アッカトーネのレビュー・感想・評価
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「働いたら負け」なローマのろくでなしたちが紡ぐ、パゾリーニ流「貧者の聖人」の物語
「こうなったら、世界が俺をやるか、俺が世界をやるかだ」(アッカトーネ) たかだか一日仕事しただけで、大げさなんだよ、この虚弱男はwww 「働いたら負けだ」(アッカトーネの友人) 1960年代から、時代の最先端を行くネットミームがもう存在していたとはwww なんか、キャラや台詞が、今のニートの論法を先取りしてるんだよね(笑)。 いや、面白かった! 冒頭、アッカトーネと悪友たちのあいだで行われる奇妙な「賭け」。 「食べてすぐ泳いだら、消化不良で死ぬか死なないか?」 そのまま『ロゴパグ』の「リコッタ」にも変奏されて引き継がれるネタだ。 あまりに奇抜な問題設定すぎて(だって死ぬわけがないw)、実際に知り合いでそんな死に方でもした奴がいたのかいな、とも思ってしまうが、この「食べること=生きること」と「動くこと=働くこと」を「まるでかみ合わないこと」であるかのように扱う物言いは、たぶんなら、本作のテーマと密接につながっている。 すなわち、「人は本当に、生きるために労働しなければならないのか?」 最初に引いたのは、真人間になろうと鉄材運びのバイトを始めた主人公が、長年ヒモとして無為に生きてきた自分には、重労働はとても無理だと骨身にしみて放つ台詞だ(結局一日で置き引き犯にジョブチェンジする)。 『アッカトーネ』は、まさに『働いたら負けだと思う』という、世間的には嘲笑される「逃げ」の理念を真正面から「哲学」する映画でもあるのだ。 ーーーーー というわけで、ひさびさに国立映画アーカイブに赴き、パゾリーニの特集上映を観てきました。 まだ東京国立近代美術館フィルムセンターだったころに、当時パッケージのなかったマリオ・バーヴァの『血塗られた墓標』がここでかかるというので、仕事抜け出して観に行って、職場に戻れないくらいの衝撃を受けたのをよく覚えてる。 パゾリーニを観るのは、『テオレマ』『王女メディア』『奇跡の丘』『アポロンの地獄』についで、今年5本目。 今回の特集上映はオムニバスも含めた全作上映で、生誕100年を寿ぐ素晴らしい企画だと思うが、国立映画アーカイブとユーロスペースでそれぞれ一回ずつの上映で、しかも平日の昼間に集中しており、大半の回は基本、学生と定年退職者と有閑マダムとニートしか参加できない設定だ。 なお、国立映画アーカイブで日曜や夜に上映が設定されている『豚小屋』と『ソドムの市』は、かなり早い時点で完売となっていた。まあ、仕方がない……数本くらいは観たいと思うが。 さて、『アッカトーネ』(イタリア語で乞食)は、女にたかる「ヒモ」の話である。 本作の主人公ヴィットリオ(通称、アッカトーネ)は、本当に「何もしない」。 昼から飲んだくれている悪い仲間たちと、賭け事や喧嘩に興じて刹那的に生きている。 愛人として囲っている女に売春をさせて、そのアガリをかすめて生活する日々。 とにかく動かない、働かない。典型的なクズである。 で、売春婦としてこきつかっていた愛人(ナポリ人ヤクザの情婦)が、旦那を密告した見せしめにヤクザの手下に集団レイプ&暴行を受けてしまうのだが、彼女は日頃からおちょくられてムカついていた愚連隊にレイプ犯の罪をなすりつけようとして、逆に偽証罪で豚箱送りになってしまう。 金づるを喪ったアッカトーネは、新たなる売春婦として、金髪のおぼこ娘ステラに目をつけるが、この少女が驚くほどにうぶで純真な性格で……。 アッカトーネの「性根の悪さ」は、まあまあ本物だ。 女を食い物にし、人のものを奪い、騙すことに一切の躊躇がない。 彼の場合、貧困と生まれのせいで今はこんなになっちゃってるけど、ホントはいいところもあって……みたいな描き方は「一切」なされていない(笑)。真面目な観客からは、ふつうに「こいつ、マジでさっさと死ねばいいのに」と思われちゃいそうなキャラクターだ。 たぶん、『アッカトーネ』の映画としての「新しさ」は、そこにこそあるのだろう。 復興いまだしの敗戦国の、荒廃した貧民窟を舞台に、浮かばれない下層民の真実を描くというときに、一番オーソドックスなのは、たとえばヴィットリオ・デ・シーカの『靴磨き』や『自転車泥棒』のように、「主人公たちは必死で働き、必死で生きようとしているのに、劣悪で貧困な環境がそれを許さず、どんどん追い詰められていく」物語ではないだろうか。 だが、パゾリーニは、敢えてその「逆」を行った。 貧困のなかで「働かないと宣言し、女から搾取する側にまわった」ろくでなしたちを主人公に、しかも適度に陽気な青春群像として描き出してみせたのだ。 そのありようは、ネオ・リアリズモを継承しながらも、どこかノワーリッシュで、ピカレスク風だ。 アッカトーネの描き方とラストも含めて、ゴダールの『勝手にしやがれ』(60)とどこか近しい空気があると感じるのは、僕だけではあるまい。『アッカトーネ』のラストのセリフが「悪くない」で、『勝手にしやがれ』のラストのそれが「まったく最悪だ」ってのも、意味深な対比である。時期の近い映画だし、助監督のベルトルッチはよく知られたゴダール・フォロワーでもあるしで、もしかしたら実際に何らかの影響関係があるのかもしれない。よく知らないけど。 イタリアの貧困のリアルを描くのに、あえて「苦労している可哀想な民衆」を描かずに、「貧困を逆手にとって働かず悪徳にふける真正のクズ」を登場させ、それを「イタリア人の代表」であるかのように描いてみせたパゾリーニ。 ただ、ここには「もう一ひねり」がある。 個人的に観ていて、とにかく不思議だったのは、これがアッカトーネ『救済』の物語だったことだ。 これだけ尺の大半で悪行を重ねながらも、おそらくならアッカトーネは本作における「貧者の聖人」の役回りを果たし、ダンテ『神曲』煉獄篇のように、最後にはちゃんと救済されたと考えるべきなのだ。全編を通じて鳴り響いている、バッハの「マタイ受難曲」が、その証である。 おおよそロクでもないゴミ虫どもの、非道な女性搾取と犯罪の日々を描いているだけなのに、ひたすら「マタイ」が鳴り続けるせいで、なんだか場末の聖者の物語でも観ているような錯覚に陥り、なんとなく敬虔な気分にひたってしまうという、この不思議(笑)。 てか、デビュー作の時点で、「マタイ受難曲をかけることで聖性を暗示する」手法(『奇跡の丘』)と、「卑俗で猥雑な物語をダンテの『神曲』地獄篇&煉獄篇になぞらえる」手法(『ソドムの市』)は、すでに確立されてたんだなあ、と。 表面上はロクデナシのヒモ野郎の物語という体裁をとりつつも、キリストの腰衣を想起させる海パン姿で両手を広げて十字形をつくり川に飛び込むアッカトーネ(橋の欄干には十字架を担いだ大天使の像)とか、教会の平面図を思わせる太い十字形の穴から向こう側を覗くショットとか、十字架状に延びてくる影とか、本作が宗教的な含意をもった映画であることは、ほぼ間違いない。 無神論者の共産主義者だったとうかがい聞くパゾリーニだが、その割に『ロゴパグ』の一篇とか、『奇跡の丘』とか、『テオレマ』とか、しきりにカトリック的な主題に引き寄せられているのはじつに興味深い(ほんとはけっこうガチでクリスチャンだったりして)。 しかも、本作は「名うての悪党」が、「聖娼婦」=「聖なる愚者」に出逢って、魂の浄化を体験するという古典的なプロットをきれいに踏襲している。 ちょうど、戦後復興期を描くヤクザ映画なんかで、偶然知り合った遊女に恋着して、真人間になろうとするけど最後で殺られちゃう、みたいな映画とほぼ同じプロットだ。 その意味では、これってフェリーニの『道』や『カビリアの夜』とよく似たテーマ設定の作品だよな、とじつは観ながらずっと思っていた。 で、家に帰ってからネットを検索してびっくり。 なんと『アッカトーネ』はフェリーニ自身が撮るつもりでパゾリーニに脚本を書かせたものの、どうも自分の作風には合わないと判断して、企画をパゾリーニに譲った映画だったらしいのだ。 どうりで、つくりがえらくフェリーニの初期作くさいわけだ。 ちなみに、フェリーニが監督を譲ったうえに、プロデューサーまで下りてしまったために、困ったパゾリーニ(当時まだ映像を撮った経験がなかった)が「そういやアイツ、シネフィルだったよな」と声をかけて助監督に引き込んだのが、ベルトルッチだったそうだ。 ステラと知り合った当初、主人公は自分のことを「ヴィットリオ」の本名で呼ぶな、という。 「アッカトーネ」と呼べ、と。要するに彼は、意識的かつ露悪的な「悪」として生きている。 それから、ステラをブルジョア男に売りつけようとしたあと、自棄になって橋に上ったり下りたりしたあげく、顔を川につけて砂を一面に張り付けてみせる印象的なシーン。あれも彼の「悪」のペルソナが、きわめて自覚的なものであることを指し示しているのだろう。 その後、ステラの純朴と愚直にほだされて、「改心」をはかるアッカトーネ。 やがて彼は、「アッカトーネの葬式にヴィットリオとして出席する」夢を見る。 すなわち、過去の悪しき自分を、自らのなかで葬り去ってみせたわけだ。 いままで彼が重ねてきた悪行から考えれば、ずいぶんと都合の良い夢だと思うが、実際にこれで「憑き物」が落ちたと考えたほうが、ラストに至るまでの流れは理解しやすい。 ここで重要なのが、冒頭で引用される、ダンテ『神曲』煉獄篇のフレーズだ。 これは、煉獄から天使に連れていかれようとしているブオンコンテの魂を見た地獄の使いが、天使に「おい、天から来たお方、なぜ俺から横取りをする? ちょいと涙をこぼしたというだけで」と語るシーンからとられている(平川祐弘訳)。 そう、やはりアッカトーネは、あのラストにおいて「救済」されていると考えるほうが自然なのだ。 改めて、『アッカトーネ』がなぜ公開当時、イタリア国内で物議を醸したかを考えてみると、 ①戦後復興期のイタリアの貧困を描くのに、あえて清く正しい貧乏人の苦難を描かず、貧困すら食い物にして底辺での怠惰な生活に甘んじて生きるゴミどもを描き、それが「イタリア下層民の典型」であり「イタリア下層民の真実」だとして呈示した。 ②しかも、そのゴミどもすら、キリスト教的には「救済される対象」として半ば肯定的に描いた。すなわち、労働を是とする従来的な宗教観に反して、「働かざるもの」「搾取する側のもの」が、「死」をもって苦しく浮かばれない生から救済されたかのように見える映画を撮った。 という2点に尽きるのではないかと思う。 これは言い換えると、 ①イタリア人は、しょせんこの程度の民族である。 ②キリスト教は、しょせんこの程度の宗教である。 というふうに、イタリアの人たちはとらえ、彼の指摘を「挑発的」「反逆的」と受け取って、平常心を保てず、ざわついたということではないか。 逆に言えば、この逆説的で微妙に定型を外れた映画は、21世紀の日本人が観ても、十分に斬新で、刺激的だ。 ーーーーー しょうじき出だしは、あまりの素人芝居と、わざとらしい演出にこちらも引き気味だった。 なんでわざわざド素人に無理やり演技をさせて、一番うまくいったテイクを適当につないでいくみたいな、無茶な撮り方をするのか。 でも、観ているうちに、この「敢えて演技をつけることで骨抜きにされたネオ・リアリズモ」がなんとなく心地よくなってくるから、不思議なものだ。 悪友ふたりと、車上窃盗をもくろみ、枯れた花を満載した大八車を牽きながら、ローマの街を彷徨する終盤のシーケンス。 どこまでも映画的。そして、どこまでも詩的なシーンだ。 やるせなくて、貧乏くさくて、悲劇的。 でも牧歌的で、陽気で、屈託がない。 イタリア映画史上でも、屈指の美しいシーンだと思う。 靴を脱いだ悪友の臭気に、ころげまわるアッカトーネ。 観客がはじめてどっと笑う。 直後におとずれる、「悪の平和」の終焉。 観客が息を呑む空気が伝わる。 刹那的なラスト。 少し、おいてけぼりにされたような顔で、帰途につく観客。 うーん、やっぱり、いい映画だわ。
バッハのマタイ受難曲にまた遭遇!
「テオレマ」「王女メディア」では寝なかったがこれは少し寝てしまった。映ってるのはローマ郊外の埃っぽい地域で仕事もしない若いゴロツキ男達、売春婦。遠くには日本の戦後復興同様に団地がどんどん建築されてる、そんな頃が舞台。そっかー、1964年東京オリンピックの前はローマ・オリンピックだったのかー(と「いだてん」の世界に少し浸る)。そのドラマではまあちゃん(阿部サダヲ)の右腕役の松坂桃李くんがオリンピックの事前調査でかなり長いことローマに滞在する。桃李くんはすっかりイタリア男系イケメン=サングラス&金ネックレスといういでたちで帰国し笑った。主人公のアッカトーネもサングラスはないけどそんな感じのゴロツキ。 映画終演後、パゾリーニを大学での研究テーマとした野田雅夫さんのリモート・トークがありとても良かったです。イタリア映画初心者である自分にとっては情報量多く親切な説明でした。 「テオレマ」でも思ったのですが、中東みたいな荒野、一人の若い男、貧しいけど生き生きとした生活が壊され、野性味やキラキラした生命力が失われてゆく、その流れへの異議申し立てがパゾリーニのテーマの一つ・・・なんだろうか。まだよく分かんない。音楽の使い方はユニークというかいきなり感満載で不思議だ。ゴロツキや奇妙な主人公なのにマタイ受難曲が、テオレマではレクイエムが流れる。うーむ。アップもすごく多い。セリフは少ないけど凝ってる気がする。 パゾリーニの初めての作品「アッカトーネ」をスクリーンで見ることができたことをまず幸せであると思い、パゾリーニの著作や詩も読んでみたいと思った。
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