「生の三部作」最終作。残虐で酷薄でピーキーな、アラビアン・ナイトの「怖い」世界。」アラビアンナイト(1974) じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0パゾリーニ「生の三部作」最終作。残虐で酷薄でピーキーな、アラビアン・ナイトの「怖い」世界。

2022年11月23日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

ぴあフェスのパゾリーニ特集上映京都編、鑑賞三本目。
いわゆる「生の三部作」の完結編で、イタリア、イギリスときて、アラブの艶笑譚が題材に採られる(世界三大艶笑譚というらしい)。
著名なシンドバッドやアラジンの話は一切扱われず、男と女の情念の織り成す「奇譚」がイレコ構造で何本か紹介される。
艶笑譚とはいっても、基本おおらかで陽気なノリだった『デカメロン』や『カンタベリー物語』と比べると、ずいぶんと味わいが異なる。
より、どす黒く、えげつないのだ。

とにかく、西欧以上に、アラブ世界においては、女性の置かれている立場が過酷だ。
簡単に奴隷として、売られる。犯される。殺される。ひどい扱いである。

それゆえに、虐げられた女性側からの復讐と反撃もまた、過酷になる。
時に女たちは連帯し、非道を働く男たちに一泡吹かせるのだが、女をかどわかした男も、監禁して性奴隷にした男も、一発で磔刑にされていて、なかなかに凄惨だ。
一言でいえば、西欧世界より、「命が軽い」。

さらに、アラブ世界では、物語構造自体、なんだか理不尽に歪んでいる。
囚われの王女を助けにいく男と赤い魔人の話は、その際たるものだ。
なんだ、この救いのないバッドエンドは……!
ヨーロッパ的な因果律や道徳律から離れた物語は、通り一遍の思惑や予想をはるかに超えた自由な進行で、われわれを思いがけない終幕へと連れて行ってくれる。

パゾリーニは、語り口も変えてきている。
短編をシームレスにつないでいた前二作と異なり、核となる長編に短い別のエピソードを挿入する形をとっているのだ(語り部としてのシェエラザードの存在は、『デカメロン』の10人の貴族同様、きれいさっぱり消し去られている)。
すなわち、放浪する少年マスターと、王となった女サーヴァントの別離と再会の物語を軸にして、そこに二人と出逢ったさまざまな人物の体験談や、巻き込まれる奇禍をさしはさんでいく構成だ。
この結果、完全に「ネタ映画」として成立していた前二作とちがって、ちゃんとした「幹」の物語のあるまっとうな「劇映画」に仕上がっている。

色彩設定については、前二作が、イタリア・北欧のルネサンス~バロック期絵画にソースを求めていたのに対して、アラブを舞台とする本作では、やたら赤茶けた色調を採用している(フィルム上映だったから、経年劣化による部分もあるかもしれないが、それにしても赤っぽい)。
総じて、舞台美術やロケーションには妥協を許さず、かなりお金をかけて壮大な映像を成立させている。前二作と異なり、魔人の出てくる回で、ちょっとしたSFXも導入される。

ー ー ー ー ー

ただ、『カンタベリー物語』と比べて面白かったかと言われると、個人的にはちょっと微妙かなあ……?
まずは、長編映画としての体裁が整った分、素人に無理やり演技をやらせている弊害が目に付くようになった。出演者はパゾリーニの指示に従って、笑ったり泣いたりしてるのだろうが、それぞれ感情表出がやたら唐突で、観ていてかなりの違和感がある。
とくに主役のふたりは、女奴隷も主人の少年も、カメラが切り替わるたびにめそめそしたり、高笑いしてたり、しょうじきかなり気持ち悪い。
それと、べつに差別的な意図はないのだが、純粋にキャラクターの顔の見分けがあまりつかないので、誰がどこに出ていた誰だったか、結構ごっちゃになってしまった。
あとやっぱり、全体に話がじめっとしてるというか、嫌あな気分にさせられるネタが多くて、観ていてダウナーな気分になっちゃうんだよね。
なにせ、あのパゾリーニにとっての天使ニネット・ダヴォリくんまで、あえなく「ちょん切られちゃう」ような、救いのない映画なのだ。赤鬼フランコ・チッティにダルマにされる王女様の話も、キャラの扱いがあまりにひどくて、会場で客から変な声があがったほど(唐突に始まるスプラッタ描写!!)。少なくとも前二作のように、へらへら笑ってみてはいられない。

とはいえ、彼の『豚小屋』や『ソドムの市』につながる感性の発露であると考えれば、「生の三部作」とパゾリーニらしい「えげつない映画」の橋わたしになる映画といえるのかもしれない。

じゃい