アルチバルド・デラクルスの犯罪的人生のレビュー・感想・評価
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殺したい女
殺したいのに殺せない話と聞いて、「ああ、やってんな」と思った。家から出たいのに出られない、食事したいのにできない、女性をものにしたいのにできない…と、欲望が充足できない悪夢のような状況を好んで描いてきたブニュエルさんならではの納得のプロット(もっとも本作には原作があるようだが)。初めの家庭教師の唐突な死こそびっくりしたが、あとはお約束の展開なので「もっとやれ、どんどんやれ」という感じ。
最後は「モダン・タイムス」のラストシーンのパロディだろうか?さすがにステッキまで持っているとベタすぎると思ったのか、去っていく直前に投げ捨てるが。
女を殺したいのになぜか殺せない殺人愛好症男の奇妙な「自称連続殺人劇」。
同じKcinemaの「奇想天外映画祭3」で観た『銀河』が、宗教ネタのモンティパイソンのような笑劇として、めっぽう面白かった。未見のブニュエルに出逢う幸せに酔う一夜だった。
で、本作もわくわく感で胸を膨らませて視聴したのだが……少し期待が大きすぎたのか、あらすじだけですでに面白すぎて満腹してしまったからか、とくに前半はあまり乗りきれなかったかも。
たぶん、あえてハリウッドのメロドラマに寄せた作りを採用している割に、そこかしこにブニュエルらしい不条理さが漂っているのが、ストーリーの素直な理解を阻害するところがあって、「語り口」にこちらが慣れるまで時間がかかったということだろう。
(とくに、ヒロインに近づこうとする手練手管自体は分かりやすく描写される割に、彼の偏執や狂気、動機、性的妄想といった殺人淫楽者の内面は驚くほど掘り下げられない。「最初にこいつは殺人狂だって言ったろ、そう思って黙って観やがれ」くらいの乱暴さなんだよなあ…(笑))
ただ、主人公がアメリカ人ガイドと丁々発止のやり取り(フランスの小粋な艶笑譚でも読んでいるような才気煥発ぶり)を始めるあたりからは、がぜん面白くなってきた。
たぶん、ブルジョワジー批判だとか、生と死のエロティシズムみたいなお題目は脇に置いて、シチュエーション・コメディとしてその場その場のネタを愉しむのが、この映画の正しい鑑賞法なのだろう(それは他のブニュエル映画と同様である)。
ネタとしては、ブニュエルお得意の「やりたくても何故だかできない」シリーズの一篇である。
部屋から出られず、帰りたくても帰れない晩餐会の話『皆殺しの天使』。
バスの運行が妨害されまくるせいで、越したくても越せない峠の話『昇天峠』。
料理を食べたくても食べられない人たちの話『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』。
今回は「殺したいのに殺せない」殺人偏執狂の話だ。
『アンダルシアの犬』の時点ですでに明らかだったが、ブニュエルの「シュルレアリスム」は人体破壊欲求や身体(とくに脚)へのフェティシズムと強く結びついている。
なので、あまり強調されない部分ではあるが、彼の映画はスプラッタやショッカーとの親和性が強い。少なくともぼくはそう思う。
本作でも、「人体の生命喪失」「人体破壊」を描くブニュエルのセンスは、鋭利でヴィヴィッドだ。
まず開幕早々、流れ弾に当たった家庭教師がくずおれるシーンの残酷美に魅了される。
倒れるタイミングの唐突さと、糸の切れた操り人形のようにくしゃっとつぶれるえぐい倒れ方、そして卍形を成す奇妙な死体の形状。いずれも演出としてなかなか挑発的で、「人の身体が意志を喪って倒れる瞬間」の衝撃がまざまざと映像化されている。
逃げ出した尼僧がエレベーターシャフトに墜落して死ぬ描写も、非常に唐突かつ即物的で、1955年の映画であることを考えるとかなりホラー感がある。こういう、非業の死が唐突に訪れるショック性と、人体玩弄を目前で見せつける見世物感覚が、その後の『オーメン』のようなホラーで「目的化」していくことを考えると、ブニュエルの描く「死」の生々しさはじつに先駆的だ。
極め付きはマネキン人形を焼却炉で焼き殺すシーン。これがもう素晴らしい。
当時の映像倫理でいえば、人間が焼き殺される瞬間をアップで撮るなんてことはおよそご法度だったろうと思われるが、「じゃあ人形ならいいんだろ」と言わんばかりの居直りぶり。
蝋人形の顔面(当時のマネキンって蝋だったんだね)がどろどろと溶けていくようすは、まさに『魔鬼雨』『溶解人間』『ゾンゲリア』『レイダース』と後に続く「顔面溶解」映画の、まさにハシリではないですか。
ちょうどこの夏に吉祥寺の映画館でマリオ・バーヴァの『クレイジー・キラー 悪魔の焼却炉』(69)を観たばかりだが、まさか立て続けに「家に巨大な温室のある大富豪の快楽殺人鬼が温室備え付けの巨大焼却炉で女体を焼却処理しようとする」映画を観ることになろうとはね(笑)。
そういや、殺人シーンで不吉なオルゴールの音楽がなるってのはまさにアルジェントだし、女性の即物的な死なせ方も、直接イタリアのジャッロ映画につながってゆく要素かもしれない。
こうして考えてみると、本作の主人公たるアルチバルド・デラクルスは、嘲弄されるべき「ブルジョワジー」の一戯画(名前からして宗教的な含意もあるのかもしれない)であると同時に、ブニュエル自身の倒錯とオブセッションの投影された、ある種の分身なのではないかと思えてくる。
女体を破壊したい。人体を玩弄したい。
その内的欲求に「映画」という代替物、夢想の現実のなかで自ら応えてみせる行為は、相応の充足と同時に、何某かの物足りなさを残しもするはずだ。
それはちょうど、殺人欲求に駆られながら寸止めされ続けるデラクルスーー結果的に殺意は罪体を得て成就しても、肝心の「過程」を取り上げられた男と、一定の相似を成している。
この映画自体は、本国では有名な原作があって、それを主演男優がブニュエルのところに持ち込んできたという経緯で撮られたようだが、デラクルスの切実な懊悩に共感を得たからこそ、彼はこの企画を受けたのではないか。
本作のラストは、かなり適当且つ、いい加減だ。
僕はデラクルスが車にでも跳ね飛ばされて唐突に終わるくらいが終わり方としては綺麗かな、とか思いながら観ていたので、この狙いすました安直さと、関節外しのような素っ頓狂さにはまあまあ驚いた。
おそらく『第三の男』(49)のパロディとして企図されているのではないかと思うのだが、それにしても本当にこんな終わり方でいいんだろうか……。やたら飛ばしまくった「ここだけ変な」ライティングと、無声映画のように過剰な舞台がかった演出が、よけいになんともいえない気持ち悪さ、意図された違和感を増幅する。
あとから、この女優さんが撮影終了後まもなくして、恋の悩みで自殺した(ブニュエルの自伝による)
などときかされると、余計にこのとってつけたような、悪い夢を見ているかのようなハッピーエンドが、なんだか「怖い」ものに感じられてくるのは僕だけだろうか。
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