山の音のレビュー・感想・評価
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菊子(原節子)のお父さま(山村聡)
成瀬巳喜男映画『めし』に夫婦役で出演した 上原謙さんと原節子さんが 再び夫婦として出演していますが、今回は 別の二世帯家族の話で、舅である信吾(山村聡)が菊子(原節子)を大事にしているところが やや萌えポイントでした。もっとエッチな展開になるのかと 半ば期待も込めて ハラハラしながら観ました。
俳優の魅力は引き出されていたと思います。
もの悲しい映画に仕上がっていました。
一番邪悪なのは信吾
本作の原作は終戦から4年後の昭和24年に50歳の川端康成が発表を開始した小説ですが、未読です。昭和29年に映画は公開されています。
4人暮らしの尾形家が本作の舞台です。
・尾形信吾62(山村聡44)。鎌倉に立派な家を構える会社重役の男性。昭和24年に62歳の設定ですので、逆算すると明治20年生れということになります。53歳で開戦を迎えたので兵役未体験のはずです。
・信吾の妻、保子63(長岡輝子)
・長男、修一30代?(上原謙45)。父と同じ会社に勤める。本作中では言及されませんが、原作では復員兵の設定です。
・長男の妻、菊子20代?(原節子34)。
表面上は穏やかな家庭生活を送る尾形家ですが、信吾と修一の間にも、修一と菊子の間にも、深い断絶があるようです。一方義父の信吾と新妻菊子の間には、心の交流があるようです。菊子は信吾に対しては夫に見せない素敵な笑顔を向けます。
その原因はなんなのか。キーパーソンは修一です。彼は父信吾と異なり、無表情、無感動、無機質な印象の男です。献身的な妻菊子に対しても常に冷ややかな態度で接します。年下の妻のことを「子どもだ」と見下しており、夫婦の間に心の交流はないようです。さらに絹子という愛人がいることを父にも妻にも悟られていますが全く悪びれる様子もありません。人格破綻者というか、悪魔的人物のようにすら見えます。
どうして修一の心は死んでしまったのか。過酷な戦争体験のせいでしょうか。信吾が甘やかしたからでしょうか。よく分かりません。
修一は父の秘書である若い女性、谷崎を「ホール」に誘います。映画では描かれませんが、そこは金で酒、音楽、女を提供する享楽の場でしょう。さらに修一は谷崎を「愛人の家」にまで連れていきます。その家には二人の若い戦争未亡人、絹子と池田が同居しています。池田、絹子を相手に酒を飲み横暴に振る舞う修一の様子が語られます。
この4人の関係性が極めて異常かつ不自然です。いくらなんでも会社の同僚を自分の愛人の家に連れて行ったりするでしょうか。修一の動機が分かりません。
絹子は洋裁で身を立てている若い戦争未亡人。同居の池田は近所の子どもたちに勉強を教えて糊口をしのぐ若い戦争未亡人。若い二人の女声が身を寄せ合って厳しい戦後を生き抜いているように見えます。では絹子はなぜ修一の愛人になったのか。金にもならないし妻にもなれない。動機が不明です。生きることに必死な時代に修一のような男と不倫しても絹子にはなんのメリットもないはずです。
まるで中高年男性が考える「理想の嫁」像として造形されているような菊子といい絹子といい、女性キャラが不自然すぎるのは本作の欠点です。男性作家の限界でしょうか。その点、林芙美子原作の映画「めし」の女性たちにはリアリティがありました。
修一や絹子の倫理観に欠けたふるまいは日本的価値観で見れば、戦争に負けて日本人の心が荒んでしまったということでしょう。キリスト教的価値観に立てば、悪魔の誘惑に負けてしまったと見ることもできます。「ホール」は悪魔の巣窟であり、絹子と池田も悪魔崇拝者であり、修一はまんまと悪魔の誘いにハマってしまい、さらに修一を使って谷崎をも悪の世界に引きずり込もうとしている、そんなアリ・アスター的解釈も可能ですが、もちろんそんな描写はありません。
では本作の登場人物の中で一番邪悪なのはだれでしょうか。私は意外に父の信吾も候補に上がる気がします。明治生まれにしては物わかりが良すぎるし、嫁にも優しい信吾。山村聰が演じているので一層「いい人」キャラに見えますが、その本質を妻だけは見抜いており、「あなたは残酷よ」と彼に告げます。彼の優しさは自分のためであり、自分のためとは菊子に慕われることであり、そのためには修一と菊子の夫婦仲は悪い方がいい。本当に彼が菊子のことを考えるなら信吾は修一をぶん殴ってでも絹子と別れさせるはずですが、なぜか彼はなかなか動こうとせず、事態を生ぬるく見つめるだけです。あるいは子どもができる前に二人を別れさせるべきでした。なぜそうしないのか。それは菊子がつらいほど、信吾自身にとっては都合がいいからです。最終的に信吾は菊子を自由にしますが、「手紙を書いてくれ」だの「自分は故郷の土になる」だの同情を誘うセリフを口にし、未練タラタラの様子。「若く美しい新妻に慕われたい」という初老の男たち(川端康成、成瀬巳喜男)の妄想というのは、ホントに気色の悪いものです。しかし息子修一を演じた上原謙の方が父信吾を演じた山村聰より年上だとはびっくりでした。
川端康成原作なれど結構世間並みの話
『雪国』しか読んだことがありません。
ノーベル賞作家、川端康成の原作小説を映画化した人気女優・原節子の主演作品。
小説は読んでいないが、いろいろと違いがあるらしい。
戦争の傷跡を痛々しく引きずる日本という原作の重要なテーマはほとんど登場せず、修一が復員兵ゆえのトラウマを抱えると示唆する場面もない。なので、里帰りしてきた房子の自己チューな性格も含め、親の躾が悪かったせいとしか思えない。
原作や川端のファンは内容に不満が募るだろうし、原作を知らなくても釈然としない作品。『山の音』というタイトルの意味も映画を観ただけでは伝わらない。
尾形信吾を演じた山村聰は自分が知ってる堂々とした声でなく、老けメイクをしても違和感を感じる。それ以上に違和感があるのが、実年齢が一つしか違わない上原謙の父親役というキャスティング。
敗戦にまつわる原作の要素を割愛したことも含めて理由が知りたい。
夫・修一の不倫と冷淡さに耐え続ける菊子がただただ健気。トラウマを抱える復員兵という前提無視を了解の上での演技だとしたら、上原の身勝手振りも秀逸。
『映画と小説の密な関係-文芸作品特集』にて鑑賞。
於:京都文化博物館フィルムシアター
父親と息子の嫁との異性としての想いが、今一つ明確に感じられず…
成瀬巳喜男映画を少しまとめて観てみようと
思い立ち、「めし」に続いて再鑑賞した。
初老の男性の息子の嫁への想いを
描いていたとの観点以外は、
内容をすっかり全く忘れてしまっていたが、
「めし」と同じ上原と原節子が夫婦役で、
しかも夫の想いが妻以外に向いているという
同じ構図には驚かされる。
私がこの作品で一番気になったのは、
性悪的な血筋の系図として
“母→長男と長女→孫娘”
の設定が強く感じられる違和感と、
長男の浮気相手の描写が
丁寧過ぎる点だった。
また、解説にあるような、
父親と息子の嫁との異性としての想いが
ラストシーンにこそ
感じ取れないこともなかったものの、
全般的には父性愛と思慕愛的にしか
感じられず、川端康成の原作は
もっと色濃く描写されていたのだろうか。
そして、離婚して信頼する夫の父との別れを
示唆するエンディングには、
なかなか希望を見出せない戸惑いも。
それにしても、
この時代の原節子の活躍は想像を絶する。
日本の4大映画監督と言われる、
黒澤・小津・溝口・成瀬全監督の作品に
次々と主演していたことには
改めて驚かされるばかりだ。
嫁二ー
川端康成の原作のテーマを換骨奪胎し、小津作品へのアンチテーゼというべき作品テーマになっています
よく川端康成からクレームが入らなかったものだと思います
決定的に違うのではないかと思います
例えば能面をなぜ菊子が被らずに、秘書の谷崎女史が被ってしまうのか?
信吾が能面に接吻するシーンもありません
能面の持つ意味が無意味になってしまいます
それなら能面のエピソードは丸ごとカットした方がまだましです
だいたい題名の山の音はどこにいったのでしょう?
それはもちろん台風の夜となっているのでしょう
でもそれでは意味合いがこれまた決定的に違います
菊子の鼻血シーンの前の早朝の鐘の音でももちろんありません
ただ川端康成の原作であることだけを示しているだけで消え去っているのです
成瀬監督ほどの実力と手練れならば、原作小説の映画化を高い水準で実現できるはずです
これは狙ってやったことです
そうとしか思えません
原節子と上原謙の夫婦の映画
それは本作の3年前1951年の成瀬監督のめしでもそのコンビでした
その作品では夫婦愛を高らかに歌い上げた作品でした
一方本作では真逆です
そしてその鎌倉を舞台にした原作小説にかこつけて、松竹の小津作品の体裁で撮っているのです
タイトルバックの雰囲気
鎌倉の屋敷のセット
横須賀線の車内シーン
小津作品のオマージュだらけです
明らかに狙ってやっています
確信犯です
原節子は小津作品には本作撮影までの時点で、
1949年の晩春、1951年麦秋、1953年の東京物語の3本に主演しています
3本とも父と娘の愛情がテーマです
そして本作は義父と嫁の隠された愛情がテーマに据えられいます
つまり川端康成の原作の信吾中心のテーマはうっちゃられていて換骨奪胎した、小津作品へのアンチテーゼというべき作品テーマになっています
それが目的の映画であったような気がしてなりません
何故に秘書の谷崎女史にあれほど出番があり、存在感が与えられているのか?
谷崎女史は自立した女性です
外見からも笑顔のない小さく胸の薄い女性として配役されています
それも孤独でいつもどことなく不機嫌な女性として設定されています
終盤の後任秘書と比べるとハッキリします
谷崎女史は、修一の浮気相手でシングルマザーを選択した絹子と同じ種類の女性です
見た目まで似せてあります
しかし彼女は、あくまでと秘書として一人の女性として、信吾からも修一からも扱われていません
なのにこの二人からプライベートに深く関与させられているのです
能面まで被らされています
つまり菊子の代用品という意味なのです
彼女は二人から菊子の代用品としてあつかわれているのです
信吾は彼女を通して菊子を見ています
修一は彼女に菊子への不満をぶつけて連れまわしています
その上、彼女と容貌の似た絹子と性的関係を持ちそれを彼女に見せつけているのです
菊子に出来ないことを谷崎女史にしているのです
しかし両名からは、あくまで会社の備品と見なされて性的には一切女性としてあつかわれないのです
だから彼女は不機嫌で最終的にはやり切れずに会社を辞めてしまうのです
そうしてそんな人間扱いされない立場から、自由になろうと自ら行動する女性なのです
見方をかえれば、家庭における菊子と同じ立場なのです
つまり菊子と谷崎女史は鏡の両面だったのです
のびのびするね
ビスタに苦心してあって、奥行きが深く見えるんですって
ビスタって何だ?
見通し線というんですって
ラストシーンのこの会話に、成瀬監督が原作小説のテーマとは別に本作のテーマに据え直したものが何か凝縮されていると思います
人間がのびのびと生きる新しい時代であるべきだ
女性も社会と未来を見通して自立を果たして欲しい
そう成瀬監督が言っているように聞こえます
誰に?
小津作品の中の原節子が演じる窮屈そうな女性へのメッセージなのだと思います
本作の菊子のように自由に生きなさい
女性も自由に生きてよいのだ
戦後とはそういう時代なのだ
そういう成瀬監督の言葉なのです
本作は川端康成の原作にかこつけて、テーマを換骨奪胎した作品だったのだと思うのです
時代は違っても男女関係のドロドロぶりは同じですね。 美人妻(原節子...
時代は違っても男女関係のドロドロぶりは同じですね。
美人妻(原節子)がいるのに外で女を作るゲス男(上原謙)。しかし、昔のゲスは今ほど叩かれません。女の方が耐え忍ぶばかり。このゲス男、しっかり両方に子どもを…上原謙が布団から原節子を呼ぶ。そんな描写は全くないのに妙にエロさがあります。
この不憫な妻を優しくするのが義父(山村聰)。美人妻の方もまんざらではなさそう。やばい、やばすぎる、もはやこれはAVのストーリーではないか(笑)
今ほど簡単に女体を拝めぬ昔の男は、こんな作品でエロの欲望を抑えていたのかもしれない(笑)
川端康成、谷崎潤一郎、そんな作品が多々ありますよね、そんな作品を純文学と言っていいのか?(笑)
●身籠る女性の決心。
小津「晩春」との対比
成瀬巳喜男の映画にしては珍しく、登場人物たちは鎌倉の邸宅から東京へ通勤する上流階級の人々。山村總を笠智衆に変えたらそのまま小津安二郎の作品になりそう。
いや、むしろ成瀬はそのような小津の世界を意識してこの作品を撮ったに違いない。小津映画にも出てくる、鎌倉から東京までの横須賀線の車窓の描写が克明であるのも、その証左ではなかろうか。
山村と原節子が電車で東京へ向かうシークエンスでひときわ印象的なのは大森のガスタンクである。空席が無く当初は立っていた二人がこのころには席を得て座っている。つまり、横浜で空いた席に原がまず座り、次に川崎で空いたので山村が座っているらしいことが、このことから分かるのだ。
また屋内の撮影で、廊下にカメラを固定して人物が出入りするシーンが多用されているところも、ここだけを観れば小津の画そのものである。
そんな小津風味の中で成瀬映画の刻印を残しているのは中北千枝子である。婚家から子供二人を連れ帰ってきた中北が風呂敷に荷物を詰め込み、下の子(なんであんなに巨大な赤ちゃんなのか???)をおぶって髪を振り乱しているのは、小津調の世界にいきなり乱入する成瀬調である。
しかし、成瀬は単に小津の真似ごとをしたわけではない。山村と原が家の前の通りを二人並んで歩く冒頭と終盤のシーンの美しさはまぎれもなく成瀬のものである。移動カメラが陽の光に照らされる二人の容貌を的確にとらえる。屋外の撮影で自然光が美しく被写体を照らし出すシーンを固唾を飲んで見入ってしまう。
それにしても、一歩間違えると老人の、息子の嫁に対する醜怪な欲望の話になりかねないものを、水木洋子の脚本のなせるわざか、清廉な舅と嫁の絆として描いている。
原の山村に対する想いが、単なる舅への敬愛や尊敬に収まるものではないことが、その目で訴えられている。これは、小津の「晩春」において、娘役の原が父親の笠に旅館の一室で離れたくないと想いを吐露するシーンと同じく、非常にエロティックである。
思えば、「晩春」の父娘も鎌倉に住み、東京へ通勤する人々であった。
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