「『アポロンの地獄』に降り立った「天使」は、もしかして『テオレマ』の「天使」と同一人物なのか??」アポロンの地獄 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
『アポロンの地獄』に降り立った「天使」は、もしかして『テオレマ』の「天使」と同一人物なのか??
『アポロンの地獄』とは、なかなかうまく邦題をつけたものだ。
いや、世の中的にはむしろ悪評高い邦題であることは重々承知している。
原題の「オイディプス王」通り、衒わず付けときゃいいだろって言うんでしょ、わかるよ。
でも個人的には、単なる王道の神話劇だって言われるより、パゾリーニの『アポロンの地獄』って言われたほうが、なんか禍々しくて観に行こうかって気になるし、目を潰したオイディプスのカット辺りと合わせれば、いかにもイタリア残酷史劇でございって雰囲気も出るというものだ(まあ、ただのルチオ・フルチかデオダードの映画みたいでもあるが)。
今も神話の神々が息づく現代の古都で「聖」と「俗」が分かちがたく邂逅し、芸術と神話にアクションとエロスとホラーが混沌と入り混じってくる、イタリア映画特有の得体の知れないエグ味を、実にストレートに感じさせてくれるタイトルではないか。
何よりアポロンは、本作で登場するとおり、デルポイにおける「神託の神」だが、同時に「疫病の神」でもあり、「理性の神」でもあり、太陽神ヘリオスの習合神でもある。
全編を通じてギラギラと照り付ける灼熱の陽光のもと、自らの衝動的な暴力性と、背負った抗いがたい運命の重圧、そして「知ることへの欲求」に食いつぶされた一人の男の味わう悲劇。広がる大地には、疫病に倒れたテーバイの住人の無数の死体が散らばる。
それはまさにアポロンによって堕とされた、真昼の地獄であった。
(そういや、アポロンは「芸術の神」でもある。まさに「映画」という芸術に、パゾリーニが引き込んだ「地獄」という意味でも、これはなかなか的を射たタイトルなのかもしれない。)
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映画としては、このあいだ観た『王女メディア』のほぼ姉妹編(というより、兄弟編?)ともいうべきテイストだった。
ギリシャ神話を題材にとる、史劇・神話劇としての構成。
チャチさと考証感を併せ持つ、独特の舞台・美術・衣裳の感覚。
別時空の話をつなげたり、幻視をスキームレスで取り入れたりする難解なナラティヴ。
悲鳴と絶叫と長広舌の語りによって成立する、演劇的なダイアログ。
神話の舞台として選ばれた、特異で奇怪な中東のロケーション(カッパドギア/モロッコ)。
そこで擬似ドキュメンタリー風に展開される原始宗教じみた古代の儀式(祭事/葬礼)。
古代蛮族の音楽として援用される日本の神楽・能楽・謡曲(モーツァルトは『テオレマ』とかぶる)。
そして、語られるのは、横溝正史的な因縁と業と宿命に彩られた、血腥い「肉親殺し」の物語だ。
ほとんどやっていることは『王女メディア』と同じで、どちらかというとその男性版といった感じ。
むしろこちらのほうが先だから、まずは自らの人生とコンプレックスをそのまま投影させうる題材として『オイディプス王』を映画化して、その女性的な補完企画として『女王メディア』が企図されたということか(こちらで人生とコンプレックスをヒロインにそのまま投影させられているのは、主演のマリア・カラスその人である)。
パゾリーニのフィルモグラフィを観ていると一定の「傾向」があることに気づく。
まずはイタリアの貧困層を題材に採った『アッカトーレ』と『マンマ・ローマ』があって、聖書のマタイ福音書を忠実に映画化した『奇跡の丘』を撮る。で、ギリシャ神話から材を採った『アポロンの地獄』と『王女メディア』があって、そのあいだに現代を舞台としたキリスト教の奇跡にまつわる『テオレマ』と、時空を超えてカニバリズムを扱った『豚小屋』。そのあと、「生の三部作」『デカメロン』『カンタベリー物語』『アラビアン・ナイト』が来るわけだが、これらはルネサンス期を代表する説話集2作(イタリア&イギリス)と、その祖型となったアラビア説話集が原作である。
そして最後にマルキ・ド・サド原作の『ソドムの市』。
要するにパゾリーニは、人間の「聖と俗」、「正統と異端」、「古代と現代」を常にテーマの中核に置きながら、「イタリアのインテリ層から見たヨーロッパにおける文学史の核心」を「聖書」「ギリシャ神話」「ルネサンス」と辿ってきていることがわかる。
あれ、だとしたら『神曲』が抜けてるよな、と思って試みに「パゾリーニ×神曲」で検索をかけたところ、未見の『ソドムの市』がヒットしてきた。Wikiによるとこの作品、サド原作ではあるのだが、なんとその構成はまさにダンテの『神曲』のそれを借りているらしい。ね、やっぱりねえ。
こうして、仮説が傍証によって立証されるというのは、実に気持ちのいいものだ(笑)。
パゾリーニのなかでは、男性主人公のギリシャ神話の代表が『オイディプス王』だったわけだが、これはおそらく彼に限ったことではないだろう。
エディプス・コンプレックスの語源ともなったこのソフォクレスによる戯曲は、さまざまな文学や映画の祖型となった、古代におけるもっとも有名な物語のひとつである。
もちろん、本作が「母親への熱狂的な愛慕と、父親に対する嫌悪、および父親から自分に向けられた憎悪」というパゾリーニ個人の問題を客体化する大きなよすがだったことは、言うまでもない。
ただそれ以上に、『オイディプス王』は、「父権社会」と「運命論」というヨーロッパの抱える特異性の中核に位置する物語でもある。
パゾリーニとしては、ヨーロッパ文化の淵源を辿っていくなかで、どうしても避けては通れない題材だったのではないだろうか。
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映画としては、正直『テオレマ』の大爆笑必至の「性のテクニシャン」猫にマタタビスペシャルや、『王女メディア』の追い詰められた女の狂気と悪夢のような子供殺しの迫力に比べると、少々面白みに欠くのは確かだ。
まあ、面白みを求めるような人は端から見ないという意見もあるだろうが、芸術映画でも面白いに越したことはないと僕は虚心に思う。
とくに前半、オイディプスがデルポイに旅だってから、ライオス王一味を各個撃破し、中盤のスフィンクスと闘うあたりまでの展開が、あまりに淡々としているうえにテンポ感が退屈で、何度もふっと意識を持っていかれてしまった……。
デルポイでぶっ飛んだ被り物をつけた呪術師(全然、ギリシャ神話感がなく、むしろ古代呪術のマージナル感があるのは、『王女メディア』と同様)が出てきて託宣を述べてたのと、テーバイでパプアニューギニアの精霊みたいな藁籠を被った水木しげる的スフィンクスが出てきて、いきなり撲殺されてたのは覚えているのだが、ヤツがあの有名な謎々をちゃんと出していたかどうか、どうにも記憶があやふやだ……。
オイディプスがテーバイの王になって、街に疫病が流行りだして以降は、かなり物語も濃密になるし、がぜん会話や感情の表出が増えるので、ほぼほぼスッキリした頭で楽しく観ることができた。
オイディプスの物語自体は承知していて(何で初めてちゃんと知ったんだったっけ? 笠井潔の『オイディプス症候群』?)、概ねほぼ戯曲通りの内容だったと思うが、どちらかというと、前半で出てくる変な羽根の生えてるロンドン騎兵隊みたいな帽子を被ったオイディプスとか、後半で長大な付け髭つけて王の威厳を保ってるオイディプスとか、プリミティブな呪術性を身にまとった「非西洋的」「異教的」なファッションのインパクトの方が大きかった。
あとは、『王女メディア』における生贄祭祀シーンがすばらしかったのと同様に、疫病で死んだ者たちの火葬シーンが極め付きに美しかった。こういうモンド映画的な「異境の風俗」のフェイク・ドキュメンタリーをやらせると、パゾリーニのセンスはすこぶる抜群だ。
『王女メディア』の感想でも書いたとおり、パゾリーニがギリシャ悲劇を映画化していた60年代後半というのは、ヤコペッティに代表されるモンド映画(猟奇系モキュメンタリー)の全盛期に当たる。
パゾリーニ自身、1961年には作家のアルベルト・モラヴィア夫妻とともにインド、ケニアを旅行し、さらに翌1962年から1963年にかけてもアフリカの各国を単身で訪れている。彼はまさに「異境」に抗いがたく誘われ、現地住民の土俗的風俗に心惹かれた「ヤコペッティの時代」の文化人だった。
パゾリーニにとって、古代ギリシャとはヨーロッパ西洋の始原であると同時に、異端異境の「マージナル(辺境)」でもあったのだ。
それと本作は、モンド映画的な「ショック演出」においても、インパクト十分である。
残虐性、暴力性、人体破壊、グロテスク、スプラッタ。
パゾリーニは、リアリズム演出の受容と合わせて、こういった血まみれのホラー的要素を、臆面もなく取り入れた作家だった。
『王女メディア』の斧による人体解体ショーに先駆けること数年、彼は『アポロンの地獄』において、凄惨な王惨殺シーンと、疫病に犯された死体の直接描写、首を吊ったイオカステの死体描写、そしてあの有名な「目つぶし」による衝撃の人体破壊描写を敢行している。
67年という製作年から考えると、ハーシェル・ゴードン・ルイスによるゴア・ムーヴィーは既に存在するものの、一般映画の枠内でここまでの凄惨なスプラッタ描写を導入したケースは稀だったのではないか?
実際、われわれはすでに、ルチオ・フルチやデオダードの所業を「知っている」から、なんてことはなくのほほんと観ていられるわけだが、当時まだ「スプラッタ・ヴァージン」だった観客が、いきなり『アポロンの地獄』の目つぶしを見せられたら、どれだけ大きな悪夢的衝撃を食らったことか。
ここまで衝撃的で生々しい「眼球破壊描写」を敢えてパゾリーニが導入したのは、この目つぶし行為こそが『オイディプス王』という物語における究極の「キモ」にあたると判断したからだろう。
なぜ、彼は目を潰したのか。
戯曲のなかで、彼はその理由について、「もし目が見えていたなら冥府を訪れたときどのような顔をして父と母を見ればよいのか」と述べている。
それは、一連の悲劇を結局惹起してしまった自らを罰し、途中まで実現してしまった託宣を敢えて「完遂」させるために行われた行為だとも言えるし、「知らないでいいことを知ろうとし、見ないでいいことを見ようとした」結果、イオカステを自死に追いやった自らへの罰という部分もあるだろう。
それは同時に、愛する妻にして母であるイオカステの亡骸を見て、これ以上の忌まわしい物、耐えられない物を見ないで済むように、敢えて自らの視覚を封じた、ということでもある。すなわち、彼が狂乱のうちに敢行した「目つぶし」は、究極の「罰」であると同時に、究極の「救済」「慰め」でもあったのだ。
世間との結びつきを強制的に断つという、「罰」としての目つぶし。
世間との結びつきを今後断つことを許す、「救済」としての目つぶし。
この両義的な感覚器封印のギミックは、やがてシェイクスピアの『リア王』や、谷崎潤一郎の『春琴抄』、ジャン=ジャック・ベネックスの『ベティ・ブルー』など、様々な形で継承されることになる。
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あともう一点、めしいた後のオイディプス王の放浪の旅を支えるのは、アンゲロスという名の伝令であり葦笛の吹き手だが、名前から見るかぎり、彼はおそらくいわゆる『天使』にあたる存在なのだろう。
だからこそこの青年は、古代の放浪者を現代のボローニャにまで導くことができたのかもしれないし、最初に現れて二人で腰かけているのがマッジョーレ広場のサンペトロニオ大聖堂らしいのも、偶然ではないのかもしれない。
さらにいえば、どうもアンゲロスを演じる、若干間の抜けた青年の顔にどこか見覚えがあると思って、出演者名のニネット・ダヴォリで検索をかけたら、なんとこの青年、『テオレマ』ででんぐり返ししながら登場して愛嬌をふりまいていた、あの郵便配達夫役ではないか! しかも、あの郵便配達夫の役名もアンジェリーノ。そういえば、聖人テレンス・スタンプ(性人だけど)の到来を告げた彼もまた、告知役の「天使」として登場していたのであった。
もしかして、この二人って「同一人物」だったりするんじゃ? というか『アポロンの地獄』と『テオレマ』って実は世界観がつながっていたりするのか??
Talisman 様こちらこそ、ありがとうございます! まったく知識がないのですが、私生活でも彼はパゾリーニの天使だったのかしら(笑)。とうてい天使感のない顔してますけど…。