アデルの恋の物語のレビュー・感想・評価
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偏執的な恋の情動に燃え尽きたアデルの悲しく痛々しい物語
文豪ヴィクトル・ユーゴーの娘アデルの物語。その偉大な父の庇護の下で、偏執的な恋の情動に身も心も燃え尽きさせ送った特異な生涯を、トリュフォー監督が正面から受け止め追求した文芸映画。父親譲りの文才を持って現実から逃避した自分の空想の世界に生きたアデルの愛の燃焼は、日記や手紙の中で増幅され自己完結する。それは他者を巻き込み誘導する異常な状態まで突き進む。
愛する英国騎兵中尉アルバート・ピンソンを追いかけ、独り新大陸カナダのハリファックスに渡来し、完全無視されても彼のこころを自分のものにしたいアデルは、常人の想像を超えた行動をする。手紙で“ピンソン中尉と婚約しました”と父に伝えて、結婚承諾書を届けてもらい、それをピンソンに見せる。父ユーゴーは、かつてアデルと交際していたピンソンに対して好感を持っていなかった。それで結婚承諾書さえあれば、ピンソンの気が変わると思ったようだ。ところが、ピンソンは愛しているなら私に近づかないでくれと、アデルを突き放す。すると今度は、ユーゴーに結婚したと嘘を付き、そのことが新聞に報道されたことで、ピンソンは上官から叱責を受けてしまう。遂には催眠術師(実は偽物)を使って、ピンソンが自分に振り向くように仕向ける。この一途さ故の直情さには、唖然としながらも圧倒されてしまう。ここまで一方通行の恋愛映画は観たことないし、そもそも恋愛が成立していない一人芝居に過ぎないのに。しかし、ある令嬢と結婚したピンソンを取り戻すためその令嬢の父親に面会して、私は彼の子を宿して棄てられたとひと芝居打つまでになると、これはもう病気なのだと理解するしかない。海岸で出会ったピンソンに黙ったままお金を差し出すアデルのショットが、何とも痛々しく惨めである。
結局、ピンソンの所属する部隊がカリブ海バルバドス島へ移り、アデルもまたその後を追うが、そこでは誰が見ても精神を病んだ女性にしか見えない。おそらくアデルの気質には熱帯の土地は熱く、冷静さを取り戻すことは無かったのだろう。ピンソンに呼び止められたアデルは、無表情に何も語らず、ただ夢遊病者の様に通り過ぎていく。
トリュフォー監督は、この物語のエピローグにヴィクトル・ユーゴーの国葬シーンを入れた。アデルとの手紙のやり取りでは、父ユーゴーの手のアップはあるが顔は画面に出さない。誰もが知るあの「レ・ミゼラブル」の大作家を見せないこの演出は、アデルだけに集約した本編の語りをより印象付けることになる。それを証明するように、アデルを演じたイザベル・アジャーニが素晴らしい。フランス映画の女優としての存在感では、ジャンヌ・モローを受け継ぐ実力と魅力があると思った。この映画にあるのは、最後はトリュフォー監督のフランス文学者ユーゴーへの敬愛であり、女優イザベル・アジャーニ賛美である。彼女以外では、恋に燃え尽きたアデルの情念は演じ切れなかっただろうし、説得力も生まれなかっただろう。フランス映画でしか表現できない世界観を見せてくれたトリュフォー監督の傑作。
1977年 2月15日 池袋文芸坐
男性作家の文学の才能は、男の子より女の子に受け継がれると、遺伝の話で聞いたことがある。確かに、バッハやモーツァルト、ヨハン・シュトラウスでは男の子が音楽家になっているし、絵の巧さも親譲りを見聞きするが、有名な男性作家の子孫で名を成す男の人は、日本に限らずあまり聞いたことが無い。日本では、女性の作家や文筆家の父親が有名作家であることが多い様に感じる。この映画のアデルを視ると、ユーゴーの文学的才能を受け継いで溺愛されたのではないか、と勝手に想像してしまう。原作は、アデルの日記からヒントを得ているようだ。彼女の文才の想像力と表現力は優れていたが、それが人生を実のあるものにはしてくれなかった。そんなことまで考えさせる、愛と才能と人生について参考になる映画だった。
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