「19歳のイザベル・アジャーニの衝撃! トリュフォーが女性視点から描いたストーカー哀話。」アデルの恋の物語 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
19歳のイザベル・アジャーニの衝撃! トリュフォーが女性視点から描いたストーカー哀話。
僕がこの映画を初めて知ったのは、中・高校生のころに関西テレビの深夜にやっていた「CINEMAだいすき!」という特集上映枠だった。やたらマニアックなセレクトで、女優特集やホラー特集、自主映画特集なんかを敢行し、あの時代の夜更かし若年層を映画の世界に引きずり込んだ伝説の番組である。覚えてられる方も、きっといらっしゃることでしょう。
そのときの特集回のタイトルは、「異常心理学入門」。
前説でかかるテーマ曲は、忘れもしないクラウス・ノミ(ゲームブック『ドラゴン・ファンタジー』に出てくる「詩的魔神」の挿絵の元ネタ)の「Wasting My Time」だった。
他のラインナップを見ると『サイコ』『コレクター』『将軍たちの夜』『まぼろしの市街戦』『ネットワーク』『ファントム・オブ・パラダイス』『ユー・アー・ノット・アイ』といったものすごいもので、いま振り返っても天才的なセレクトだったと思う。
僕はこの特集回を通しで観ることで、本格的にサイコ・サスペンスの面白さと多様性、その豊穣な沃野に目覚めたのだった。
というわけで、これまで僕のなかでは、『アデルの恋の物語』は、トリュフォーの映画としてでも、恋愛映画としてでもなく、バリバリの「サイコ映画」として分類されていた。
今回改めて観て、思ったよりちゃんとまっとうに文芸映画してたんだな、と驚いたくらい(笑)。
話としては、古典的な「安珍清姫」のフォーマットをとる、女性ストーカー映画の「はしり」といっていいものだ。
ただ、通例『危険な情事』にしても、『恐怖のメロディ』にしても、男性目線でエスカレートしてゆく女性の要求とつきまといの恐怖を描き出すのが主眼なわけだが、本作の焦点はただひとり、ヒロインのアデルだけに絞られる。トリュフォーは、あくまで「女性側の視点」に立って、ストーキングのエスカレーションを描いてゆくのだ。
彼女のひたすらに一途で狂おしい愛は、病的で傍迷惑きわまりないけれど、あまりに純でぶれないがゆえに、つい観客としても感情移入してしまう部分がある。
それは、監督であるトリュフォー自身が、アデルのことを「ただの頭のおかしい女」とは見ず、全幅の共感と慈しみをもって描いているからに他ならない。
もうひとつ特徴的な点として、本作は必ずしも一般的なストーカーものにありがちなエンディング――男が滅びるか女が滅びるか――をとらない。
それはなぜかといえば、本作が「実話」をベースとした物語だからだ。
要するに、トリュフォーは「ストーカー女が出てくるコスチューム・プレイを作ろうとした」のではない。「刊行されたヴィクトル・ユーゴーの知られざる娘の日記を読んで、その驚くほど数奇で薄幸で報われない愛に捧げた人生に共感をいだいたから、実写化に動いた」のだ。その点では、『野性の少年』を撮ったときと似たモチベーションで挑んだ映画だといえる。
実話ベースだから、この映画は「実際にアデルに起きたこと」しか描かない。
だから、アデルの想い人はアデルに殺されたりしないし、アデルのほうが逆襲されて殺されることもない。「過去に溺死した姉を殺したのは実はアデルだった」といった、いかにもサスペンスらしい真相も出てこない。彼女はたしかに極め付きにエキセントリックな女性であるが、映画のジャンルが要請するほどの狂気や異常性を発揮しない。人を壊すかわりに、自分を壊してしまう優しさがある。
結果として、アデルは残された長い人生を、とある場所で、とある状態で過ごすことになる。
逆にいえば、この映画内で起きたことは、全て「アデルの身に実際に起きたこと」だ。
実在したのだ。このアデル・ユーゴーという女性は。
本当に、こんな数奇な人生を送った人がいたなんて。
しかも、それがあの『レ・ミゼラブル』の著者の娘さんだったなんて。
まさに事実は小説より奇なり、である。
本作がぎりぎりのところで、品のないストーカー・サスペンスに堕することなく、ある種の恋愛映画としての情感と、文芸映画としての画格を保てているのは、この「徹底的に事実だけに寄り添おうとした」製作姿勢と、「トリュフォー自身のアデルに対する全幅の共感」によるところが大きいだろう。
それとやはり、まだ当時19歳で、映画出演2本目だったイザベル・アジャーニの魅力と美しさ。なんといってもこれに尽きるのではないか。
まあ、凄い演技力だよね。本当にびっくりする。トリュフォーもびっくりしただろう。
彼女の力で、観客は否応なくアデルの応援団サイドに引っ張り込まれる。
本当に、こんなに可愛くて気品のある女性が、単身海を越えてまで自分の妄念を遂げたいというのなら、多少頭がおかしくても周囲だって応援したくなるってもんだよね(笑)。
実際、下宿の女将もその亭主も、銀行兼郵便局の窓口係も、書店員も、バルバドス島の女性も、みんなアデルに優しいし、愛に食いつぶされてゆく彼女をなじったり攻撃したりすることなく、やさしく親身になって支えようとする。
でも、アデルはひとりだ。
どこまでも、ひとりぼっちで、本当の意味では、決して誰にも心を開かない。
彼女が求めるのは、ただピンソン中尉だけだが、
その愛もまた一方通行で、ほぼ彼女のなかだけで完結している。
埋められない「あるべき自分」と「報われない世界」のズレ。
そこを糊塗するために、彼女は男を追いつづけ、噓をつきつづける。
その絶対的な孤独のなかで、彼女がすがるのが、「書くこと」だ。
彼女は書店でひたすら紙を買い、ひたすら日記を書きつづける。
口に出しながら、書いて、書いて、書いて、書いて……。
現代でも、こういう文系女子はいるよね。
なんとか書くことで正気を保っているというか、文章に軽く狂気を発散することで、ぎりぎり根本から壊れるのを回避しているというか、そういう人。
まして、アデルは、ビクトル・ユーゴーの娘だ。
文才は有り余るほど、あっただろう。
そんな彼女が理性と自我を削り取りながら書き残した日記が、やがてトリュフォーの目にとまって、伝記映画が作られる。これもまた、不思議な運命の巡り合わせだ。
トリュフォーのアデルへの共感の想いは、ロケ地の選択からもうかがえる。
アデルは、父親のいるガーンディー島を出て、カナダのハリファックス島まで中尉を追ってくる。彼女は、そのまま中尉の赴任先のバルバドス島まで彼を追いかけていくことになるから、結局まともな状態のままでガーンディー島に戻ることはなかった。
トリュフォーは、そのハリファックス島のロケ地として、なんとガーンディー島を選んでいる。
きっと彼は、アデルにガーンディー島の土を踏ませてあげたかったのだ。
せめて、ロケ地という形だけでも、彼女とガーンディー島とのつながりを作ってあげたかったのだ。
トリュフォーは、本作で古典主義に回帰したと言われる。
実際、本作において、実験性や即興性はほとんど感じられず、きわめてオーソドックスな絵作りと編集に終始している。そのぶん、イザベル・アジャーニの熱演に集中できるといえばそうなのだが、作家主義的な見方でいうと、少しクセが薄すぎて若干物足りない気もしないでもない。
ただ、作品内の「光」と、アベルの心の「闇」を反比例的に扱ってみせたのは面白かった。
すなわちこの映画においては、前半は夜のシーン、室内のシーンが多く、闇のなかでロウソクの薄明かりをあててアデルの顔を浮かび上がらせるような撮り方に専ら終始している。それが話を追うごとに作品内の光量が増していって、最後はバルバドス島(ロケ地はアフリカのセネガル)の灼熱の陽光のなかで幕を閉じるわけだ。一方、闇のなかで息をひそめて棲息していたころのアデルは「まだまともだった」。それが、陽の下に引きずり出され、眼鏡をかけて歩き回るようになると、彼女の心はいよいよ壊れてゆき、バルバドスの地で遂に●●するに至る。
黄昏と闇のなかでしか生きられない弱い夜行動物が、陽光に晒されてむしばまれていくかのような。そんな感じがした。
そういえば、インチキ催眠術師役って、このあいだ亡くなったヴァイオリニストのイヴリー・ギトリスだったのね! あまりにふつうに演技してたので、まったくきづきませんでした(笑)。