山の音のレビュー・感想・評価
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父親と息子の嫁との異性としての想いが、今一つ明確に感じられず…
成瀬巳喜男映画を少しまとめて観てみようと
思い立ち、「めし」に続いて再鑑賞した。
初老の男性の息子の嫁への想いを
描いていたとの観点以外は、
内容をすっかり全く忘れてしまっていたが、
「めし」と同じ上原と原節子が夫婦役で、
しかも夫の想いが妻以外に向いているという
同じ構図には驚かされる。
私がこの作品で一番気になったのは、
性悪的な血筋の系図として
“母→長男と長女→孫娘”
の設定が強く感じられる違和感と、
長男の浮気相手の描写が
丁寧過ぎる点だった。
また、解説にあるような、
父親と息子の嫁との異性としての想いが
ラストシーンにこそ
感じ取れないこともなかったものの、
全般的には父性愛と思慕愛的にしか
感じられず、川端康成の原作は
もっと色濃く描写されていたのだろうか。
そして、離婚して信頼する夫の父との別れを
示唆するエンディングには、
なかなか希望を見出せない戸惑いも。
それにしても、
この時代の原節子の活躍は想像を絶する。
日本の4大映画監督と言われる、
黒澤・小津・溝口・成瀬全監督の作品に
次々と主演していたことには
改めて驚かされるばかりだ。
嫁二ー
2022年7月2日
映画 #山の音 (1954年)鑑賞
#川端康成 原作、#成瀬巳喜男 監督、#原節子 主演作品
原作は、文壇でも好評で、海外でも評価が高い作品みたいです。
こういう不幸な役は原節子さんのイメージにピッタリ合いますね
#上原謙 さんの方が #山村聰 さんより年上なのに、息子役とは凄くない?
原作の根底にある戦争文学の要素を抜き去った中途半端な映画化
1 戦争文学としての「山の音」
川端康成の原作小説は昭和24年から29年に書かれ、29年に映画化された。第二次大戦終了から10年も経ない、戦火の記憶が生々しく、そして敗戦後の連合国軍による言論統制等で社会、時代思潮が大きく変貌していく時期に当たる。
主人公の信吾は62歳、息子の修一は若い嫁を迎えたが、すぐに浮気して女をつくったり、会社事務員の女性とダンスホールなどで遊びふけっている。嫁はまもなく妊娠するが、亭主に女がいる間は産みたくないと中絶してしまう。他方、女のほうも妊娠するが、彼女は別れてもいいから産むと固く決心している。
この事態に修一は、浮気相手の元から嫁の堕胎費用を持ち出したり、別れた後に女が子供を産もうがどうしようがどうでもいいという態度である。
信吾は彼らを非難し、女には堕胎するよう説得に行き、修一にはその良心を責める。これに対する2人の答えは、次のようだった。
女「自分たちは夫が戦争に行っても辛抱していた。死なれた後の私たちはどうなのか。戦争未亡人が私生児を産む決心をしたのだ。生まれた子供は、修一が戦争で南方へ行って、混血児でも残してきたと思ってくれればいい」
修一「浮気相手から落とし子が生まれてくるかもしれない。それと知らずに別れるかもしれないが、それくらい耳のそばを通る鉄砲玉にくらべたら何でもない」「自分の嫁だって、兵隊でも囚人でもなく自由だ」
これに対して老年の信吾は有効な反論ができないどころか、むしろ家長として息子の嫁や女の問題を解決しようとあくせくしてきた自分を反省。むしろ嫁に向かって「修一の発言は、わたしもお前をもっと自由にしてやれという意味だろう」と語り、息子夫婦と別居の決意を固めるのである。
また、修一の姉房子は子供2人を連れて実家に出戻ってきていたが、亭主は麻薬常習者であり、離婚届を送り付けてきたと思うや、そのまま別の女と心中してしまう。彼女も最後は信吾の元を離れて、店を持つつもりでいる。
要は、戦火の記憶も生々しい時代、戦争体験の影響や戦後思潮の変動で、旧来の家族が解体されていく物語が原作なのである。それを友人、知人たちの死とともに訪れる自己の死の予感や、嫁に対する淡い性的な願望などの中で、主人公は受容していく。
「川端作品は性的であっても性欲的ではない」と評したのは吉本隆明だが、本作もその典型で、信吾は嫁に性的に惹かれはしても決して性欲的にはならず、いわば生の残り火のようなものである。
総じていえば、原作小説は大衆社会が戦後をゆっくりと受容していくさまを描いた作品だといえる。
2 映画化作品について
1の映画化である本作は、その小説の柱となっている戦争の傷跡や時代思潮をすべて捨象してしまい、例えば小津安二郎作品のように普遍的な家族の物語ででもあるかのように描いてしまった。
修一とその浮気相手の背景にある荒んだ精神状況や、房子の亭主の麻薬中毒といった悲惨な時代背景が何一つ描かれていないどころか、房子の亭主は元気でぴんぴんしていることになっている。
するとその後に残るのは浮気性の息子とそれに傷ついた若嫁の中絶、それを悔やんだ息子の浮気相手との別れ、信吾夫婦、修一夫婦、そして房子夫婦のそれぞれの家族再出発――という、どれも中途半端で脈絡のない話である。そこには特に深い感慨も、再出発の希望も感じられないではないか。
原作小説を読まずに本作を見た人は、なんと出来の悪い小津作品のコピーかと断ずるだろう。その感想が正しいのだと思う。
川端文学の映像随筆にみる成瀬監督の演出美、そこにある日本人の美と醜さ
川端文学の映画化である。増村保造監督作の「千羽鶴」で感じた日本人の性の陰鬱な雰囲気が、それ以上の生きる苦しみとなって、日本人の性が悲惨な姿として浮かび上がってくる。“山の音”とは、そんな人間の心の奥底に潜む“こんなはずではなかった”という、囁きと呟きなのではないか。テネシー・ウィリアムズがアメリカ人の滲み出るセックスエネルギーを大胆に暴露した、またはイングマル・ベルイマンが北欧の突き詰めた性の破綻を描いた其々の様に、この映画で観られる川端文学の作意は、日本人的な奥ゆかしさに潜む性意識を主題として、それが成瀬監督の人間凝視に繋がる。そこには、全ての登場人物の生の存在価値を認める広い人間愛で描かれた美しさがある。しかし、それはまた、同時にグロテスクな淫靡さも感じさせる。
登場人物は古都鎌倉に住む上流階級の家柄にあり、親子二代で東京の会社に勤めている。外観では戦後復興の貧しさから遠く、この上もなく平和で静寂な日常を過ごしている。しかし、その息子は上品で美しい女性を娶りながら、夜の生活に不満を抱え東京に愛人を作り、毎日のように午前帰りをしている。と言って、それを問い詰めたり非難したりする妻ではない。両親も息子の浮気を承知していながら、咎めることも無い。そんな虚飾にある家庭の中に、娘が子供二人を連れて戻って来る。その理由が夫の浮気問題である。勝気で色気のないこの娘は、その身の上を親の所為にして兄嫁の美しさに嫉妬する。この娘の相手構わず投げやりな発言が、物語全体への挑戦であり、唯一の喜劇的要素になっている。
物語は劇的な展開もなく、父親の人生の悟りを窺わせる程に物静かに落ち着いた筆致で描き通している。映画文学に徹した成瀬監督の演出が美しく見事であった。しかし、原節子演じる妻の自我の良心を少しも崩さず、ただ苦しみを受け入れる女性像の在り方に共感は難しく、夫の自由気ままな快楽主義を許せない観方も残る。これは、映画の魅力を突き詰めたというより、川端文学の主題に添った映像随筆と言えるだろう。その長短の評価は、人によって大分別れるのではないだろうか。
1979年 9月17日 フィルムセンター
川端康成の原作のテーマを換骨奪胎し、小津作品へのアンチテーゼというべき作品テーマになっています
よく川端康成からクレームが入らなかったものだと思います
決定的に違うのではないかと思います
例えば能面をなぜ菊子が被らずに、秘書の谷崎女史が被ってしまうのか?
信吾が能面に接吻するシーンもありません
能面の持つ意味が無意味になってしまいます
それなら能面のエピソードは丸ごとカットした方がまだましです
だいたい題名の山の音はどこにいったのでしょう?
それはもちろん台風の夜となっているのでしょう
でもそれでは意味合いがこれまた決定的に違います
菊子の鼻血シーンの前の早朝の鐘の音でももちろんありません
ただ川端康成の原作であることだけを示しているだけで消え去っているのです
成瀬監督ほどの実力と手練れならば、原作小説の映画化を高い水準で実現できるはずです
これは狙ってやったことです
そうとしか思えません
原節子と上原謙の夫婦の映画
それは本作の3年前1951年の成瀬監督のめしでもそのコンビでした
その作品では夫婦愛を高らかに歌い上げた作品でした
一方本作では真逆です
そしてその鎌倉を舞台にした原作小説にかこつけて、松竹の小津作品の体裁で撮っているのです
タイトルバックの雰囲気
鎌倉の屋敷のセット
横須賀線の車内シーン
小津作品のオマージュだらけです
明らかに狙ってやっています
確信犯です
原節子は小津作品には本作撮影までの時点で、
1949年の晩春、1951年麦秋、1953年の東京物語の3本に主演しています
3本とも父と娘の愛情がテーマです
そして本作は義父と嫁の隠された愛情がテーマに据えられいます
つまり川端康成の原作の信吾中心のテーマはうっちゃられていて換骨奪胎した、小津作品へのアンチテーゼというべき作品テーマになっています
それが目的の映画であったような気がしてなりません
何故に秘書の谷崎女史にあれほど出番があり、存在感が与えられているのか?
谷崎女史は自立した女性です
外見からも笑顔のない小さく胸の薄い女性として配役されています
それも孤独でいつもどことなく不機嫌な女性として設定されています
終盤の後任秘書と比べるとハッキリします
谷崎女史は、修一の浮気相手でシングルマザーを選択した絹子と同じ種類の女性です
見た目まで似せてあります
しかし彼女は、あくまでと秘書として一人の女性として、信吾からも修一からも扱われていません
なのにこの二人からプライベートに深く関与させられているのです
能面まで被らされています
つまり菊子の代用品という意味なのです
彼女は二人から菊子の代用品としてあつかわれているのです
信吾は彼女を通して菊子を見ています
修一は彼女に菊子への不満をぶつけて連れまわしています
その上、彼女と容貌の似た絹子と性的関係を持ちそれを彼女に見せつけているのです
菊子に出来ないことを谷崎女史にしているのです
しかし両名からは、あくまで会社の備品と見なされて性的には一切女性としてあつかわれないのです
だから彼女は不機嫌で最終的にはやり切れずに会社を辞めてしまうのです
そうしてそんな人間扱いされない立場から、自由になろうと自ら行動する女性なのです
見方をかえれば、家庭における菊子と同じ立場なのです
つまり菊子と谷崎女史は鏡の両面だったのです
のびのびするね
ビスタに苦心してあって、奥行きが深く見えるんですって
ビスタって何だ?
見通し線というんですって
ラストシーンのこの会話に、成瀬監督が原作小説のテーマとは別に本作のテーマに据え直したものが何か凝縮されていると思います
人間がのびのびと生きる新しい時代であるべきだ
女性も社会と未来を見通して自立を果たして欲しい
そう成瀬監督が言っているように聞こえます
誰に?
小津作品の中の原節子が演じる窮屈そうな女性へのメッセージなのだと思います
本作の菊子のように自由に生きなさい
女性も自由に生きてよいのだ
戦後とはそういう時代なのだ
そういう成瀬監督の言葉なのです
本作は川端康成の原作にかこつけて、テーマを換骨奪胎した作品だったのだと思うのです
・旦那との仲はイマイチでも親との関係がいいから耐えられるのか ・嫁...
・旦那との仲はイマイチでも親との関係がいいから耐えられるのか
・嫁といい舅といい、はっきり言いきらないから周りにも誤解されやすくてイライラする
・イライラしてる自分は思うツボなんだろなぁ
時代は違っても男女関係のドロドロぶりは同じですね。 美人妻(原節子...
時代は違っても男女関係のドロドロぶりは同じですね。
美人妻(原節子)がいるのに外で女を作るゲス男(上原謙)。しかし、昔のゲスは今ほど叩かれません。女の方が耐え忍ぶばかり。このゲス男、しっかり両方に子どもを…上原謙が布団から原節子を呼ぶ。そんな描写は全くないのに妙にエロさがあります。
この不憫な妻を優しくするのが義父(山村聰)。美人妻の方もまんざらではなさそう。やばい、やばすぎる、もはやこれはAVのストーリーではないか(笑)
今ほど簡単に女体を拝めぬ昔の男は、こんな作品でエロの欲望を抑えていたのかもしれない(笑)
川端康成、谷崎潤一郎、そんな作品が多々ありますよね、そんな作品を純文学と言っていいのか?(笑)
●身籠る女性の決心。
原作、川端康成・監督、成瀬巳喜男。スゴイな。
やさしい舅に健気な嫁。それでも息子は女をつくる。
アンバランスな三角形はやがて崩れていく。
戦後10年ほど。時代を感じつつ、ここまで復興したってのはまたスゴイ。そして、人の営みは大きくは変わらないものだ。もちろん、女性の立場は飛躍的に向上したけど。
東京物語のイメージが強く、やっぱり原節子は耐え忍ぶ役がハマるなあと思ってしまう。
小津「晩春」との対比
成瀬巳喜男の映画にしては珍しく、登場人物たちは鎌倉の邸宅から東京へ通勤する上流階級の人々。山村總を笠智衆に変えたらそのまま小津安二郎の作品になりそう。
いや、むしろ成瀬はそのような小津の世界を意識してこの作品を撮ったに違いない。小津映画にも出てくる、鎌倉から東京までの横須賀線の車窓の描写が克明であるのも、その証左ではなかろうか。
山村と原節子が電車で東京へ向かうシークエンスでひときわ印象的なのは大森のガスタンクである。空席が無く当初は立っていた二人がこのころには席を得て座っている。つまり、横浜で空いた席に原がまず座り、次に川崎で空いたので山村が座っているらしいことが、このことから分かるのだ。
また屋内の撮影で、廊下にカメラを固定して人物が出入りするシーンが多用されているところも、ここだけを観れば小津の画そのものである。
そんな小津風味の中で成瀬映画の刻印を残しているのは中北千枝子である。婚家から子供二人を連れ帰ってきた中北が風呂敷に荷物を詰め込み、下の子(なんであんなに巨大な赤ちゃんなのか???)をおぶって髪を振り乱しているのは、小津調の世界にいきなり乱入する成瀬調である。
しかし、成瀬は単に小津の真似ごとをしたわけではない。山村と原が家の前の通りを二人並んで歩く冒頭と終盤のシーンの美しさはまぎれもなく成瀬のものである。移動カメラが陽の光に照らされる二人の容貌を的確にとらえる。屋外の撮影で自然光が美しく被写体を照らし出すシーンを固唾を飲んで見入ってしまう。
それにしても、一歩間違えると老人の、息子の嫁に対する醜怪な欲望の話になりかねないものを、水木洋子の脚本のなせるわざか、清廉な舅と嫁の絆として描いている。
原の山村に対する想いが、単なる舅への敬愛や尊敬に収まるものではないことが、その目で訴えられている。これは、小津の「晩春」において、娘役の原が父親の笠に旅館の一室で離れたくないと想いを吐露するシーンと同じく、非常にエロティックである。
思えば、「晩春」の父娘も鎌倉に住み、東京へ通勤する人々であった。
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