「ベルトルッチと階段」暗殺の森 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
ベルトルッチと階段
乳白色のブルーを基調にしたパリの撮り方が美しい。
セーヌ河畔のメトロの高架は数々の映画に登場するロケーションだが、この作品でもサスペンスに満ちたシーンとなっている。高架下の道路を走るたった一台の車。上を走るメトロからは人の気配を感じられない。規則正しく並ぶ鉄骨の橋脚が言い知れぬ緊張感を謎を深めている。
魅惑的なパリの景色は他にも登場する。
エッフェル塔(を臨むシャイヨー宮の広場)や(作品中ではホテルに改装されている)オルセー駅は20世紀初頭のパリを象徴する建築物である。これらの建物は鉄を使用しながらもその意匠は柔らかな曲線を描いていることが特徴的だ。
これに対して、ジャン・ルイ・トランティニャン演じる主人公が「就活」のために訪れる国家機関の建物は直線だけで構成される空間を持っている。
自由な都市であるパリと、ファシズムの政権を立てたローマという二つの都市を建築を通して対比している。
ところで建築と言えばベルトルッチの作品を何本か観て気になることがある。登場人物の権力関係を階段で表すことが多い。
誰でもがすぐに思い浮かべることができるだろう、「ラストエンペラー」で幼い溥儀が紫禁城の階段を小さな歩幅で駆け上がるシーン。幼年の皇帝が、なんの迷いもなく、無自覚に権力の高みへ登っていく。
「シャンドライの恋」は階段の昇り降りが、一組の男女の愛と権力の関係を形作っている物語である。
この作品でも、主人公が彼の希望通りに秘密警察になるときには上の階に案内されて、階段を昇っていく。
また、初めて訪れたパリの恩師のアパートで、ドミニク・サンダがステファニア・サンドレッリを階段の上から見おろすことでこの二人の力関係が決まってしまう。
しかし、この作品でもっとも語られるべきは、外光が一方向から射す部屋で、昔の師弟が自意識について語るところではないだろうか。
恩師曰く、人は「光を当てられた自分の影を自分自身だと思っている。」のだと。人間は自分自身の全体の姿を見ることができない。鏡に映る姿や影は自分自身という実体ではない。そのことを分かっていながら、自分が何者であるかを知りたいと思うところが人間の弱さであり、だからこそ人は「影を作り出すための光を求めるのだ。」と。
この会話の最後に別の角度からの光が当たり、壁に映っていた主人公の影が消える。ファシズム政権が崩壊するラストを待つまでもなく、主人公の影であるセルフイメージが消失しているのだ。
さて、映画のラストはサンタンジェロ城、コロッセオといったローマの古い建物が出てくる。近代的な自我が現れるよりも前に建てられたその建築を舞台に、ファシズムに酔っていた者たちの自意識が溶解していくのである。
ジャン・ルイ・トランティニャンの変容ぶりが素晴らしい。前半のファシズムと自らを同化することになんの疑問も持たない、無垢な冷たい表情は、後半、その任務に苦悩し、やがてファシズムとともに崩壊していく。
建築で当時のフランスとイタリアの違いをうまく現していたなあと確かに思いました。イタリアは権力をひけらかすような広さと大理石の床が印象的でした。パリは(まだ)暖かい雰囲気でみんなで楽しめる時代と空間でした。プラトンの洞窟の比喩は実際に窓を閉め開けることで光と影の比喩がよくわかる場面でよかったと思いました