甘い生活のレビュー・感想・評価
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退廃さの前を泳ぐ
フェデリコ・フェリーニ監督作品。
ローマの上流社会の退廃さとそこで目的を失った人々が巧みに描かれている。
作家志望でゴシップ記者のマルチェロと婚約者のエンマの愛の行方が物語の筋としてはありながら、彼のパーティーでの出来事がたらたらと展開されていく。シークエンスの繋がりは希薄だが、その希薄さが目的もなくパーティーを転々とする上流階級の心情を表しているよう。
185分という比較的長尺な作品のため、私自身もたらたら観ていたのだが、ラストシーンでこの作品の凄さに気づかされた。
ラストシーンでマルチェロは波打ち際に打ち上げられた謎の魚の死体を目撃する。それは彼自身ではないか。目的もなく、網に引っかかり特に何もすることなく死んでしまった魚は、まさに今の彼の生き方と同じである。
その後彼は、浜辺で出会った美しい少女ヴァレリアと再会する。彼女はしきりに彼に何かを訴えている。だが波の音で声は打ち消され、マルチェロの耳には届かない。これは冒頭のシーンと重なる。
冒頭のシーンでは、マルチェロがヘリコプターでキリストの像を運んでいる。その時彼は、地上の女と会うのだが、彼の声はプロペラ音でかき消され、地上の女には届かない。彼はヘリに乗れるほどの優美さの中でまさに神のように振舞っている。だから彼の声は地上に届かない。
そんな地に足のつかない甘い生活を送り、その退廃さを魚の死体をみて気づいても時すでに遅し。もう彼には同じ地に立っている人の声さえも聴くことができなくなっているのだ。ヴァレリアは美しい。その背後に広がる海も美しい。だがその美しさを彼は受け止めることができない。あまりにも悲劇的である。
死体となって打ち上げられる前に、海を雄大に泳ぐ魚に私はなりたい。
ローマ上空を飛ぶキリスト像から海辺に打ち上げられた怪魚まで、フェリーニの映像マジックが炸裂する逸品
生誕100年を迎えたフェリーニの代表作。ローマの大通りに集いし豪華セレブやパパラッチ、それを取りまく野次馬たちを配しながら7つのエピソードが紡がれる。その中心にはマストロヤンニ演じる新聞記者。彼の目を通して描かれるこれらの出来事は、すべて当時のタブロイド紙を賑わせた実際の事件が基になっているそうだ。ストーリーとしての繋がりはないものの、時代の流れや社会の蠢きを大局的に活写しようとした壮大な目論見がうかがえる。
冒頭、キリスト像がヘリで吊り下げられながらローマ上空を寺院まで飛行する描写であっけにとられ、中盤の「マリア様を見た!」という少女たちとそれにあやかろうとする野次馬たちの一大騒動、それからトレヴィの泉で戯れる女優と主人公、さらには浜辺に打ち上げられる怪魚の描写に至るまで、幻想的で視覚的な面白さはとどまるところを知らない。フェリーニが映像の魔術師と呼ばれた所以を存分に堪能できる傑作だ。
退廃と享楽の日々
ローマはこんなに夜の社交が華やかだったのか。数年前に訪れたが、埃っぽい、遺跡だらけの垢抜けない都市だなと思っていたが、今でもこんな社交界はあるのだろうか?
マルチェロはなまじ容貌と要領がいいために、出身ではないが、上流社会の中でもうまくやっている。しかし本当の志は違っていて、心から信頼できる友、規範となるスタイナーを目指して、一度は文学の道へ行こうとする。その間に、様々な心の危機が訪れる。
父を見て老いという哀しみ、婚約者の愛は束縛ばかり、民衆は扇動されて盲目的で愚か、周りにいる金持ち女性は一夜限り、生き生きしたアメリカ女優に惹かれても彼女はろくでなし男優から離れられない、金持ち達との夜ごとのばかげたパーティー。甘い生活を堪能しながらも、マルチェロは本当はこれではいけないと思っていただろう。
しかし、スタイナーという金持ち連中とは正反対の、マルチェロのお手本としたい幸せそうな人物が、実は人生に絶望して自殺をする事で、マルチェロは本当に絶望する。
マルチェロは甘い生活から抜け出そうとして、もう、抜け出せなくなっていく。
しかし、どうしてこの映画に出てくる金持ちは皆、不満そうな、不幸そうな様子なのだろう。唯一、最後にパーティーをお開きにした館の主人だけは、事業が順調なのか、てきぱきとこんなバカげた生活とは無縁のようだ。
オシャレで粋な大人の甘い生活が描かれてるんだろうかと思ったら、絶望と享楽から抜け出せず、才能をつぶした哀しい男の話だった。人生はお金より大事なものが必要なんだな。
皮肉なタイトル
ごめんなさい。
何本かフェリーニは観てるのですが
私とは合わないようです。
主人公が退廃的で夢を感じない享楽的な生活に
うんざるするのと一緒に
私も倦んでしまった。
言いたいこともわかる。
そしていつも映像はきれいだ。
陰気な役の女性でさえ、
おおらかな太陽のような印象を私は受けて、
魅力的だと思います。
幻
私達は本当に上流階級に憧れているのか、それともメディアによって憧れさせられているのか、そんなことを思いました。上流階級の退廃は、いつの時代でも普遍的なことですね。
1960年代の作品はほとんど鑑賞できていないので何とも言えないのですが、フェリーニ作品はいつもどこか幻想的に感じます。作品中の狂乱も幻に思えたのですが、生きているのが幻なのか、虚構なのか、分からなくなりました。
不毛な生き方だから魅力的な映画になる。
ゴシップ紙の記者というパパラッチの片棒である主人公は、庶民から上流社会の人々と付き合う。夜のローマ、恋人、愛人、海辺のこと、父との関係、友人、殺人、その全てが退廃していく。キリストはなぜ答えない。風貌の変わった主人公は、あの海辺で再開した少女の言葉さえ聞き取れなくなる。波の音が強い。それでいい。男は変わった。
物語は幻想的であり現実的でもある。
フェリーニは何を描きたかったのか
はっきりとは分からないが
「崩れてゆく何か、見えない何か」
何度観ても答えはそこになる。
※
頽廃。 いろんな女と浮き名を流す記者が主人公。ちょこちょこ話はある...
頽廃。
いろんな女と浮き名を流す記者が主人公。ちょこちょこ話はあるが、どれもこれも面白くない。
・突如始まるマリア騒動。なんだった?
・父親騒動。これもまたなんだった?
・ラスト間際の乱交パーティー。危険。日本人もこの感覚で多数がレイプ被害に。もはや見ていて虫唾が…
ところどころにぶち込まれるセックスの話題。これが芸術というなら、私にはちょっとわかりませんね(笑)イタリアもフランスと似た感覚ですかね。互いの国民たちはあまりよく思ってないらしい(どっかで聞いた)のが面白いですね。
眠くなってしまったけれど…
同じような馬鹿騒ぎシーンが長すぎて、正直何度も眠くなってしまった。
しかし、これが、観終わってみると、いくつかのシーンがとても印象に残っており、けっこう考えさせられる。うーん、やはり深い映画だった、と思った。
まず冒頭のシーン。この場面は、この映画を象徴するシーンだと思う。宗教がその役割を果たさない世の中。金儲け主義と不道徳がはびこっている。その中で何も考えられない人びとが何も考えず今日を生きる。
シルヴィアという女優を追ってマルチェロはヴァチカンの塔に登っていくシーン。他の記者たちの脱落をよそに彼はひたすら駆け上がって、彼女と遂にてっぺんに辿り着く。勝利者だ。しかしそこには、あとは飛び降りるしかないと言わんばかりのどん詰まりがあるだけだった。
友人スタイナーの登場。彼の素晴らしく自制された様子は、少々辛そうで壊れるのを抑えている感じが伝わり絶妙だった。彼はマルチェロにとっては、救いの選択肢の候補だった。彼が子供を道連れにしたのは意味があったのだろう。
マルチェロの父親も登場する。父親はふつうに快活で、楽しく生きる術を知っているように見える。でも、あっけなく彼は帰ってしまった。親も、もはや行くべき道を示してはくれない。
そして繰り返されるエマとの口喧嘩。「母性の押しつけ」を嫌がるマルチェロ。エマの自殺未遂の勝手さ。彼女の愛は本当に愛と呼べるのか。
そして何と言っても最後のシーン。夜通しどんちゃん騒ぎをして疲れ果てたマルチェロと対比的に、少女の驚くほど美しくみずみずしい顔が眩しく映し出される。
さすが、深い映画だった。
しかし、それにしてもやはりどんちゃん騒ぎのシーンは退屈だったかな…
面白かった
初見時は大学生で、アニタ・エクバーグのシーンが終了してすぐに寝落ちしたため、後半を見るのはは今日が初めて。
上流階級連中の頭が痛くなるような乱痴気騒ぎシーンや、何かにつけパパラッチが群がる場面が、勘弁してくれと叫びたくなるほどしつこく描かれるが、一転、静かな美しいシーンで我に帰る緩急のバランスが良い。
主演級以外の脇役の女優たちが皆個性的でとても良かった。特にマルチェロの父親と仲良くなるダンサーの人が素敵。父が突然訪ねてきて、一晩過ごし故郷に帰るまでのシーンがとても良かった。
フェリーニが同時代のイタリア社会についてリアルに掘り下げて描くような作品としては、これが集大成だったのかなと思った。
甘くない「甘い生活」
①約3時間ある映画だが少しも退屈しなかった。さすがフェリーニ。ほぼ冒頭のマルチェロ・マストロヤンニとアヌーク・エーメ(美しい!)がパーティーを抜け出すシーンから『あっ、この映画良かも』と思った。②この映画を観ている間に頭を時々過ったのは「サテリコン」。あちらはキリスト教が伝わる前のローマの享楽と退廃。こちらはキリスト教が伝わった後のローマの享楽と退廃。冒頭の有名なキリスト像がローマ(正確にはバチカン市国)に運ばれる姿は、ローマにキリスト教が伝わる様を象徴している様。③作中、聖母マリアが見えるという(インチキ臭い)幼い兄弟を廻るエピソードが出てくるけれども、現代(当時ですが)のローマでは宗教さえニュースの種に成り下がっている。④不思議なことに、後年の渋い中年~老年のイメージが強いからか、この映画のマルチェロ・マストロヤンニには何故か分別のある大人の匂いが付きまとう。もう少し若くて腰の座らない感じの役者の方が良かったかも。⑤マルチェロの友人、「こいつ、死ぬな…」と思っていたら、やっぱり死にました。⑥特にパーティーに登場する女性たちのドレスやお召し物のデザインが良い。⑦ローマの社交界や上流階級の享楽的な日々がこれでもかと描かれるが、スクリーンから漂うのは空虚さばかり。ラスト、少女の呼びかけももうマルチェロの耳には届かない。⑧フェリーニらしい表現と記号(巨乳とか)を駆使して映画でしか描けない一大風俗絵巻。
毎日が忙しないのに極めて退屈、どこまで進んでも希望がない
おそらく、前知識一切なしで映画に詳しくもない人間にこの作品を見せたなら、長くて退屈で中身がない映画だ、と一蹴してしまうことだろう。
一方では、何十回も観続ける人間もいるだろう。
そのくらいに映画リテラシーが試される作品ではなかろうか?
しかしある意味、それで正解でもある。
ようは資本主義社会の栄華を突き進む新聞記者の日常から、なけなしの夢と希望が失われる、
それだけの話である。
彼の日常は華やかながらも愛がなく、ゆとりもなく、
信念もなく、退廃的な雰囲気に満ち満ちている。
彼は沢山の人と触れ合うが、誰とも絆を確かめられない。彼の唯一の善良さは、小説家への夢である。
それが話が進むに連れて完膚なきまで打ち砕かれる。
信頼していた小説家の不穏すぎる自殺によって、
あらゆる希望を見失う。
この資本主義社会のどこまでいっても満たされないという病理からは、どれほど満たされているように見える人間の奥底からも拭いさることはできない。
どこまでいっても横滑りで、円の周りをぐるぐる回り続ける。
実はこの世こそが地獄で、神曲の如く各シークエンス毎に地獄を巡っていただけなのだと、彼は気がつく。
最後の救いとなる、神曲でいうところの
「ベアトリーチェ」としての海の家の少女。
無垢の象徴である彼女が最後に対岸越しに彼に呼びかけるが、もう彼の耳に少女の声は届かない。
結局彼は最後の救いの手を振り払い、
もといた地獄の中に戻っていく。
主人公が最終的に救われないので、
正直びっくりした。
しかしよく考えれば代表作「道」でも主人公は選択を誤り取り返しのつかなさを噛み締めることになるし、「崖」などでもそうだ、メロドラマとしてのフェリーニに通ずる、そうこれも一種の作家性である。
刹那主義の行末の絶望、圧倒的孤独感、胸が痛くなるような人生の見たくない部分を描き、しかも主人公がそれを見過ごしてしまう。
それは成長譚では決してなく、寓話としての物語である。しかも救いはなにもない。
そんな、フェリーニ的退廃美の究極に位置する作品であるかもしれない。
個人的には、「8 1/2」的なカオティックでシュルリアリスティックだがどこか温かみのあるフェリーニが好みではあるのだが、まぁ本作を経ての行き詰まりから「8 1/2」が誕生し新境地に達する訳であるし、この圧倒的な冷徹さと芸術性、さまざまな象徴を多用する映画作家としてのインテリジェンスは本作が頂点に位置するのではないだろうか?
しかし様々な顔を持つ映画作家である。
繁栄を享受するローマとジャーナリストのニヒリズムで表現した、文明と幸福の齟齬
フェデリコ・フェリーニの名声を決定付けた巨匠の代表作。個人的には、「道」「8½」「アマルコルド」に次ぐ名作。フェリーニ独自のイマジネーションの映像美に、眼に訴える表現の魔力を堪能できる。1960年はローマオリンピックの年であったから、4年後の東京オリンピックで戦後の荒廃した社会から脱却した日本と同じく、近代化された都市ローマが記録されている。その繁栄の恩恵を受けた上流階級の贅沢で退廃的な享楽の場面が、あたかも動くパノラマ写真のように描かれていて圧倒的だ。ネオレアリズモの脚本家から映画監督になったフェリーニは、ここでは全編を貫くストーリーを説明的に構築していない。一貫しているのは、マルチェロ・マストロヤンニ演じる作家志望の新聞記者マルチェロの、乱れた生活から必然の不安気で精気のない暗鬱とした表情だけだ。有名人のゴシップ記事ばかりを追いかける仕事に満足していないマルチェロのどこか投げやりな生き方が、生きている実感を感じさせない。その対比で田舎から息子に会いに来る父親の溌剌とした好々爺も、結局はマルチェロに老いの姿を見せるだけだ。教会でバッハを奏でるステイナーに人生の指針を乞うが、突然の別れが訪れる。聖母様を見たという子供の奇跡に縋る人々の取材では、婚約者エンマが奇跡の樹の枝を握り絞めている。
急激な成長と繁栄の都市ローマの時代の最先端にいるはずの一人のジャーナリストのニヒリズム。贅沢な社交界を身を持って観察して抱く虚しさは、富と名声が全てではないことに過ぎない。それを得たと思われるフェリーニ監督自身の分身がマルチェロであるのだろう。また、ニーノ・ロータの音楽は中世ローマを舞台にした祝祭劇風なメロディーで、主人公マルチェロに寄り添うものではなく、彼の満たされない心をより浮かび上がらせる。この満たされない甘い生活に鞭を打つ自叙伝が、次作「8½」になる。
マルチェロ・マストロヤンニ35歳の美形とアンニュイな表情。アヌーク・エーメ27歳の凛とした気品と毅然とした態度。アニタ・エクバーグ28歳の豊満な肢体と色香漂う仕草に少女の様な声。そして、表情を変えないアラン・キュニーの神秘的な存在感。すべて素晴らしい俳優の演技である。エンマのイヴォンヌ・フルノーの嫉妬深い婚約者のやりきれない表情もいい。ヘリコプターに吊るされたキリスト像がローマ上空を飛来する冒頭から、謎の生物が浜辺に引き上げられる結末まで、イマジネーション豊かな映像を多種多様に表現した映画美術と、そこに蠢く人間の奔放で赤裸々な姿を映し出した演出力に魅せられるフェリーニ監督の傑作である。
主人公の夜遊び記録
この映画、あらすじによると、退廃したローマ上流社会が描かれてるらしいけど、こういう中身空っぽそうな遊び人ってよくいる。
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主人公は小説家になる夢やぶれて、ゴシップ記者をやってるから、常に女優やら娼婦やら美女が周りにいて、シーンが変わる事にその美女とイチャイチャ。
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女の人に至っては、外国人って見分けつきにくいのに、さらに白黒だからこのポスターの金髪の人以外全員同じ顔に見えたし。
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起承転結とかなく、約3時間ほぼパーティしてる映画です。
パパラッチ
冒頭、ヘリがキリスト像を運ぶシーンでは水着美女たちが手を振っている。みな腋毛を生やしていて、とてもセクシー・・・ドキドキしてしまう。モテ男ぶりを発揮するマルチェロと美女が戯れても絡むシーンがないので、単体のほうがエロチックだ。
ローマの上流階級の退廃的な生活。庶民の信心深さ。ゴシップ報道記者たちの無謀さ。カメラマンのパパラッツィオが「パパラッチ」という言葉の元になったことも有名な映画。
二人の聖母とか、交霊術とか、ゴシップネタにもこと欠かない。そういった週刊誌ネタなんて現代と変わりない。変なパーティも終盤に登場したり、俳優の名前がいっぱい出て来たりと面白いところもあるけど、3時間ずっと盛りあがらないままで見せられると疲れてきます。
ラスト、海岸に打ち揚げられた怪魚と、波打ち際の遠方で少女の声が聞こえないシーンは物語を収拾するのに素晴らしい部分なのに、この3時間の疲れを癒してくれるだけの効果しかなかった。
長い
巨匠の名作に敬意を払いたいけど、長くて疲れる。とびとびのエピソードで、終わりのない荒んだ社会を表現したかったのか?
60年も前の評価は、こういう社会風習・文化的なテーマだと陳腐化して着いていけなくなる。スタートとラストは良かったのだけどね。
わが身を照らせ
ローマを舞台に今でいうセレブたちの退廃的な日々を描いた作品。作品全体にアンニュイな感じが漂っていて、観ていて気持ちが暗くなっていく感じでしたね。こうやって客観的にこの人たちを見れば、「なんなんだ、こいつらは」とか「虚無的だな」とか、そんな言葉も簡単に言うこともできるんでしょうけど、でもじゃあ、自分はどうかって考えると、まぁこんなにも虚飾にまみれてはいないですけれども、やっぱりこんな無軌道な時間があったりもするんですよね。その意味では、妙に自分に突きつけられる映画だなって気がしました。
ラストシーンは・・・圧巻だったなぁ。物語のすべてを語っているような気がしました。
フェリーニ、そしてマストロヤンニ
ベルイマンは神を殺す
フェリーニは神とすれ違う人を描く
フェリーニ最高傑作と思います
アンソニークインが演じたあの男と
ネガポジの関係の男をマストロヤンニが演じます
二人とも際どく神とすれ違う
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