「「人は自分と違うものを認められない。拒絶し、畏怖する。それが戦争の始まりだ。」」劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者 碓氷さんの映画レビュー(感想・評価)
「人は自分と違うものを認められない。拒絶し、畏怖する。それが戦争の始まりだ。」
自分の映画半券やTwitterなどで記録されている限り一番新しい映画館で観たのはこの日この場所。
昼時で同い年のハガレンファンの子と観に行ったはず。
「爆音映画祭」でシャンバラやるから観に行こう!とそんなこと述べたのは驚くことに2年半以上前。青春の日々は瞬く間に過ぎ行く。
恐らく私の(現状での)人生で最も影響を受けた作品は何か?と問われたら間違いなく「2003年から2004年にかけて土曜日18時よりTBSで放映されていた『鋼の錬金術師』(以下水島版ハガレン)」と公言できるであろう。それくらいに影響を受けた。
水島版ハガレンは原作連載中のなか放映された。そのため、原作でいう6巻あたり(以下、もし間違えていたら申し訳ありません。現在手元に置いていない関係で記憶を辿っています)でオリジナルストーリーとなってしまった。
結果、ホムンクルスの正体は「人体錬成で作ったものの出来損ない」、真理の門(原作では「真理の扉」という別のものだった)は我々が住む「現実世界」と繋がっている。そして、錬金術の力の源は「現実世界の人の死の力」という原作以上にハードな展開となる。
主人公エドワード(以下エド)はアニメ最終回にて弟アルフォンス(以下アル)を錬金術世界に戻した結果、門の外=「現実世界」へと飛ばされる。
飛ばされた時から劇場版時までは約2年の月日を経ているようでエドは「ロケット工学の学生」というそれなりに現実世界で生きる場所を得ている(ロケット工学を選択したのは1920年代においてロケット工学は最先端技術出会ったからだと思われる)
とはいえ、エドはその約2年の間に元の世界に戻るという目標を諦めている状態となる。2年の間に何も元の世界に戻る手掛かりを手に入れることがなかったからだろう。
そんな彼にたまたま降りかかったロマの少女との出会い(冒頭でその少女と出会っているがエドは深く関心を寄せていないように見える。救い出した後、故郷は何処かなどとロマに対して愚問とも取れる問いをしているから)これが劇場版ハガレンの冒頭となる。
どうやら作品自体は別作品のためプロットを立てていたものと融合させたものらしい。そのため物語の舞台が1920年代のドイツ(第一次世界大戦唯一の敗戦国かつナチスが台頭する直前というハイパーインフレかつ先の見えない現実に疲弊感を顕にした人々が映し出されている。作品中も彼らの色彩は色鮮やかでなくセピア調の色褪せた印象を受ける)と設定されている。
政治的な印象を強く受ける「現実世界」と比較して「錬金術世界」は対照的に色鮮やかに描かれている。物語の中盤、アルが街で「現実世界」より送られた鎧部隊と戦うこととなるが、かなりの被害を被った街であるものの「現実世界」と異なり色鮮やかに描かれている。1920年代のドイツよりはまだいいという対比だろうか。
結果としてエドは父の助け、アルはホムンクルスの手助けを借りて「真理の門」を開けることに成功する。だがそれは互いの世界が異なる世界に向かう道ができたこととなり、エドのみならず元から「現実世界」にいたエッカルトをも「錬金術世界」へと向かわせることとなる。
彼女はエドと対峙した際、このように語る。
「人は自分と違うものを認められない。拒絶し、畏怖する。それが戦争の始まりだ。」
民族闘争は全てこれに始まりこれに終わる。そう思わさ
れる発言であった。
エッカルトは自分がいる世界と異なる世界に住む人間に畏怖し、身勝手に攻撃し、多くの犠牲者を生んだ。
物語はエッカルトの敗北により、攻撃は行われることがいずれかなくなり、錬金術世界から現実世界への門はマスタング大佐(劇中では伍長)の手、現実世界から錬金術世界への門はエド・アルの兄弟により破壊されることとなる。
この物語はあくまでフィクションである。しかし、民族や人種による差別やそれに始まる戦争は現在でも繋がる。
今に繋がる民族人種闘争を深く考えさせられる。